第26話 命令すらできないなんて

 夕方頃になると、ようやく紅子ちゃんは帰宅した。何やら大荷物で、ミリタリーコートのポケットにも荷物が詰まっていた。

「買い物してきたの?」

「ああ、そこのホームセンターで……」

「何を?」

「ちょっと、荷物整理手伝ってくれ」

私はわけも分からぬままパンパンのレジ袋を持たされて、紅子ちゃんの部屋まで運んだ。中身を取り出すと、防寒具やライト、小型の寝袋といった、季節外れのアウトドア用品だった。それから、お茶のペットボトルや非常食もたくさん。よく一人で持って帰れたな、という重さだった。

「さみー、ココアでも飲もうぜ」

「うん」

まだ荷物を取り出しただけで何も整理できていないが、飽きっぽい紅子ちゃんはもう気が変わってしまったらしい。私たちが居間へ移動すると、洋司が不思議そうに尋ねる。

「何だよ、あんなに大荷物なら車出してやったのに」

「ああ、まあ、いいんだ。時間もかかったし」

洋司は腑に落ちない様子だ。紅子ちゃんは台所へ湯を沸かしに行く。私は再び居間に洋司と二人になった。

「アイツ、何買ってきたんだ?」

「アウトドアグッズみたいな……よくわかりません」

紅子ちゃんはやがてマグカップを二つ持って戻ってきた。そして、雑に私の前に混ざり切っていないココアを置く。

「おらよ」

「ありがとう」

スプーンで混ぜてからココアを口に含むと、やや熱すぎたようで舌がじーんとする。紅子ちゃんはかじかんだ手をニットの袖の中に隠してから、マグカップの取っ手を左手で持つ。片膝を立てる様子は行儀がいいとは言えないが、彼女のこの態度はいつものことで、もう特段気にならなかった。

「そうだ。何で急にあんなもの買ってきたの?」

「あー、そうか。その話か……」

紅子ちゃんは言葉を途切れさせた。ゆっくりココアを味わってから、再び口を開く。

「逃げなきゃ、かもだから」

「どういうこと?」

「飯泉は——いや、それ以外の誰かの可能性も十分あるが——悪意を持って、アタシに接近しようとしてる。目的は分からない。ただ、何らか不利益な目に遭わせようとしてるのは確かなんだ」

紅子ちゃんは膝を崩してあぐらを組んだ。私は静かに話の続きを待った。

「だから、いざとなったら逃げるんだ。何からかってのは断言できない。誰かが直接襲いに来ることも考えられるし、もしかしたら自分も捕まること覚悟で警察に連絡する可能性もある」

「そうなったら、どうするの?」

「場所の検討はつけた……だが、いろいろな意味で人目のある施設は避けたいんだ。ネカフェとかな。身分証明書がいる。そうなると、適しているのは……自然のある場所だ」

私はむずむずしていた。私が聞きたいのはそんなことではない。単刀直入に切り込んだ。

「私は? 私はどうなるの」

「ああ……」

紅子ちゃんはまた一呼吸置く。表情には自嘲的な雰囲気があった。

「一緒に来てくれるか」

「行かなかったら?」

「どうしような……」

紅子ちゃんはまたすぐに返答をしなかった。ココアはもうとっくにないのに、マグカップをのぞいている。

「殺すの?」

「……え」

「だって、紅子ちゃんと敵対する人が私を見つけたら、私から情報を抜き出すに決まってる」

「そりゃそうだ」

しばらくの間沈黙となる。やがて、紅子ちゃんは空のマグカップを端へ押しやって、こう言った。

「一緒に着いて来い」

「……いいよ」

私は彼女をずるいは思った。私の質問に対する答えを用意することを放棄し、自分の望むシナリオを作る強制力がある。私にはそれはない。振り回されるばかりなのに、疑問も留めなく湧いてくる。

「いいけど、それって紅子ちゃんの得なの?」

「得だ」

「なんで?」

「もし警察が来たなら、人質になる」

「そうだね」

紅子ちゃんはなぜか不安げにのぞき込むようにこちらをうかがった。

「あのね、私は最初から期待してないよ。所詮、被害者と加害者だよ」

「うん……」

紅子ちゃんは指先を落ち着きなく動かす。そして、二人分の空のマグカップを下げに行った。

 部屋に戻ってすぐ、紅子ちゃんはベッドに潜った。私も寒いのでそれに続く。買ってきた品物は放置されたままだ。私は張り詰めたジーンズ生地の上から彼女の太ももに触れる。

「律……」

「何」

「振り回してごめんな」

「今更だよ……」

私は天井を見つめた。もう木目のひとつひとつまで完璧に再現できそうなほど見飽きた天井だ。私はどういう気分にもならなかった。

「真由香が死んだんなら、もう帰る理由はないんだ」

「……なんでだ。学校のことも、楽しそうに話してたろ」

「一回引き離されちゃって時間がたった場所に戻るって、そう簡単じゃないよ。どんなに楽しい思い出があっても……ねぇ、それは紅子ちゃんだってよくわかってるはず」

「だけど……」

私は紅子ちゃんの言葉を遮る。

「申し訳ないから、自分がどうにかなった後に私が幸せな生活に戻れるなら少しは苦しくなくなるって、思ってるんでしょ。もう遅いんだって。遅すぎ。全部。無理だよ、もう紅子ちゃんも、私も、元の生活になんか戻れない」

紅子ちゃんはしばらく何か言いたそうにした後、ため息をついた。

「おまえとも、なかなか長い付き合いになったな」

紅子ちゃんは唐突に語った。

「おまえは一時期おかしくなってたと思うし、こっちから見てすごく精神不安定だった。でも今は、なんかまともだな。正気のおまえはこえぇよ」

「そう」

「あー、なんか、取り返しつかねぇことしちまったな。始めっから殺しときゃよかった」

「私もそう思うよ」

しばしの間ぼーっと天井を眺める。暇な時は時間を意識しないのが一番だ。何も考えず、時間がたつのを待っているのがよい。

「あのなぁ、いつまで触ってんだよ」

紅子ちゃんは太ももの上にあった私の手をつかむ。

「はぁ……めんごめんご」

心底つまらない。娯楽の一切ない場所で、私の興味が少しでも向くものは彼女くらいしかないのに。私は退けられた手をニットの中に突っ込んだ。またもや紅子ちゃんのお腹を触る。私と違って贅肉がたくさんついてるのが、面白い感触につながっている。

「やめろよ」

「寒いんだもん」

「うそつけ。もう温まったろ」

「うん」

どんなに非道な行為をしていても、紅子ちゃんは血の通った人間であることをいつからか私は実感していた。紅子ちゃんの体には簡単に触れられるし、ちゃんと温かい。隙がないなんてこともなくて、むしろ隙だらけだ。計画性もないし用意周到でもないし、力と運だけでたまたま野放しにされているのだと思う。無感情でもなくて、思い入れも罪悪感も人並みだ。ただ、人の立場に立って考えることは苦手で、その上後先を考えないためにこうした行為ばかりしてしまうのだろう。彼女には、一人の人間として、たくさんの凹凸がある。その凹凸が、たまたま良くないパズルのピースに嵌ってしまったのだ。

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