第29話 だって弱いんだもん
夕飯の間は、彼女はいたって静かだった。黙々と食べ進めそうそうに箸を置くと、私を洋司に任せてさっさと風呂に入った。交代で私が入浴する間彼女はどうしているかというと、これまた扉のすぐ前でじっと待っているのだった。髪を乾かしてベッドに入ると、紅子ちゃんは唐突に言った。
「明日の朝出発な」
確かに着いて行くとは言ったが、どこに行くのか、そもそも行くあてはあるのかは全く知らなかった。私はただうなずいた。
「それとさ、おまえ。逃げようとしてないよな」
「してないよ」
「ほんとに?」
「うん……言ったじゃん、私もう自分がどうなってもいいんだよね。死んでもいいし、ここから出られなくてもいいし。それに、どうせ紅子ちゃんに力関係で敵うわけがないんだから。逃げようったって逃げられないよ」
紅子ちゃんはまだ疑っているというように尋ねた。
「アタシに返り討ちにされて死ぬのが九割だとしても、どうせ死んでも構わないからアタシを刺して逃げようとは思ってないの」
「思わない。人殺しだけは絶対にしないよ。でもさ、それじゃあ紅子ちゃんには勝てないからね。結局、逃げらんないさ」
「逃げたかったら逃げろよ」
紅子ちゃんはぶっきらぼうに言った。
「……変なの」
「アタシは逃がさないけどな」
私は部屋のドアの方をチラリと見た。それから、いきなりガバリと上体を起こしてみる。
「うっ」
一瞬のうちに、私は紅子ちゃんに押し倒された。
「ほらぁ、やっぱダメじゃん」
「丸腰でアタシに歯向かうのは無理だよ」
彼女の長い金髪で視界が覆われる。以前と違い恐怖はなく、悪い気はしなかった。
「紅子ちゃんもさ、女の子じゃん。なんでそんな強いの」
「おまえが弱いんだよ。アタシも大の男相手だったら絶対手ぶらではいかないし、その上で相手を選んでる」
「私そんなに弱いかなぁ」
紅子ちゃんはニヤリと笑いながらうなずいた。
「弱いぞ。弱い。体格の問題もあるけどな」
「そっかぁ」
私はおちゃらけてみせる。私が逃げようとしたことは全く本気ではないと、お互い理解していた。
「律は、まず軽いだろ。体重……四十あるか?」
「ないかな、たぶん。もうずっと測ってないからわかんないけど」
「やっぱりな。そしたら、アタシの方が律よりも確実に二十キロ以上は重いだろうね」
「えっ」
私は驚いて、彼女のからだをじろじろ見た。
「うそ……」
「なんか、失礼だな。でもアタシは律みたいにガリガリじゃないし、一度下に敷いてしまえば、律は自力で起き上がれない。重さはある意味でそのままパワーになるしな」
私は実際に起き上がろうと踏ん張ってみる。
「あらま、その通り」
「男でも小柄やつならそう体格は変わらない。むしろ、身長は負けても体重が互角ならどうにかなることもある。兄貴はアタシより軽いから、『おまえは太り過ぎだ』って言ってくるけど」
「へぇ。なんか全然そんなこと言われそうには見えない」
「健康の面から言えば標準の範囲内だからな、一応」
つい気になって紅子ちゃんのお腹をつつこうとする私の手首をガシッと捉えてから、紅子ちゃんは続けた。
「あとなぁ、律。おまえは鈍臭いよ」
「あは、よく言われる」
私は腕の力を抜く。自然に震えが止まった。
「ほんと、弱っちくて頼りなくって、すぐ死にそうな感じするよ、おまえ。かわいいやつだな」
「大丈夫だよ。意外に死なないから」
私は紅子ちゃん目を真っすぐ見る。
「明日出発するんだよね?」
「ああ」
「野宿?」
「多分な」
「じゃあさ」
私は膝を立てて紅子ちゃんの太ももにぶつけた。
「最後にちょっと触らせてよ」
紅子ちゃんは笑いながらため息をつく。
「こんなか弱いやつと場所を代わるのか」
「いいでしょ。ちょっと確認したくなっちゃった。紅子ちゃんのボディがどんなだったか」
「別に普段と変わらないだろ」
「あーでも、確かに紅子ちゃんってちょっとむちむちしてるよね。お腹とか結構脂肪が——」
「それ以上言うなら脱いでやらないよ」
紅子ちゃんはもう私の隣にただごろんと転がっていた。私はその上にまたがる。
「かわいいなぁ、もう」
彼女がどれだけ醜い本性を持っているとしても、その見た目の美しさだけは本物だった。そして、その顔はとにかく、私の好みと一致していた。そうしているうちに紅子ちゃんはどこか切なげな表情になって、しかし口では冗談めかして言った。
「こういうアタシが無防備な時に、グサッといってもいいんだよ」
彼女の意図がわからない発言に、私は困惑しつつ答える。
「だから、なんなの。それ」
翌朝、私たちは紅子ちゃんの購入したアウトドア用品を持って外へ飛び出した。行く当てはないが、いつものようにあの人気のない山奥へ入り、飯泉たちが知っているのとは別の方向に進んだ。それから、少し落ち着ける場所を見つけると、テントを張って休める場所を作った。こんな季節なので耐え難いほど寒かったが、二人で毛布にくるまって暖をとった。暇をつぶすために、たくさん話をした。紅子ちゃんはつまらなそうにしていたが、彼女の昔の話を聞くのは、私は楽しかった。学校生活の話はどれもあまり明るい内容ではなかったが、紅子ちゃんはそれでもためらわずに語ってくれた。
「中学の時に、トイレに行って個室に入ったら、後から入ってきた人たちがアタシの悪口を言ってるのを聞いた。『貧乏くさい』とか『不潔』とかそんな感じ。でさ、その言ってる人の声がね、その時仲良かったやつの声だったんだよ。それまでは、嫌がらせされても助けてくれるやつがいるから大丈夫だと思ってたけど、それからはもう……」
私は黙って紅子ちゃんが話すのを聞いていた。
「不登校になって、だから高校は同じ中学の人がいないところにしようってなったんだけど、結局高校でもうまくはいかなかったどころが、余計に酷かった。何が気に触ったのか知らないけど、目をつけられた。誰も助けてくれないし、誰もアタシに関わってすらくれなかった。クラスの全員がアタシを嫌いだったと思う。アタシが休み時間に無理やり服を脱がされて写真を撮られていても、誰もこっちを見なかった。ふと視線をあげると、写真を撮ってるやつの向こうに、冷ややかな視線をこちらに投げかけるクラスメイトの姿が見えた」
紅子ちゃんは表情を曇らせていたが、決して声のトーンを暗くしたり、感情のこもった話し方をしなかった。ましてや泣いてなどいなかった。
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