第24話 凍えるような寒さ

   森山律


 虫の声すらしない、冬の夜は静寂だ。そんな中、私の耳にはたった一つのうざったい音が届いていた。紅子ちゃんの寝息だ。彼女はよくいびきをかくので、たまにこうして睡眠の妨げになることがある。考え事をしているうちにだんだん眠くなれば良いのだが、真由香の死を知ってから、何となく頭がすっきりとしないというか、働こうとしない。漆黒の闇に閉ざされたような気分、というわけでもない。ただ漠然とした……陽の光の届かない曇り空のような、微妙な、ざわざわした気分だった。

 私はだんだんとイライラして、隣でいびきをかく女を叩き起したくなった。とりあえず背を向けて、目を閉じてみる。すると、少し静かになったように感じて、私は安心して意識を途切れさせていった。が、その数秒後、またもや響き始めた音に私の意識は完全に覚醒してしまった。

「うるさいな」

わざとらしくつぶやいて、後ろ足で彼女の脚を軽く蹴った。

「ん?」

突然いびきが収まったかと思うと、声が聞こえた。反応の速さに少し戸惑う。紅子ちゃんはその鋭利な感覚を持って私を逃がさぬよう監視しているということを失念していた。

「いびきうるさい」

私は背を向けたまま言う。紅子ちゃんはなぜかすくっと起き上がった。

「足が冷たい」

こちらも文句があると言わんばかりに返される。狭すぎる寝床だから、お互いに不満が出るのは無理もないことだった。

「眠れないよ」

「急に起こされた」

二人とも声に苛立ちが如実に現れていた。私も上体を起こして、彼女に面と向かう。

「疲れたから寝かせて」

「勝手にしろよ。なんでわざわざアタシのこと起こすんだか」

「うるさいって言ってんでしょ」

布団を被っていないと、暖房の消された部屋はあまりに寒かった。冷たい空気が鼻を刺激し、私は小さくくしゃみをした。

「寒い」

「布団入れよ、もう」

時刻はおそらく午前二時頃だろうか。途端に眠気が襲い、私は授業中うっかり寝てしまう時のように首をガクンと倒した。

「おら眠いだろ」

紅子ちゃんは倒れかけた私を強引に抱き寄せた。彼女の体温はまるで子どものように高く感じられた。

「うーん」

頭がだんだんとほうけてきて、私は低くうなった。彼女は上体を元の通りバタンと倒すと、布団をかけた。私は彼女の胸に寄りかかるようにして、そのまま目を閉じた。

「アタシが先に寝たらうるさいんだろ。さっさと寝つけよ」

紅子ちゃんはそう言って私の頭の上に手を置いた。私はまもなく眠りに落ちた。

 翌朝目覚めてから、私はまた無気力な空気に包まれていた。もう助からなくてもいいや、別に。心からそう思っていた。ただでさえこんなに時間をロスしていて、その上真由香がいなくて、私はどうしてまともに学校生活を送れるだろうか。私が解放されたところで、両親は喜ぶだろうが、それ以上の何かは、何もない。むしろ、どうしたって取り戻せない時間を悔やみながら、寂しい暮らしを続けるしかない。それならいっそ、助からなくたっていいのだ。その場合の結末は、どうなるかわからない。このまま何十年も閉じ込められる? それは考えにくい。ならば、やはり殺されるのだろうか。それもいい。私はただ真由香のところに行きたいだけだ。

 だからこそ、私にとって生きている今は全てくだらなかった。紅子ちゃんは目覚めるなり窮屈そうに動き出した。

「あー、体いてぇ」

私は思いつきで唐突に彼女の服の下に両手を滑り込ませた。

「冷たっ、何やってんだよ」

彼女のお腹に直接触れることで、私はその温かさを享受した。彼女のお腹は厚みがあって非常にやわらかいので、そこに手の甲をなでつけておくだけで、その感触を堪能できた。紅子ちゃんはそんな私から逃げるようにがばりと起き上がる。低血圧なのか、ぼーっとした様子だ。私は彼女の胴に腕を巻き付けて、一心に抱き締めた。

「どしたん、おまえ」

「気持ちいい」

私は彼女の温かさとやわらかさと大きさを味わった。幸福感だけが欠けた、しかし冬の朝の過酷さを紛らわすのには十分な満足感だった。

「苦しいんだよ、離れろ」

私はしぶしぶ腕を緩めた。

 その日の昼頃、珍しく紅子ちゃんは出かけて行った。何をしに行くのか、誰を会うのかは伝えてくれなかった。その上、最近は私はただこの家に住んでいるだけだと言っていいほど、監禁されているとは思えない生活を送っていたのにもかかわらず、紅子ちゃんが彼女の兄に私の監視を頼み、居間から出ないようにしたのは不思議だった。そんなこんなで、私は居間でただぼーっとテレビを眺めていた。狭い空間に成人男性と二人きりになるのは、怖いというよりもむしろ気まずい状況だった。私は言葉も発さず、チャンネルも変えず、もじもじと楽な体勢を探していた。

「おい」

唐突に、霧崎洋司は振り返った。私は何も思い当たる行動をとっていなかったのに、怪しまれたのだと思って焦った。

「少し、話してもいいか」

私は声を出してもいいのかわからなくて、ただうなずいた。すると、洋司は私のちゃぶ台を挟んだ向かい側に座り込む。私は彼の姿をしっかりと直視したことがなかった。眼鏡の奥の顔は妹そっくりで、しかしさして美男というわけではなかった。何となく表情が読みづらく、私はこれから何を話すのか見当もつかなかった。

「お願いします」

彼は唐突に頭を下げた。私は訳がわからなくて、呆然とその姿を見ていた。

「紅子が最近少し大人しくなったのは、おまえのおかげだと思うんだ」

いまいち本筋が見えない。洋司がどのようにしてその解釈に至ったのかもわからない。

「アイツは……恵まれないやつなんだ。だけど、今が更生する機会だと思うんだ。これまでアイツを何度も止めようとしたけども、無理だった。そうなると、警察に引き渡せばいいと思うかもしれないが、それも無理だった」

私は、半分答えがわかっていて、あえて尋ねた。

「なぜですか」

「紅子は、たった一人の家族なんだよ……アイツをここまでどうにか育て上げて来たのに、結局アイツの人生はめちゃくちゃになるなんて、耐え難いんだ」

極めて自分勝手な理論だった。家族だから、という気持ちはもっともだが、それを現在進行形で人生を壊されている私に言うのはどうかと思う。ただ、私はそんな感情をおくびにも出せなかった。

「聞いてくれ。アイツがどんなにかわいそうな目に遭ったか……」

「そ、それで、同情することはありません」

私は震える声で反抗した。

「ああ、もちろん、そんなつもりじゃない……ただ、紅子がどういう人間だか知ってほしいだけだ。あー、別に聞き流してもらって構わない」

考えながら喋って、相手に譲歩する単語を付け加えるところが、紅子ちゃんの話し方と似ていた。私がうなずくと、洋司はぽつりぽつりと話し始めた。

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