第14話 病気のせい
森山律
家に帰ると、深夜一時だった。普段だったらもうとっくに寝ているのに、少しも眠たくない。天井を見つめていると、紅子ちゃんが言った。
「アタシは、ああいう話した後に一緒に寝るの、気まずいと思う」
天井は止まっていた。ずっと見つめていたりすると、天井が回って見えたりするものだが、そんな風にはならなかった。しっかりと、意識が保たれていた。
「素直に、言ってもいい?」
私は天井に向かって言った。すると、天井を反射したかのように、紅子ちゃんの声が伝わってきた。
「いいよ」
深く息を吸ってから、私は言った。
「私、こんな生活嫌い。あれは憂さ晴らしだったの。我慢しっぱなしで、無理やり殺人に加担させられて、嫌だったの。暴力も振るわれて、怖かったし、ものすごく怒りが湧いてきた。だから、抑圧されっぱなしじゃなくて、少しでも『私の方が上なんだ』って言い張れる場面が欲しくて、つい……」
一息に吐き出すと、肺が乾いたような寂しい感覚になった。この生活に対する不満、それは紅子ちゃんに対する不満とイコールであるはずなのに、私は彼女に直接敵意を向けることを怖がっていた。その結果、あんな歪んだ形で、私の怒りを発散してしまったのだ。
「そっか……そりゃそうだ。こんな生活嫌だよな」
「うん」
私はしっかりと返事をした。紅子ちゃんがもぞりと動く。狭すぎるベッドではお互いの小さな動きもすぐに伝わる。
「アタシは……疑問でいっぱいだった。正直、今の話を聞いてもよく分からない。それがなんで……アレにつながるのか」
天井は依然として歪まない。眠れそうな気配はない。私が思考をこねくり回していると、紅子ちゃんは続けた。
「アタシはさっ、やっぱり、そういう行為は、恋愛と関連付けて考えるよ」
非常に答えづらかった。そこだけはいくら答えを出そうとしても、ピントが合わない。
「恋愛……紅子ちゃん以外に関わる人がいなくて、私には紅子ちゃんだけ、みたいな状態にさせられてるから。それが、恋愛ごっこみたいなのにつながっちゃうんだよ」
私が思い出していたのは、真由香との経験だった。あれも苦い思い出だ。私は……誰かと二人きりにされることが、弱点なのかもしれない。
「アタシにも、律しかいない。私が怖いから従順なだけだってわかってるのに……他に、アタシに関心を払ったり、親しく接してくれる人なんて——」
私は話を遮った。
「紅子ちゃん」
「ストックホルム症候群って、知ってる?」
「……ううん」
「どっかで聞いたことがあるんだよね。私、きっとそれなんだよ」
紅子ちゃんは黙って聞いている。私は続けた。
「人が自分を誘拐したり監禁したりした加害者に対して、好意を抱くことを言うの。それって変でしょ?」
「うん」
「被害者はほんとに加害者を好きになったわけじゃなくってね、いや、好きになってるんだけど、生存戦略として本能的にそうなるらしいの。あくまでも、生き残りに有利になるためにね」
「そうなんだ」
「そう、きっと私はストックホルム症候群なんだ」
いつの間にか、天井はぐわんぐわん揺れていた。私は紅子ちゃんの方に体を向けた。美しい横顔を見て思わずほほ笑む。
「だからね、私、紅子ちゃんのこと好きだよ。好きだけど、それは、こんな極限状態に置かれてるせい」
紅子ちゃんは顔をこちらに向ける。
「好きならいい」
いつの間にか、私の左手は彼女の両手に握られ、彼女の体の方へと引き寄せられる。そして、彼女のお腹の上に私の手が置かれた。贅肉の柔らかさが手に伝わる。
「落ち着く。律がいると」
紅子ちゃんの規則正しい呼吸に合わせて、お腹が上下した。こんな残酷な人間が安らかな呼吸をしている。それがなんだか不思議で、抗いたくなった。私はその手で紅子ちゃんの腹をくすぐった。
「うへへっ、やめろ」
紅子ちゃんは私の手をひっぺがした。私は彼女を逃がすまいと——別に逃げるわけでもないのだが——ぎゅっと全身でコアラのように抱きついた。私よりも大分大きくて頼りがいのある体。皮膚に伝わる感触は心地よかった。
「好き」
紅子ちゃんは何も言ってこない。私は呼吸がとても落ち着いていくのを感じた。
「……真由香のことだけは、お願い」
数秒して、返事があった。
「わかった」
私はそれを聞くなり、安心して目を閉じてしまった
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