第20話 許さないから
小屋を飛出た紅子ちゃんは、逃げるようにして全力疾走でその場から離れた。その過程で多くの枝が私の肌を掠めて傷つけた。紅子ちゃんの顔にもいくらか傷ができたようだが、そんなことはまるでお構いなしだった。私はどうにかこうにか後ろの様子をうかがったが、真由香はもちろん、人影が着いてくることはなかった。
山道の入口まで戻ってきた時、紅子ちゃんは私の手首に手錠を嵌め、例のごとくもう一端を自分の手首につないだ。
「外して、離して……真由香を守らなきゃ」
「今はそんな場合じゃない」
「嫌だ、外し——」
「いいから声出すな。静かにしろ」
私は脅される。紅子ちゃんが一体何をしたいのかさっぱりわからなかった。とにかく彼女はまた速度を上げて、山から離れるように走った。私もそれに引きずられた。足がちぎれそうだった。
「なんで、走るの……」
「とりあえず、逃げなきゃまずいんだ」
「どういうこと」
彼女は答えなかった。何十分がたって、ようやく家に着いた。ちょうどその時、紅子ちゃんの携帯が鳴った。
「相沢か……」
彼女は通話ボタンを押した。私は呼吸を整えつつ電話の内容に耳を澄ませた。
「もう家だ。とにかく、アタシはもう飯泉には近づけない」
その後、四十秒ほど紅子ちゃんが相槌を打ち続け、電話は終了した。
「……何があったの?」
「飯泉は、アタシたちに何らかの敵対心を抱いてる。これは確実。アタシが危惧したのは、まさか飯泉が律、おまえを殺そうとしてるんじゃないかってことだ」
「どうして、私が……?」
「わかんねぇ。ただ、アイツの挙動はどう考えてもおかしい。おまえと鈴木を閉じ込めて——」
「真由香は! 真由香どうなったの!」
私はとっさに声を張り上げる。紅子ちゃんは冷静な口調のまま続けた。
「……無傷じゃねぇだろうな。相沢によると、病院に運ばれたらしい」
私はハッとして玄関から飛び出そうとする。が、当然紅子ちゃんに即座に妨害された。
「何やってんだ。『逃げたら殺す』を忘れたのか」
「だって、真由香が……」
「おまえは自分の命より鈴木優先なのかよ」
「今までだってずっとその覚悟だった!」
気が付くと、涙が止まらなくなっていた。紅子ちゃんは頭をなでてくれたが、ただただ気味の悪いものにしか感じられなかった。
「飯泉の狙いがなんだろうと、真由香が助かるなら私はどうなったって良かったのに……どうして、連れ出したの」
「——アタシは、おまえを死なせたくねぇんだ」
「なんで? もう私はそんなの望んでない。早く解放して……」
部屋に戻っても、私は泣き通しだった。紅子ちゃんは、ベッドに伏せっている私の頭を、心配そうに摩り続けるのだった。私は猛烈にイラついてしまった。紅子ちゃんの行動がさっぱり理解できない。なぜ、私だけを連れ出したのか。あれだけ、真由香を無事でいさせてくれと頼んだのに……。私は紅子ちゃんの手首をつかんで、問いかけた。
「どうしてなの。飯泉に私を殺されて不都合なことでもあるの」
「ま、まぁ、何も殺されると決まったわけじゃない。万が一おまえを逃がして、警察に行かれたら困る」
「それなら真由香も連れて帰らないとおかしい」
「いや、余計な人物を増やすのは……」
「紅子ちゃんは、飯泉が私や真由香を殺そうとしてるかもしれないってわかってて、私だけを連れ出したんでしょう? 真由香を突き飛ばしてまで……」
紅子ちゃんは黙ってしまった。私の怒りが一身に彼女の方へ向いているのを察知したのだろう。
「絶対……真由香の無事を確かめさせて。そのためなら飯泉とぶつかる覚悟がある」
「……アタシは」
「おまえのせいなんだよ! なんで……真由香を狙ったの? 真由香は、真由香の何が悪かったの?」
「アイツは、おまえの捜索活動に熱心すぎた。それから、連続殺人の犯人と誘拐犯が同一人物であると気がついていた。だから——」
「違う。真由香がどうやってそんなことを知ったの?」
私は紅子ちゃんの発言を遮った。私は真由香に目撃した事件のことを少しも話さなかった。じゃあ、誰が真由香にそんなことを教えたのだろうか。いくらネットが発達した現代とは言え、被害者層が成人男性ばかりの連続殺人と、私の誘拐事件とをノーヒントで結びつけるのは難しいだろう。つまり、真由香に入れ知恵した誰かの存在を疑うしかないのだ。
「飯泉たちじゃないの? あの人たちは、真由香をどうにかしてあの小屋に連れて来た。事件の真相を知っている人で、真由香に接触したのはあの人たちだけなんじゃないの」
「——そうか。アタシに鈴木を狙わせて、それで律との距離が空くように……でも、だったらなんで——」
「そうだよ、馬鹿じゃないの。おまえが騙されなかったら、真由香がこんな目に遭うこともなかったのに……」
「とにかく、今後は金輪際飯泉たちとの接触を——」
「違う!」
私はイライラして叫んだ。喉の奥の妙な場所が、グンと痛む。
「真由香のいる病院まで行く」
「そしたらおまえ逃げるだろ」
「逃げるよ! 失敗したとしても、私が殺されて終わりなら——」
「バカか。そしたら鈴木も無事じゃ済まないに決まってる。そもそも鈴木は……」
紅子ちゃんは唐突に言葉を途切れさせた。自分の心拍の速さに少し戸惑いつつ、私は続きを促す。
「え、そもそも、何?」
最悪の想像をしないわけではなかった。しかし、はっきりと続きを聞かない限りは何も信じられない。すると、紅子ちゃんは少し何かを考えるような、口こもるような様子で言った。
「え、あー、そもそも、鈴木は……あー、おまえにそんなことされて嬉しいのかよ」
私はパッと目を見開く。しかし、それとは裏腹に、視界が薄れていくような感覚を覚えた。
「おまえは、自分が死ねばいいみたいな、そんな発想ばっかりで、鈴木の命をどうしようなんて」
「おまえにそんなこと言う資格ないだろう!」
私は気がついたら絶叫していた。もう喉が渇ききっていたから、そんなに大きな音は出なかったかもしれない。けれど、私は怒りで全身が痙攣し、ノイズ交じりに共鳴するのを確かに感じた。息を吐ききったと同時に、筋肉が弛緩していった。それから、口元に手が覆いかぶさった。
「うるせぇよ。ちったぁ立場を弁えろ」
紅子ちゃんは、少しも温かさを感じさせない声で、心底面倒くさそうに言った。私は一気に弱気になって、再び以前のように萎縮してしまった。しかし、心の奥ではしっかりと彼女に対する憎悪を抱えていた。以前のような突発的な、本能的なものではない。虎視眈々と逆襲のチャンスをうかがう、極めて理性的で、冷静な憎悪だった。
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