第5話 慣れとは恐ろしい

 その翌日、私は自分の手を眺めながら反省した。泥は綺麗さっぱり落ちたが、やはり罪は洗い流すことなどできない。私は自分の罪を認め、受け入れる覚悟をした。そして、勇気を振り絞ってぶつけてみたのである。

「どうして、殺したりしたんですか」

紅子は黙っていた。私の発言など全く耳に入っていないようだった。それでも私は続ける。

「恨みがあったんですか。それとも……」

それとも何なのか、言いかけたが思い浮かばなかった。相変わらず無視されるので、話の内容を変える。

「こんなことしていては、絶対ダメです。もう誰も殺さないでください……バチが当たりますよ」

それでもなお、無反応だ。私は少し声を張り上げる。

「じきに警察が必ずあなたを捕まえます。そして、あなたのやったことであなたは裁かれるんです」

紅子は視線を動かさない。しかし、つぶやくように返答をした。

「何年やってると思う?」

「え?」

「何年これを続けてると思うか」

私は返答に困った。うんともすんとも言えなかった。

「見つからないし、捕まらないんだよ」

紅子は極めてつまらなそうに言った。

「そんなことはありません。時間はかかっても、必ずあなたが犯人だって、警察はつきとめるはずですよ。殺人事件に時効はないんですよ」

「法律上時効がなくなったくらいじゃ何も変わらない」

「そんなこと……」

次の私の言葉を遮って、紅子は続けた。

「何でおまえが急にそんなこと言い出したか、当ててやるよ。昨日死体埋めたから、パニクってるんだろ。自分がやったことに耐えられなくて、誰かが裁いてくれるって信じないとやってけないんだろ」

反論しようとして、私は口をつぐんだ。紅子がこちらを睨んでいたからだ。

「そして、最終的には自分を誘拐して犯罪に巻き込んだ凶悪犯に死刑がくだるのを待ってるんだろ」

その時の紅子の目は、独特の雰囲気を帯びていた。人間への強い不信感……というより、それを乗り越えてすでに見切りをつけたような目だった。気がつくと私は、自分でも意外なことを口走っていた。

「そんなことありませんよ……ただ、怖かったから言ってみただけです」

何が怖かったのかは、よくわからない。紅子の言うように、自分の罪が裁かれないで残り続けることだろうか。それとも、正義は悪に勝つというストーリーが崩れることだろうか。あるいは、自分がこのまま一生もとの暮らしに戻れないことだろうか——

 最後の疑念が浮かんだ時、私は急に不安になった。戻れないことが、ではない。戻ることがだ。もうあれから二カ月もたって、季節も様変わりしただろう。家族や友人も私のことなど忘れて普通の暮らしをしているのだろう。授業もうんと進んでいて、楽しみにしていた文化祭もとっくに終わって、合唱コンクールの練習が行われている頃だ。そんなふうに、私がいたはずの場所にぽっかり空いた穴は、急速にふさがっていっている。そんなところに、私は戻らなくてはならない。それも、犯罪に加担した悪者として。誘拐された珍妙な人物として。そもそも、そんな未来があるのかどうかすら、私には予想もつかなかった。気がつくと、こんなことをこぼしていた。

「私、殺されるんでしょうか」

「逃げようとしたら殺す」

「何もしなかったら?」

「しばらくは生かしておく」

「しばらくっていつまで?」

「……いらなくなるまで」

「それまでは、ここに置いてもらえるんですか?」

「……そういうことになる」

私はため息を漏らした。それがどういう心境に由来するものかはわからない。しかし、紅子の目にはこう映っていたらしい。

「気味悪りぃ。ずっと閉じ込められるって言われて、安心するなんて」

紅子と会話らしい会話をしたのが、これが初めてだった。


 疲れからか、暇からか、私はそんな考え事ばかりするようになった。紅子との会話も、以前に比べればするようになった。だいたい話の最後には、私の様子を見て気味悪がった紅子が会話を打ち切るのだった。

 紅子が携帯をほっぽり出してベッドに横になっていた時、私はずっと気にしていたことを問いかけてみた。

「なんで、私を誘拐したんですか」

「目撃者だからだ」

「殺せばよかったんじゃないですか」

紅子は何も答えなかった。そして、起き上がって伸びをした。

「それもそうだな」

そして、部屋を出て行こうとした。その背中に向かって投げかける。

「今からでも殺さないんですか。こんなに手間をかけて世話する義理なんてないじゃないですか」

紅子は振り返らず、再び言った。

「それもそうだな」

 その日の夜、私は同じことをもう一度聞いた。しかし、答えにならない答えを言われるだけだった。

「じゃあ、言い方を変えます。今私を生かしている理由はなんですか」

「死体の処理とかさせると、楽だ」

「でも、私を生かすためのもろもろの出費、世話する手間、逃げられて情報を漏らされるリスク……死体の処理にもたなれているあなたが、そんなちっぽけな利益で得をしますか」

紅子は寝返りを打った。

「寝ようとしてるとこ邪魔されるとムカつくんだよ……」

声色は深刻ではなかった。

「そうやってべらべらしゃべるようになったから、置いとくと面白いってのはあるな」

「それだけ?」

「うるせえ。そんなに深く考えてない」

私は甚だ疑問だった。あんなにちゅうちょもなく人を殺せてしまう人が、なぜ今の今まで私を生かしておくのか……。

 今までの被害者は、みな男性だった。悲惨な状態なので定かではないが、大抵の人は、さほど身なりが良くなかった。そういう意味で、私はいろいろと相反するところがある。しかし、まだ不十分なのではないかと思う。そして、その疑問は自然にこんな質問を引き出した。

「何のために、殺すんですか」

紅子はあっさりと答えた。

「憂さ晴らしだよ」

そしてこうも続けた。

「わかったよ。おまえを殺さないのは、気分が良くないからだ」

「どう、気分が良くないって?」

「おまえは……おまえを一瞬で刺し殺しても、アタシの気分は晴れない」

私からすれば、人を殺して気分がすぐれないなんていうのは当然の話なのだが、彼女が言った場合には少し特別な意味を含んでいるように感じた。

「なんで?」

「アタシは……おまえの命を奪っても、気持ち良くない。おまえは、持ってるからだ。恵まれてるんだよ。そんなやつがどんな悲惨な最期を遂げたって、何も奪えていないのと同じだ。時間も地位も……確実に奪えなきゃ、おまえは恵まれたまま、幸せなまま死ぬ」

私が長らく黙っていたからか、紅子は言った。

「今にヒステリックになって、『そんなことのために私の時間を奪ったのか』って叫ぶんだろ」

声色は淡泊だったが、内容は挑発的だったと思う。しかし、不思議と怒りは湧いて来なかった。ただ、

「私のこと、あんまり知らないんですね」

自然にそう言っていた。紅子はため息をつく。

「そうか。説教が始まるパターンだな」

「そんなつもりないです。ただ、教えてくれませんか? 私のことどれくらい知ってるのか」

紅子はまたもや大きなため息をつく。そして、真面目に取り合う気がないと言う意思表示で、こう言った。

「名前、住所、電話番号、学校、通学路……年齢」

「それで?」

「……はいはい、確かにアタシはおまえのことなんてなーんも知らないです」

「そんなことが言いたいんじゃありません。むしろ、知っているのにそのそぶりを見せない方が気に食わない」

紅子はあくびをかみ殺した声で言った。

「アタシは、知ってることをフル活用して誰にもバレないようにおまえを誘拐してきた。それ以降はもう、必要ない情報だったから使ってないだけだ」

「必要あります。目の前に私がいるんですから。私の名前知ってるんでしょ。言ってみてください」

「……きも」

そして、しばらく間が空いてから、彼女はぶっきらぼうに言い放った。

「律」

「あはは、私はあなたのことなんて呼んだらいいです」

「何でもいい。好きに呼べ」

「それじゃ困ります」

完全に無視された。まだ寝付かない私は一人で続けた。

「紅子さん」

「さん付けは気落ち悪い」

「紅子ちゃん」

「余計に気持ち悪い」

「人のこと呼び捨てしたらダメって言うでしょう。変なあだ名よりかはマシじゃないですか」

彼女は完全にあきれ返った調子で言った。

「勝手にしろ」

「ありがとうございます」

「おまえ、めんどくさいな……これ以降話しかけたら殺す」

「はいはい」

私は久しぶりに深い眠りにつけた。

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