第二章 緊張

第9話 同じこと

   森山律


 私は激しく後悔していた。あのビラを見てから、きっとどこかで諦めていた私の望みが、また中途半端に復活してしまった。どうせ元の生活には戻れっこない、もし戻っても、幸せではないという考えで、今までどうにかこの生活で感じる理不尽さや報われなさをごまかしていたのだろう。それを認識してしまった時、あの女と友人ごっこをしていたことがものすごく気持ち悪く感じた。そして、このビラを作り、配っている家族の心境を考えると、たまらなくなった。どうにかして、叫んででも伝えたくなった。「私はここにいるよ、早く助けに来て——」と。

 現実はそう甘くなかった。私は昨夜も当たり前のようにあの狭いベッドで眠り、そして今、目覚めた。隣で眠る人物の顔を見ないようにして、私は部屋の隅へと移動し、うずくまる。ふと気になって足の裏の傷を見てみる。かろうじてふさがっているが、皮膚は厚くなり、醜くくすんだ色をしていた。そこへ、当たり前のように声がかかる。

「朝飯、どうする」

ちょうど寝起きの力の抜けたその声に、私はさらに弱々しい声で返す。

「いらない」

「……最近、どうしたんだよ」

自分で人の人生も感情もめちゃくちゃにしておいて、心配などされたくなかった。

 死体の処理を手伝わされないということは、家から出ることが全くなくなるということに等しい。外の気温も、天気も、よくわからない。ただ汚れた空気の中、肺循環がうまくいかずに、体ごとどんどん濁っていくようだった。人殺しをされるよりは、されない方が良いに決まっているし、それによって私がまた罪を重ねてしまわなくていいのなら、その方がいいに決まっている。しかし、もうすぐ年末だと言うのに、そんな変わりゆく街の息遣いも少しも感じとれないことが、ひたすら苦しかった。

「まだ起きてんのか、律」

となりでもぞもぞと動く気配を感知する。もちろん答えなかった。

「なんで……なんで最近、そんな調子なんだよ」

構わないでほしい。放っておいてほしい。耳をふさぎたい。

「律、まだ体調治らないのか」

「名前、呼ばないで」

背中に感じていた視線がなくなった。おそらく、窓側を向いたのだろう。

「……少しでも、好き——好かれようとしたのが、間違ってた」

突然、今までにも増して気味の悪い言葉が耳に入った。私は目をぎゅっとつむり、早くこんな時間をスキップしてしまおうとした。

 それから何十分か過ぎた。それなのに、なぜか私の意識は落ちてくれなかった。それどころか、お互いにお互いの目が覚めていることを感知しあっていた。とにかくムカついた。急に女々しくなって、眠れない夜を過ごそうとしていることに腹が立った。私は思った。後悔してほしい——こんな友人ごっこをしたのは、私が相手を油断させるための策略だったということに、してしまえないだろうか。このまま、今なら、力でねじ伏せることも可能ではないかという気がしてきた。それから、何よりも気持ち悪く感じている、この狭いベッドについて。暖房がなく寒かったからよりも、私にとって都合の良い理由を思いついた。この女に、全てを押し付けてしまえる理由を。私は、丸まった背中に腕を回し、抱きついた。

「律?」

「寒い」

私の腕に、また別の腕が絡められる。ぎゅっと体に押し付けられた腕に、柔らかい感触が伝わる。

「おい、律、どうした」

紅子ちゃんは仰向けになって、こっちに向き直った。気がついたら、疑問を宿したその顔を、見下ろしていた。その目が、一瞬冷たくなる。

「おまえ、アタシを倒して逃げる気か」

「違う」

彼女の息遣いと私の息遣いが究極の至近距離をとって、そのことは証明された。私なんかよりよっぽど力強いはずの腕は、何の抵抗もしてこなかった。そんなはずないのに、私は紅子ちゃんを力でねじ伏せられたという優越感に浸っていた。

「全部、あなたのせい」

私はこんなふざけた調子のまま、日付の感覚を失った私は、せっかくのクリスマスイブの夜を不意にしてしまったということに、翌朝まで気がつけない。

 弾力のある白い肌と沈み込むような柔らかい体つきが、どこか別人を彷彿とさせた。


    ◇◇


   鈴木真由香


 嫌な夢を見た。過去の記憶の一場面を再生したものだが、一挙一動が完璧に再現され、会話さえもその当時とほぼ同じだった。

 一度だけ、律と間違いを犯したことがあった。でももう、昔の話だ。中学二年生の時、珍しく律の家で遊んでいた私は、何かのきっかけで少し律をからかった。普段どんな風に接しても、全く動じない、悪くいえばのれんに腕押し状態の律だったから、私は少し調子に乗ってしまったのだ。

「律ってほんと人に興味なさそうだよね」

「そうかな」

「そうだと思うよ。ほら、私がこんなに構って上げても全然反応なし」

律はベッドに腰掛けて本を読んでいた。客が来ているのにもかかわらず、相当なマイペース野郎である。私はその隣に座り肩に寄っ掛かる。

「ねーえ」

それでも本を読みふける律に、私はさすがに苛立ちを覚えた。そして、律の腕をつかんでこちらを向かせようとした。

「ねえ」

「あ、ちょっと」

取っ組み合いのようになる。律はさすがに本を置いてくれたが、少し怒っているようだった。そして、何か話しかけるでもなく前を向いて暇そうに足をぶらぶらさせる。私はなにか話そうとして、また律の腕をつかんだ。律は嫌がって今度こそ喧嘩のようになった。律は私の手を振り払おうとし、私は頑なに腕を離さなかった。それから、気がついたら無表情な律の顔を見上げていた。

「ごめん、邪魔してごめん」

私は素直に謝った。しかし、これには自分にも原因があるのに怒り出した律に対するあきれが含まれていた。でも、何の温かみのないようなまなざしでこちらを見ている律が少し怖くなって、それからはいろいろな御託を並べ立てた。その時に、律に対する好意を伝えたのかもしれない。あまり思い出さないことにしよう。気がついたら私たちはクリスマスイブの恋人同士のようにふるまっていた。

 とにかく、結果としてそのたった一度だけ、私たちは間違いを犯した。「間違い」というのは、「悪いこと」という意味ではない。ただ、一度それを試して見たことで、その行為は私たちの関係にはそぐわないということがわかっただけだ。だから、その後も変わらず友人でいられたのだと思う。全く気まずくないという訳ではなかったが、そもそも——律はどう思うか知らないが——私にとっては、もともと律との関係には常にある種の気まずさが混じっているものだった。

 こうも寝覚めが悪いと、起き上がる気力もなくなる。ようやくクリスマスも終わったところだけれど、もうお正月を前借りしたい気分だった。それでも、何とか気力を振り絞って朝の身支度をする。大掃除にも手をつける予定だ。

 片付けのキリが良くなったところで、寝っ転がって携帯を開く。のんびりとSNSを眺めていると、メッセージが来た。同じ吹奏楽部の結衣からだった。

『律ちゃんについてなんだけも』

私は飛び起きた。律についての情報なら、何でも喉から手が出るほど欲しかった。

『私の知り合いが、真由香がビラを配ってたのを見かけたらしくてさ。それで、結衣と『結衣と同じ学校の人だけど、何か知ってる?』って』

『それでそれで?』

『配ってる人の特徴を聞いたら明らかに真由香だったから、『知り合いだよ』って言ったの。そしたら、『その人と連絡できない? 少し情報提供したい』って』

私は飛び跳ねて喜びたかった。どんなくだらないことでも、どんなにちっぽけなことでも、新たな情報は増えれば増えるほど、律が見つかる確率が上がる。

『もちろん、私のアカウント教えていいよ』

『わかった。〝Fubuki〟って人がそう』

トーク画面を見ると、確かにそのアカウントが追加された。この人がどこの誰なのかまだよくわからないが、なぜ律について知っているのかは疑問だ。しかし、律に私の知らない交友関係や行動範囲があることは、とっくの昔に突きつけられた事実だった。

『ちなみにこの人ってどんな人?』

『私たちより二個上の……ちょっと、やんちゃな人』

試しにメッセージを送ってみる。こんな具合だ。

『こんにちは、結衣から紹介されました。第一高校の鈴木真由香です。行方不明の私の友人について、情報提供してくださるとお聞きしました』

すると、しばらくして返信があった。

『こんにちは、第二高校の飯泉吹雪と申します。真由香ちゃんでいいですか? 情報っていうのは、森山さんが以前巻き込まれた事件のことです。今年森山さんは殺人現場を目撃した……っていうのは知ってるでオーケー? ここ半年ほど、A県では行方不明者が増えているらしい。実は、この殺人が今まで行方不明者を犠牲にした連続殺人の一部じゃないかって言われてる。こっちの市でも、最近一件起こった。森山さんが目撃した犯人はまだ逮捕されてないってこと。

 つまり、何が言いたいかっていうと、森山さんはその犯人に誘拐された可能性が高いんじゃないかって。森山さんが誰かに恨まれるような人じゃないって、親友の真由香ちゃんならよくご存じでしょ? けれど、自分の姿を目撃された犯人は、口封じのため、森山さんを誘拐した……そんな風には考えられない? さすがにその先は、とは言いきれないけどね。

 もし、こんなのもう知ってるよ! って感じだったらごめん。あとお願いがあって、できたらこのメッセージを警察に見せたり、私から知った情報だって言うのはやめてほしい……ニュース記事とかたくさんあるから、たぶん自分で推測したってことにできると思う! もうすぐ受験だから、聴取とかちょっと無理そうで、ごめん』

途中まで読んで、動悸がしてきた。最後まで読むころには内容が頭に入って来なくなっていた。殺人、誘拐、そんなワードを見た途端背筋が凍りついてしまったのだ。そして、私は今までで一番のショックを受けたことがあった。律が何かしらの事故か事件に巻き込まれ、警察に聴取を受けたりしていたのは知っていたが、殺人現場を目撃していたなんて、一言も聞いていなかったのだ。律はいつもそうやってはぐらかしてばかりで、自分から嘆いたり他の人に当たったりしない人だった。飯泉さんは、当たり前のように私はそのことを聞かされていると信じていたのに。

『ありがとうございます。実は、律が殺人現場を目撃していたって知りませんでした。ですから……かなり、ショックです。ほんとにその人に誘拐されたかはわかりませんが、自分で事件について調べたことにして、律のご両親と警察に報告してみます』

やっとのことでこんな短いメッセージを送った。そして、またすぐに返信があった。

『まあ、それこそ警察はもうとっくにこんなこと知ってるだろうけど……もしかしたら、何か捜索の手がかりになるかもしれないからね』

そして、参考にすると良いといっていくつかのサイトのURLを送ってくれた。それはニュースサイトのものなどが多く、ある記事の最下部にこんな文言を見つけた。それは、ちょうど律が警察に行ったりしていたのと同じ時期に起こった殺人事件についてのものだった。


——直近、A県内の第一市および周辺都市において、行方不明者が増加傾向であると    

いう。通常行方不明になりにくいとされる特徴をもつ人物が不審なかたちで消息を  

たっているケースがあり、本件との関連が調査されている。——


この「行方不明者」には律も含まれているのだろうか。もしそうなら、警察はもう事件との関連に気がついて調査を開始しているということだ。それなら、律が見つかる日も近いかもしれない。そしたら、またすぐに会えるかもしれない。

 勝手に、最悪の可能性をつぶして、そんな楽観的な考えに溺れていた。そうでもしていないと、何も手につかなくなりそうだった。幸い冬休みはまだ続く。少し、少しでいいから、気持ちを整理しながら、寝込ませてほしい。

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