第6話 馬鹿みたい

 それからの生活はなかなか平穏だった。また風呂や食事は復活し、部屋から出て居間にいる時間も長くなった。

 話の内容や観察からわかったことだが、紅子ちゃんの兄の名前は洋司といい、普段は居間にあるデスクで仕事をしているようだ。どうやらこの収入でこの家の生活は成り立っているらしかった。そして、この家の部屋は、全部で三つしかないらしいこともわかった。つまり、台所、居間、紅子ちゃんの部屋で全てであって、洋司の個室はないのだ。

 洋司はいつも、この居間に布団を敷いて寝ているようであった。そして、この人物は口調こそものすごく嫌味っぽかったが、変な話、実に妹思いであるようだ。むしろ、シスコンと言ってもいいかもしれない。常に喧嘩しているような口調でありながら、紅子ちゃんはしきりに「兄貴、兄貴」と話しかけて慕っていたし、洋司は洋司でその度に仕事の手を止めてわがままに応じるのだった。私はそんな時、兄弟がいるとはこんな感じかと、感心して眺めているのだった。しかし、その両親の存在については気になってはいたがとても聞けなかった。


 洋司は、私が自分の妹を「紅子ちゃん」と呼ぶようになったのを見て、ぎょっとした。そして、こんなふうに紅子ちゃんに問うのだった。

「おまえが仕込んだのか?」

「なわけ」

紅子ちゃんはめんどくさそうにこちらを見るのだった。対して、自分が私のことを頻繁に「律」と呼ぶようになったのには、気がつかないようだった。ある時から敬語が外れた。食事の時テーブルの下で足が触れ合ってしまっても、何も言って来なくなった。私が使う箸が固定化し、いつしか私専用になった。服もいつまでも兼用は気分が悪かったのか、私によく着せたものは私専用とし、自分は不足分を新たに買い足していた。

 こんな現状を、私はどこか嬉しく思っていた。それはおかしいと自覚しつつも、もうどうでも良いこととなっていた。家族や友人のことがしのばれたが、それはそれであり、これはこれであった。寒くなってきたからと、私のために用意された小さな布団とブランケットに包まれていると、心の温度も自然に維持された。


 平穏というのは、それだけの話ではない。死体の処理を手伝えなんて頼まれることがなくなった。紅子ちゃんが深夜に抜け出す回数もうんと少なくなった。そして、その時間二人で夜更かしして、ゲームをしたり、くだらない話をしたり、夜食を作ったりした。もちろんそんな時、私を拘束するものは何もなかった。廊下を抜ける時だけは腕をぎゅっとつかまれるが、お互い慣れてしまったもので、悲しいことに気がつくと私は自分から腕を差し出すようになっていた。


「人殺しなんて、ない方がよかったでしょ」

私はある時紅子ちゃんに問いかけた。

「それはわからない」

「私はよかった。これ以上紅子ちゃんに罪を犯してほしくない」

「現在進行中で行われている犯罪については考えないんだな」

私は少し言葉に詰まった。

「許してないよ」

「なんだ」

「許してないけど、いずれ、償ってくれればいいんだ」

そういうと紅子ちゃんは、少し冷たい調子になった。

「律が許さないんなら、償っても償わなくても同じことだ」

「そんなことないよ」

「殺人と違って後戻りのしようがあるからか?」

その言葉を聞くなり、私の心は過冷却された水に衝撃を加えた時のように、急激に凍結していった。そして、その心から無意識に発された声は、自分でも驚くほど冷たかった。

「……後戻り、できないけど?」

紅子ちゃんはハッとしたような顔をした後、罰が悪そうにうつむいた。彼女に罰が悪いという感情を覚えさせられたのがおかしくて、私はそれから頻繁に似たようなことを言うようになった。その度に、紅子ちゃんは曇ったような微妙な表情をした。そしてその度、私自身もどこかで傷を負っていた。


 ある日の深夜、ゲーム中に紅子ちゃんの携帯が鳴った。電話らしい。紅子ちゃんは部屋を出ることもせず、そのまま話し始めた。

「よう……元気してたか」

そんなに親しげな様子ではなかったが、どこか話慣れた雰囲気があった。

「そこは……使った。他は? あと二件ある」

そして、最後にはこんなことを言って電話を切った。

「飯泉がそう言うなら、そうする。戸田によろしく」

私の知らない紅子ちゃんの知り合いが、二人も登場してしまった。問い詰めると、詳しくは教えてくれなかったが、中学時代からの知り合いだという。それから、紅子ちゃんが無防備に携帯を放置してゲームのコントローラを手に取ったのを見て、私は唐突に二カ月前の自分が考えていたことを思い出した。

「携帯っ!」

思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。紅子ちゃんに怪しまれたが、何でもないと言うようにかぶりを振ってごまかした。そして、当然携帯には手を伸ばさなかった。

 寝床に入って、紅子ちゃんの寝息が聞こえてもなお、私は寝付けずにいた。そしてこんなことを考えて、自分をあざけり笑っていた。自分は長い監禁生活で摩耗し、ついに壊れてしまったのだと。そして、憎たらしいだけのはずの女に親愛を覚え、孤独やをぶつけようのない怒りや悲しみをごまかしているうちに、逃げ出すだけの知能も体力も失ったのだと。監禁されて数日の間に身につけた声を上げずに泣く能力が、久しぶりに発揮された。


 十二月に近づくと気温はさらに下がり、暖房のない部屋であの布団とブランケットでは耐えられなくなった。そして私はついに、紅子ちゃんのベッドにありついていた。もう私の足から流れた血はとっくに見当たらなかった。二人で眠るには、このベッドはあまりにも狭い。こちらに背を向けて眠る紅子ちゃんに、軽く腕を巻き付ける。とても寒いことを承知してか、怒られなかった。気がついたら、私はその背中にこうささやきかけていた。

「大好き」

それを聞いて、紅子ちゃんはしばらく何も答えなかったが、やがてこう言った。

「悪かった」

私が彼女をもっとキツく抱きしめると、もう一度つぶやいた。

「悪かった」

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