第3話 模範囚
それ以降、私は部屋の中で食事・排泄などをさせられた。食事は一日一度、夜の適当な時間に菓子パンなどが与えられ、手の使えない私はそれを犬食いした。水はペットボトルを口でくわえてどうにか飲んだ。こぼすと蹴られた。変な姿勢のせいで体のあちこちが痛み、服も着替えられず風呂にも入れないため、だんだんと体臭が気になってきた。
ふと、こんな疑問が湧いてきた。どうして彼女は私を自分の部屋に置いておくのだろう。見張っておくためとはいえ、不衛生な状態の私を自室に放置し、挙げ句排泄までここでさせる必要はないはずだ。よほどの性的趣向の持ち主か異常者ならまだしも、相手は私と同世代の女。もちろん私に対して性的な興味を持っているそぶりは少しも見せなかった。
この生活が始まり一週間がたつ頃、新たな問題が起こった。朝目覚めると、床に赤黒いシミができているに気がついた。生理が来てしまったのだ。女はそれに気がつくと舌打ちをした。が、蹴りを入れては来なかった。私は目隠しをさせられ、足の拘束を解かれた。両手は相変わらず後ろ手に縛られた。
「立て、歩け」
私は指示されるがまま動いた。そして、部屋から出たらしい。次に目隠しを外された時には、私は脱衣場と思しき場所にいた。狭くて古めかしく、くもの巣が張っていた。女がドアの方にたって、手錠を外される。
「脱げ」
私はためらったが、また蹴られることが嫌でしぶしぶ従った。時々女の様子をうかがう、冷たい視線を向けられた。
「……痣だ」
床についていた膝と蹴られた腹にできていたそれを見て、女はつぶやいた。脱いだものは乱雑にビニール袋に詰められ、袋の口を縛ってから隅に置かれた。風呂場はとても狭く、洗い場に二人で立つことはできなかったため、私は空の浴槽の中に座らされた。それから、手は前で縛られた。拘束は今までよりも緩くなっていたが、体力の落ちた体ではこの狭い密室から逃げようもなかった。
なんの声掛けもなく、いきなり水圧の強いシャワーで全身をくまなく流される。服を着たままの女が裸の私の頭を洗う様は、水あかだらけの鏡にどこか滑稽に映っていた。体はどうするのかと思ったが、何の遠慮もなく石鹸を擦り付けられる。身をよじったり避けようとしても強引に引っ張られるだけで、結局は顔を背けることしかできなかった。血で汚れているのが気になり、股間の付近だけは女が背中を洗っている間に不自由な両手で洗った。背中を洗っている間、女は小声で漏らした。
「もっと食わせないとダメか」
最後にもう一度体を流された後、タオルで包まれる。それはゴワゴワで硬く、体に擦り付けられると少し痛かった。それから、当然替えの服など持っていない私は、女のものと思われる服に着替えさせられた。少し緩い。そして、頭にタオルを乗せられ、再び歩かされた。うっかり忘れたのか、目隠しはされなかった。そして、元いた部屋ではない知らない部屋に連れていかれた。そこには、二十代半ばくらいのガリガリの男がいた。グレーのパーカーを着て、黒縁の眼鏡をかけたその顔は非常に神経質そうだ。彼が私を誘拐した時に車を運転していた男だろうか。それまでパソコンに向かって作業していた男は、振り返るなり私を見て怪訝そうに言い放った。
「紅子……おい、こっち連れて来んなよ」
私はハッとした。紅子、紅子と呼んだではないか。やはりこの女こそがあの黒髪の女子、霧崎紅子に違いないのだ。これで、携帯さえあれば助けを求められる。あとは、疑われないよう慎重に模範囚を演じるだけだ。
「うっせえ、兄貴」
この男は紅子の兄らしい。こう都合よく情報を漏らしてくれるとは。頭の中で考えを巡らせていると、いきなり腕を引っ張られ、テーブルの前に座らされた。六畳間で、このテーブル、男の使っているデスク、テレビ、そして埃を被ったストーブが所狭しと置かれていた。
「おまえの部屋から出さないって約束だろ」
「ちょっと面倒なことになっただけだ」
「どんなことだよ」
紅子は答えず、隣の台所らしき部屋へ移動した。そして、しばらくするとカップ麺を片手に戻ってきた。
「これでも食ってろ」
そう言って手錠を外されたが、箸もないのでどうしようもなかった。そして、
「兄貴、一瞬そいつ見てて」
と軽く言って出ていってしまった。男の方は、私の方を一瞥したかと思うと、すぐ目を逸らしてパソコンの方に向き直った。完全に放置されたことで改めて孤独を感じ、縮こまる。よく薄情と称される身であっても、さすがに家族のことが想起された。ここのところ、ほとんど菓子パンかおにぎりしか口にしていない。まともな食事にありつきたかった。そう思うと、ストレスからか今まで鳴りを潜めていたはずの食欲が急に襲ってきた。目の前のカップ麺に手をつけたかったが、当然動けないのでどうしようもなかった。
十分かそこらがたつと、紅子が戻ってきた。
「食えつっただろ」
「あの、おはし、が……」
そう答えると、紅子は大きなため気をつく。
「おい兄貴、そんぐらい用意してやんなかったのかよ」
「知らねぇ。自分で世話しろ」
麺が伸びる、と言いながら彼女は立ち上がり、箸をとってきた。
「おらよ」
私はそれを受け取り、カップ麺を食べ始めた。とにかく空腹だったので、夢中で食べた。手を拘束されている時の煩わしさももどかしさもなく、家では決して食べないような代物であっても、久しぶりにまともな食事ができた気になった。その様子を見張っていた紅子は徐に立ち上がると、自分もお湯を注いだ同じカップ麺を持ってきた。
「さっき朝飯食ったろ。また太るぞ」
兄貴と呼ばれた男は言う。時刻は午前九時過ぎだった。
「人が食ってるとこ見ると食いたくなる」
紅子はそんなことを言って、時計を見た。まだおそらく二分もたっていなかったが、十秒後には彼女も麺をすすっていた。誘拐犯と食事をともにするのは実に変な気分だった。
食べ終えるとまもなく、部屋に連れ戻された。汚した部分は、さっき紅子がいなくなった間に片付けたらしい。それから、以前のような拘束はされなかった。ただ鍵のついた部屋の中に二人きりというだけである。当然、だからといって逃げ出せるわけではない。紅子が部屋にいるのは一日せいぜい十六時間くらいで、後の時間は拘束され、動けなかった。自由になったこととして、見張られながらであればトイレに行くことができるようになった。それから、拘束はあるが風呂、洗面、歯磨きなどは毎日行われるようになった。
だから、私は紅子の気が緩んだのだろうと思った。が、まもなく実情は全くそうではなかったことを思い知る。むしろ、気が緩んでいたのは私の方だったのだ。
私の期待通りにはいかず、紅子は携帯を肌身離さなかった。充電も居間の方でしているらしかった。そのため通報の機会はなかったが、私は着々と情報を集めていた。まず、女の名前は霧崎紅子で間違いないこと、それから確かにうちの学校の生徒、少なくともかつて在籍していた者であることはわかった。やはり紅子はあの黒髪の少女だったという訳だ。冷静になってみると、華奢で気弱そうなあの少女の面影は、今の肉付きがよく金髪で派手な格好をした紅子にはあまり残っていない。自分の直感を信じてよかった。仕事はしているようではなかったが、夜七時あたりに出かけて、翌朝戻ってくるということが何度かあった。そういう時は、決まってコンタクトをし、化粧をして、ストレートの髪をアイロンでさらに整えてから出かけていた。そして、帰ってきた日の朝は、必ず兄の方の機嫌が悪かった。例の盗撮画像に基づくなら、そういうよからぬことをしていることになる。しかし、不思議なことに、何となくだけれども、私は彼女からそういう不潔さは感じ取れなかったのである。
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