第六話 その兄、溺愛ゆえに
お兄様の吐息が私の首元にかかってきて、ぞくりとさせる。
甘い雰囲気だからか、それとも自分の正体や秘密がバレてしまったからか。
その先の得体の知れない「恐怖」を感じて、私は動けなくなった。
何か言わなければ怪しまれると思った私は、乾いた笑いと共に彼に告げる。
「お兄様、何を言ってるの?」
「君は明らかに変わった。話し方も仕草も、私の知っている妹ではない。君はだれ?」
私はごくりと息を飲んで、瞬きを一つしてみると、再び鏡越しのお兄様と目が合った。
私の濃い紅色の目と似ている赤い瞳──。
その端正な顔に隠れた、彼の恐ろしい「顔」を思い出したのだった。
彼は一見すると柔和な性格でその見目麗しさから、多くの女性が憧れの眼差しを向けるような存在だが、一方で自分の敵と判断したものに容赦がない。
そんな一面を私は「知っている」。
私が尋常小学校で、ある令嬢の嫉妬を買ってしまって彼女に怪我をさせられた時があった。
その時、お父様は「お前が何かしたのだろう」と私を心配する素振りを見せず、取り合わなかった。
しかし、お兄様だけは違ったのだ。
その令嬢の邸宅へ行き、令嬢の親と令嬢本人を私の元に連れてきて土下座させたのだ。
当時中等部生であったお兄様にその親子は怯えて、ガタガタと身体を震えさせながら私に謝った。
結局、その令嬢はなぜかそのまま退学して、その行方を私は知らない。
そんな昔のことを突然思い出して、冷や汗をかく。
彼は「敵」と判断したものに容赦はしない。
ここで、もし私を敵と判断したらどうなるのだろうか。
即断罪で斬り捨てられたりするのかも……!?
いや、そんなの嫌だ!
私は生き残りたいし、できるなら静かに生きたいが……悲しいかな、この時代への適応はまだ済んでいない。
ひとまずなんとかその場しのぎではあるかもしれないけど、乗り切るしかないと私はとぼけてみる。
「そ、その……だれ、とは?」
「君は由姫じゃない。そうだろう?」
えーー!!!
すごいもう核心まで迫られてしまっているではないか!
恐るべしお兄様の勘というべきか。
いや、拓斗も同じように怪しんでたし、さすがに人格が変わったら隠すのは難しいかもしれない。
それなら、と私は目を逸らしながら必死に訴えてみる。
「えっと、その……神様のお告げをいただいて!!」
「神様……?」
私は震えそうになる体を抑えながら、必死に笑顔を作って言葉を続ける。
「そうなんです! 『お前はこのままだとアヤカシに討たれて死んでしまうから、生まれ変わって優しくしなさい』って言われたんです!!」
いや、間違ってはいないけど、ちょっと苦しすぎる言い訳ではないだろうか。
そんな私の言い分を聞き、お兄様の瞳が細められた。
私は自分の死を覚悟したが、お兄様からは意外な返答が返ってくる。
「ふふ、よかった」
「……へ?」
私は素っ頓狂な声をあげてしまう。
「アヤカシにとりつかれてしまったのかと思ってね。いつものちょっとおバカな由姫で安心したよ」
「え、ええ! そうでしょう!?」
いや、私のことおバカだと思ってたの!?
かなりお兄様には溺愛されてるな、って思ってたけど、まさか本当はそんな風に思っていたなんて知らなかったわ。
「あ、私、拓斗の様子見てくる!」
「え」
「じゃあ、お兄様! ちゃんと出勤してね!?」
「ふふ、わかったよ。そういうことにしといてあげる」
私はお兄様の手を振りほどいて部屋を後にした。
ドクドクと音を立てている鼓動を抑えるようにしながら、廊下を急ぎ足で歩いた。
なんだか最後の言葉からして見逃されている感があったけど、気のせいよね。
そんな風に考えながら曲がり角のところで気づく。
あ、しまった……普段着で来てしまった。
私は出勤の時に着る着物ではなく、紬で来てしまったことに気づいたが、もう部屋には戻れないのでそのまま拓斗がいるであろう医務室に向かった──。
医務室のベッドには、頭に包帯をして本を読んでいる拓斗がいた。
「拓斗っ!」
「由姫、目が覚めたのか」
「はい、あの、連れて帰って下さり、ありがとうございました」
私は寝ている拓斗に深々と礼をすると、本をぱたりと落とす音が聞こえてきた。
「なっ! お前が謝るなんて、どういう了見だ!?」
拓斗は私のほうを指さしながら訴えかけた。
「だからっ! 私は生まれ変わることにしたんです!」
「その変な敬語もか?」
「はい、これからは皆さんのお役に立つ立派な人間になります!」
先程の威勢の良さを失った拓斗に、私は立派に宣言してみせた。
私はこのゲームの悪役令嬢である音羽由姫に生まれ変わってしまったのだ。
乙女ゲームをこれまでたくさんしてきたが、ヒロインをいじめたやつは散々な目にあっている。
きっと私もその断罪ルートをたどるのだ……たぶん。
拓斗は眉をひそめてこちらを見てきている。
彼は少し考える仕草をして私に何かを言おうとしたが、そこでもっと嫌そうな顔になった。
「拓斗?」
不思議に思った私は拓斗に声をかけたが、彼が見ていたのは私ではなかった。
「なんでてめえがここにいんだよ」
「……え?」
私からいつの間にか逸らされた視線の先を見るために振り返ると、そこにはアシンメトリーな黒髪の男の人が立っていた。
「楓……」
私と拓斗を見ているその瞳は、茶色と青で片方ずつ色が違っていた──。
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