第4話 大罪
そして、そんな日の深夜は、格好の情報探しチャンスであった。私は暴れもがくうちに、拘束があっても移動できる術を身につけた。そして明くる日、私はついに紅子のベッドによじのぼり、真横の窓の前にたどり着いた。どうにかこうにか鍵を開けようとする。それが無理そうだとわかると、肩でガラスをゴンゴン叩いた。夜中なので誰かに気がついてもらえる可能性は低かったが、必死になって何度も打ちつけた。途中、男に気が付かれるかもしれないとわれに帰ったが、一時間ほど続けても男がこちらへやってくる気配はなかった。疲れて窓に寄りかかっていると、暗闇の中に薄ぼんやりと外の景色が浮かび上がって来た。真っ暗で、街灯もない山であった。私は悲しくなった。ここには家族も友だちもやってきてはくれない、本当に孤独な場所なのだと実感した。ほとんど眠りに落ちてしまいそうになった頃、突如目がくらむほどの強い光が現れた。そして、瞬きをする間に、窓に張り付きそうなほど近づいた紅子がこちらを見ていた。手には携帯のライトを持っていた。
「おまえのせいで……うるさいって……兄貴が……」
よく聞こえないがうっすらとこんなことを言っているのだとわかった。私は全身から血の気がひいた。動けることが、そして逃げようとしていることがバレてしまった。腰が震えてしまい、その場から動けなかった。紅子はすぐ移動して、まもなく部屋のドアを開け、照明をつける。手にはナイフをもっていた。
「逃げようとしたら殺すと言った」
「ごめんなさい」
横っ腹を思いっきり蹴られた。私はベッドの端に追いやられ、押し倒される。そして、馬乗りになった紅子に顔を殴られる。
「ぐあっ」
頬の内側を歯が傷つける。やっとのことで見上げると、鼻息を荒くして、目を爛々と光らせる紅子の顔が視界いっぱいに広がった。
「ごめんな——」
間髪を容れずもう一発殴られた。今度こそ口の中は血の味で満ちた。紅子はナイフを私の眼前まで近づける。
「逃げようとしたら殺す」
「ごめんなさい」
「もう逃げないと誓え」
私はあふれる涙と嗚咽のせいでまともに声を出せなかった。すると、もう一発殴られた。とうとう泣き声を上げる気力もなかった。
「もう逃げないな」
「逃げません」
すると、ようやく紅子は私の上から退いた。
「ところでおまえ、動けるんだな」
私はただその場でじっとしていた。すると、
「大人しくしろ」
肘をくっつけるように両腕をまとめた状態で、結束バンドか何かで縛られた。そして、目隠しをつけられ、うつぶせにさせられた。うつぶせと言っても相変わらず手首と足首がくっついているので、えびぞりのような変なポーズになる。本当に身動きが取れなかった。そして、突如背中に重みが加わる。紅子が上に座ったのだと思う。内臓が圧迫され、息が苦しい。吐き気もする。
そして、次の瞬間右足の裏に鋭い痛みが走った。
私は聞いたこともないような絶叫をあげ、のけぞった。しかし、背中の重みのせいでピクピクと情けない動きしかできない。それでも逃れようと暴れる内、左足の裏にも同じような痛みが走った。私は体全体が笛になったかのような悲鳴をあげる。足首の方まで温かいものが伝うのがわかる。
「痛い、痛い、助けて」
紅子は何も言わない。そして、私の背中の上から退いて、私を蹴り起こした。私はベッドから転げ落ちる。その拍子に目隠しが外れた。紅子は無表情だった。
「そのくらいじゃ死なない」
ただそうつぶやいた。そして、相変わらず泣き声を上げ続ける私を無視するかのように、淡々と語り出した。
「人間本当に、そんな浅く切っただけじゃ死なない。もっと太い血管を狙うんだよ。何回も」
私はこの時、この殺人犯は今まで一体何人もの人を手にかけたのだろうか、という疑問を起こした。そのくらい、慣れているというか、感覚が麻痺してしまっているような口ぶりだった。そして、さらに私は畳み掛けられた。
「そもそもおまえは逃げられない」
声は冷たい。
「おまえは、あの山で死体を捨てるのを手伝った」
「でも、無理やり……」
私はほそぼそと反論する。
「共犯は共犯だ。そもそも、おまえが目撃したあの現場、どう考えたって一番怪しいのはおまえだ」
「つ、爪から、皮膚片が……私のじゃない……」
その時、紅子はようやく表情を動かした。
「そりゃそうか……やっぱり残しておくのが一番悪い」
そして、紅子はいきなり私の肩辺りを蹴飛ばした。
「おまえのせいだ」
直後部屋の電気が消された。私の血に塗れたナイフをドアから部屋の外へ乱雑に投げ捨ててから、そのまま紅子は汚れたシーツの上に転がった。私は全身の激しい痛みにうずくまって耐えるしかなかった。その夜はひたすらに長かった。
翌朝になると、血はかろうじて止まっていたが、床に広がった血痕にはぎょっとした。しかも、今度はその血痕を片付けてくれることはなかった。当然、こんな足では動くことはできなかった。それからは、以前のように十分な食事は与えられず、風呂などももちろん入れない。そして、部屋には監視カメラが取り付けられ、四六時中見張られるようになった。私は変わらず心身を激しく消耗させていた。
もちろん家族や友人のことが常に頭に浮かび、そのたびに憂鬱とも怒りとも取れぬ複雑な感情に見舞われた。しかし、それよりも私の心に重くのしかかっていたのは、紅子の「おまえも共犯だ」という言葉だった。特段倫理的に潔癖というわけではないが、それでも規律を守ることや正しい行為をすることに比較的重きを置いて生きてきた私は、この事実に耐えようもなかった。すると、あまりの息苦しさに思わず水面から口を出し「どうせすでに死んでいた」という言葉を吐き出してしまう。そして、人の命を結果論的に扱い、その遺体を無下にしたことを顧みようとしない自分に嫌気がさし、さらに首を絞められた。挙げ句の果てに、こんな思いまで起こした。自分が死体を捨てるのを手伝ったから、バチがあったてこんな目に遭っているのではないかと。とにかく、突拍子もない考えであったとしても、何かしらの因果関係や論理でがんじがらめにしておかないと、この問題はすぐに私の頭の中に立ち込めてしまうのだった。
紅子は例のごとく多くの時間を部屋で過ごした。実に暇そうだった。何も起こらない無言の空間で、紅子は私に声をかけることもなく、音楽や動画の音声で耳をふさいでしまうこともなかった。紅子の方を見ると何か言われやしないかと怖くて、私はその間下を向いていることが多かった。また、暇に耐えかねてあまりたくさん眠っていると、怒られてしまうこともあった。紅子はこの部屋で着替えや身支度など生活のさまざまなことを行っていたから、その様子をこっそりと眺めることもあった。それ以外に、することは何もなかったのだ。カーテンは終始閉められたままだった。
そんな日々が過ぎ、私が連れて来られてか二カ月もの時がたっていた。
ある日の夜中、私は突然揺り起こされた。そして、訳もわからぬまま紅子に腕をつかまれ、外に連れ出された。薄い部屋着ではとても肌寒い。そして、私は車に乗せられた。途端にあの生臭い匂いが鼻につき、嫌な予感がした。逃げる勇気はなかった。紅子の兄が運転する車は、二時間ほど走って、どこかの山奥にたどり着いた。その間見えた景色は、どれも知らないものだった。
トランクからブルーシートが降ろされる。
「ひっ」
思わず悲鳴をあげると、口をふさがれた。おぞましい顔をした死体の口周りに、何匹かのうじが集っていた。私はブルーシートの一端を持たされる。そして、あらかじめ掘られていた穴に、それを埋めた。帰りの車のなかで、自分の手の土汚れを見ながら、それ以上のもので自分の手が汚れてしまったのを感じた。
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