第28話 台所
ざくざくざく。玉ねぎがまな板の上で小気味よい音を立てる。料理でもしていると、少しは気が紛れるような気がした。私が料理を担当して、買い物の内容をいろいろと指示するようになってからは、空に近かった冷蔵庫も多少充たされていた。今夜のメニューは、生姜焼きとサラダ、味噌汁だ。シンプルだが、ちゃんと生の生姜を刻んだり、味噌汁を具だくさんにしたりして、満足感をプラスする。こんな生活でも料理にこだわるのは、私にとってはそれが唯一のアクティビティであり、同時に食事がほとんど唯一の娯楽であったからだ。それに、頭を使わなすぎると時間が普段の何倍ものスピードで流れていくような感覚になる。私はそれが嫌いだった。時間をどんどんと食いつぶしてしまうくらいなら、まだどうしようもない滞留を感じている方がマシだった。
台所には鍵がない。私はどう監視されているかと言えば、カップ麺の入った段ボールの上にミルクティー片手に腰掛けている紅子ちゃんに眠たげな目で見られているだけだ。私は手に握った包丁を眺めた。これがあれば、あるいは。何度も考えたことだ。しかし、それは私が最も軽蔑している行為だった。いかなる理由があっても、自分が殺されるとしても、それだけはできない。殺さない程度に使えば逃げられるかも、と思ったこともあるが、中途半端なためらいのある状態で殺人鬼に挑めば、こちらの死は確実だ。それだったら、何も行動を起こさないで、ただただ成り行きに任せるのが正解だと思えた。
「なぁ、まだか」
「見たらわかるでしょ。どうせ逃げたりしませんから部屋に戻ったらどーですか」
「違う。腹が減った」
私は苦笑した。この女はすこぶる頭が悪い。よくもまあ、自分を恨んでいるであろう相手の手料理など食えたものだ。しかも、それを待ち望んでいるとは。それだけ人を疑うことを知らない人が見つからずに何件も殺人事件を起こすとは信じがたい。いや、それでいて紅子ちゃんは人間不信のようなところがある。他人をすぐ信用してしまうというより、被害者に対して、あるいは私個人に対して、自分が殺されてもおかしくないほど恨まれるようなことをしているという自覚が足りないのだろう。
「とにかく、待ってて。カップラーメンでも食べてれば」
「ううん。待つ」
ちょっと駄々をこねる子どものような態度だった。私は彼女のことをある程度無視して、手元に集中することにした。
「なぁ、暇だよ」
私は特に返事をしない。するだけ無駄である。一人になれる時間はあるものの、自由が効く時間などほぼないのだ。料理に集中できる今くらい、彼女からの情報は遮断して置いた方が心のために良いだろう。
「ねぇ、律」
玉ねぎが崩れた。少し細かく刻みすぎたかもしれない。
「おい、聞いてんだろ」
しまった。先に味噌汁の具を切っておけばよかった。そうしたら生姜焼きを作る前に味噌汁をほぼ完成させておけたのに。
「返事しろ」
人参は……どのくらい? 火のとおりを考えると薄くした方が良いだろうから——
「聞いてんのか」
「うっさいなもう。なに?」
とっさに答えてしまった。紅子ちゃんはいぶかしげな目でこちらを見てきた。
「冷蔵庫からチョコ出したいから。包丁置いてこっち来い」
私の背後には冷蔵庫がある。紅子ちゃんがキッチンの中へ用がある時は、私は包丁など危険なものは置いて掃けなくてはならなかった。
「どうした。包丁置けよ」
私は手に持ったそれを見る。小さく、しかし危険なそれは、紅子ちゃんが数々の人を手にかけるのに使ったものと同じだ。
「……どうした?」
「あ、うん。チョコね」
私は包丁を置くと、振り返って冷蔵庫から個包装のチョコを取り出し、紅子ちゃんに投げた。彼女は見事にそれをキャッチしてから不貞腐れた様子で言った。
「なんだよ。自分で取ろうと思ったのに」
「料理中に入ってこられると面倒なの。別にいいでしょ。食べられるんだから」
「自分の家みたいに振る舞いやがって」
紅子ちゃんはチョコを口へ放り込んで包み紙をくしゃくしゃにまとめると、ゴミ箱へ投げ入れた。彼女はそんな調子で、私が料理を完成させるまでずっとこちらを見守っていた。
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