第10話 勘違いしないで
森山律
最悪の目覚めだった。前夜にしたことを思い出すとおぞましい。自問自答する。あれをして私に何の利益があった? わざわざ異常な性的感情の介入を演出しなくとも、この女の犯した罪の数々、私が誘拐された理由も、すべてはっきりしているではないか。どこに、こんな大したことない理由づけのため、この女に罪を着せようとし、私まで罪を重ねる必要があっただろう?
手には生暖かい感触が残っているような気がする。ひたすらに気持ち悪い。しかも、二回目、二回目だ。ふさわしくない相手と勢いだけでことに及んではいけないと、学んでいなかったのだろうか。あの時は、真由香が笑って許してくれたから、どうにかなったのだ。私も内心では過敏になっていたが、真由香はそれを知ってか知らでか、そのことにはあまり触れず、でも全く触れないでもなく、「まあ、私たちはただ友だちだってことだね」と流してくれた。真由香は——少し過剰なくらい——私に対して寛容であったし、理解し合えない部分はそれでいいと言うスタンスで、私を見捨てずに付き合ってくれた。情けだとしても、ありがたかった。
この女は、どうだろう。まだすやすや眠っている。今日初めて目を開けた時、どんな感情を顔に浮かべるだろうか。そんなの見なくてもいいと思った。私は喉の渇きを潤さないまま、再び眠りに落ちた。
それから三日を過ごした。時々腹痛と吐き気に悩まされながら、静かに、紅子ちゃんとはできるだけ距離をとりながら、それでも極寒の中小さい布団だけで眠ることはしなかった。
一方、紅子ちゃんは毎晩出かけた。ただ、私が連れ出されることはない。また犯行に及んでいるのか、そうではないのかはよく分からない。ただ、前に電話していた人たちとはよく会っているようだ。夜中に集まれるなんて、どんな間柄なのだろうか。その人たちも犯行に関わっているのかもしれない。
改めて考えれば、紅子ちゃんとの物理的な距離は、案外変わっていない。食事も一緒にとるし、同じ部屋で過ごす。服も、食器も、私専用のままだ。廊下では腕をつかまれるのも一緒だ。ただそこに、今までよりも静かな時間が流れているだけである。私の中では精一杯心理的な距離をとって、反抗——あるいは、もう心理的な距離をこれ以上縮めないという意思表示——をしているつもりだった。しかし、見た目上はあまりそんな風には見えないのだろう。かといって、フィジカルでそれを示そうとするのは良くない。逃げようとしていると思われたら殺される可能性があるのはもちろん、それ以上に、また感情が暴発するのを誘引してしまう可能性がある。どちらにせよ、この微妙な内心だけの反抗を続けるしかない。
今でも、紅子ちゃんが外出する際には、簡易的な手錠を付けられる。今夜も、その作業が行われた。
「ごめん」
ふいに紅子ちゃんは言った。手錠を付けたりしてごめん、ということだろうか。いや、どうもそうではないように私には感じられた。私は妙な胸騒ぎがした。
◇◇
戸田創
冬休み四日目、相沢の家に三人で集まって駄弁っていた。もともとはまたゲームセンターやらファストフード店やらに行こうとしていたが、外が土砂降りだったので、とりあえず学校からほど近い相沢の家に居座ることにしたのだ。くだらない話に花を咲かせていると、飯泉の携帯が鳴った。
「霧崎からだ」
飯泉はスピーカーモードにしてからボタンを押す。
「もしもし?」
「もしもし、今相沢んちか」
「よくわかったな」
「スピーカーだから音が遠い」
相沢は少し恥ずかしそうな面持ちになる。
「なぁ、今からそっち行ってもいいか?」
「いいけどなんで?」
「んー、あー、まぁ、めんどくさくなって……」
霧崎ははぐらかす。めんどくさくなって? めんどうくさいことになって、の間違いだろうか。
「え、どういう案件だよ」
「そっち行ってから詳しく話すでもいい?」
飯泉は相沢の方を見る。相沢は、もちろん呼んでいいというふうに首を縦に振った。
「……いいってさ」
「ほんと? じゃあ、多分二十分くらいで着く」
「あいよー、待ってるね」
飯泉は電話を切った。そして、うんざりした様子で
「相沢の家に来てなかったら、私のとこ押しかけて来ただろ、あいつ」
とつぶやいた。飯泉と霧崎はあまり二人きりでいるイメージがない。女同士、男の知らないところで会っているのだろうか。それとも、本当にあまり接点を作っていないのだろうか。そうは言っても、四人でいる時の飯泉と霧崎は、矛盾した表現ではあるが、本当に良い悪友同士に見えた。
しばらくして、玄関のチャイムが鳴る。
「来たかな」
立ち上がろうとする相沢を制して、飯泉が玄関に向かった。
「悪いな、急に」
土砂降りのせいでビショビショになったミリタリーコートを脱ぎながら、霧崎が部屋に入ってきた。
「いやっ、全然大丈夫」
相沢は焦って否定し、霧崎は席に着いた。相沢ではなく自分がこの家の亭主であるかのようなそぶりで、飯泉がお茶を淹れた。ついでに俺らも新しいお茶をついでもらった。
「ありがとう、外めっちゃ寒かったから助かる」
霧崎は鼻を赤くしながら飯泉の入れた緑茶をすすった。時刻はもう六時を過ぎていた。土砂降りの闇の中、わざわざやって来た理由はなんだろう。
「で、何の用だって?」
飯泉が切り出す。俺も気になって、
「そうだ、何がめんどくさくなったんだよ」
と聞くと、紅子はだるそうに頭を搔く。
「あー、暴れてるんだよ、律が」
「舐められたんが悪いわ」
飯泉はとがめたが、俺はむしろ気になって聞いた。
「どうして突然?」
「バレた」
「何が?」
「あいつを殺ろうとしたんだよ……鈴木真由香を」
「鈴木? 誰それ」
戸惑う俺に飯泉が言う。
「前に行方不明のビラ配ってたやつだよ。私が知り合いに聞いて、名前とかまで割り出した。今は接触もしてる」
「お、俺が報告したんだよ」
相沢も言う。なるほど、霧崎が監禁してるやつ——名前は確か、森山律だったか——の知り合いだから、狙ったというわけだ。でも、俺にはむしろデメリットが多いように思えた。今鈴木を殺ったら、確実に同一人物の犯行だと思われてしまう。そうすれば、連鎖的にこれまでの犯行とも結びつけやすくなってしまうだろう。挙げ句の果てに、森山本人にバレて「めんどくさく」なっているじゃないか。俺は苦言を呈した。
「霧崎、そもそもなにも殺す必要はないと思うんだが」
「まぁ、それはそうだったかもな。迂闊だった。ただな、アイツは近頃の連続殺人事件の犯人と、律を誘拐した犯人が同一人物だって勘づいている可能性があるんだよ。あ、飯泉もできたらやたらな接触は避けてくれ」
「りょー」
「で、鈴木を処理しようとしたら、律にバレた。一度目の視察のあと、飯泉との電話のやりとりから推察された」
俺はため息をついた。
「聞こえるところで電話したのかよ、不注意だな。あんま油断すんなよ、俺らだってバレたら人生終わるんだから」
「ま、もう終わってるけどねー。でも、確かにちょっと気が緩んでるんじゃない? だから舐められちゃうんだ」
飯泉は茶化す。ムッとした様子で、霧崎は続けた。
「とにかく、その後が最悪だった。律が喚くわ暴れるわで、相手すんのだるくなったんだよ」
「でも、アンタでも手ェ付けられないほど暴れるなんて」
「いや、暴れたこと自体は別にすぐ押さえつけられた。すぐに拘束もしたし、その過程で何発か殴った。見張りをしつつ内側から施錠もした……大した手間じゃない。だけど、アイツは少しも黙らないんだよ。ずっと話しかけてくるんだ。『真由香に手を出すな』に始まって、『ここから出せ』になり、『なんで人なんか殺すんだ』って説教に落ち着く」
飯泉は確かにめんどうくさそう、とうなずく。が、相沢は言った。
「正直、そのくらいの反応なら想定外じゃねーの? 無視すればすむくらいの話だろ」
霧崎はしばらく黙っていた。相沢は不安げな顔をする。
「まぁ、確かにそりゃそうだ。誘拐してきた直後なら何も驚かなかった。ただアイツは……初めからまあまあ大人しかったし、一回痛めつけてからはかなり従順だったんだよ。それなのに、発狂したかと思うレベルの騒ぎようだった。しかも、途中からは声量こそ下がったけども、話が延々続くんだ。『お願い、紅子ちゃん、何でもするから真由香だけは殺さないで』って……『わかった、アイツは殺さないことにする』つっても、『信用できない。部屋から出ないで』だけ繰り返してくる。どうすればよかった?」
飯泉がすかさず突っ込んだ。
「ちょっと待って、アンタ『紅子ちゃん』って呼ばせてんの?」
「あー、なんでどいつもこいつもそう勘違いするんだ。アタシが呼ばせてんじゃない。律が勝手に言い出しただけだ」
霧崎はまたも髪の毛に手ぐしを通しながら、苛立った口調で主張した。納得がいかない俺は、底に茶葉の沈殿した湯飲みを回しながらつぶやく。
「うーん、反応しないでほっときゃいいだろ。変に会話したり、そういう風になれなれしくするなよ。『紅子ちゃん』なんて呼ばれてんのは、まずおまえが『律』って呼んでるからだろ。しかも、おまえそれでちょっと情が移ってるよな」
「それは……申し訳ない。気が緩みすぎた」
「もーさ、その『律』自体殺っちゃえば? そしたら話も片付きそうじゃん。そもそも、死体処理の手伝いだけのために、脱走のリスクを冒してまで生かす理由ある? 手伝いなら相沢が行ってくれるっしょ」
突然名前を出されて、相沢は顔を赤くする。
「おう……いつでも、行く」
俺は欠伸をした。
「それがいいよ」
霧崎は少し神妙な面持ちになり、真剣なトーンでつぶやいた。
「いや……それはできない」
「なんでぇ?」
驚いた飯泉が聞く。霧崎は表情を変えないまま言った。
「アタシは……弱みを、握られた」
「はっ、どんな弱みよ。なおさら消した方がいいし」
「詳しくはおまえらにでも言えない……だが、アタシがもし仮に逮捕されたとして、その時の罪状が、殺人、誘拐、傷害だけに収まらなくなるってことだ」
「えーっ、どういうこと? 盗みでも働いてたのがバレた?」
「あ、窃盗もあったな。でもそれとは別だ」
霧崎は結局はっきりしたことを言わなかった。俺は何となくモヤモヤした。霧崎が律との間に俺らが知らない何らかの関係を結んでいるように思えた。これが原因で、俺たちの犯行が明るみに出るだとか、トラブルに発展したら困る。変な情をかけているのならば、すぐにやめてほしかった。俺はさらに念を押した。
「おい、よく分かんねぇけど、とにかくあんまりなれなれしくすんなよ。舐められたら終わりだぞ」
霧崎はふてぶてしく返事をした。
「わかってる」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます