殿下と彼女のその後の話

太陽の御子と月の御子


「おぉ、ナターシャ殿」

 洗濯籠をよいしょと持ち上げたトニカの侍女を見つけたコルドバは、嬉しそうに呼びかけた。

「あら、コルドバ様。ごきげんよう」

 ちょうど洗濯が終わり、帰るところだったナターシャは、そのまま会釈をして通り過ぎようとした。しかし、コルドバがナターシャの傍まで駆け寄ってきたことで、部屋への帰宅が阻止されることとなったのだ。よほど話したいことでもあるのかもしれない。


「今はまだ地理の本を読まれていますので、お借りするものはありません。いつもありがとうございます」

 だけど、今後の予定を考えたナターシャは、さっさと終わらせたくて、思い当たることを一つだけ先に答えた。

「そうでしたな、地理。名産や風土などと合わせて覚えていくと、面白いものですが、借りてきましょうか?」

 確かに。

 とナターシャが思う。


 トニカは地図を眺めながら、この辺りが羊の放牧をしている場所で、こちらが、紅花の畑のある場所で、ここが王都で、とブツブツ呟いていることが多い。

 そして、すぐに雨量を気にしはじめる。何か考えているらしい。こうなったトニカは意地でも止まらなくなる。

「ねぇ、ナターシャ、雨の多さって、やっぱりその土地に行かなくちゃ分からないものなのかしら……」

 もちろん、ナターシャには答えられないので、「さぁ、どうでしょう」としか言えない。もしかしたら、コルドバなら分かるかもしれない。

「コルドバ様、その土地土地の雨の量とは、どうすれば分かるものなのです?」

 一瞬、きょとんとしたコルドバだったが、すぐに答えを寄越した。


「聞き伝えのところは多くありますが、資料として執務室に取りそろえてありますが……どういうことでしょう?」

「トニカ様がお気になされていたもので」

 ナターシャは会話を切り上げようと、そこでにっこり微笑み、会釈をした。

「あぁ、持ちますよ」

 それなのに、まだ付いて来ようとする。

「あの、まだ何か……」

「あ、ご迷惑でしょうか?」

 迷惑というか、いつもひとりでささっと済ますことのできることなのに、これでは時間がかかりそうだと思ったのだ。

「御用向きがあれば、どうぞ」

 ナターシャが諦めて、仕方なく立ち止まると、コルドバはやはり嬉しそうに「持たせてください」と洗濯籠を取り上げた。仕事を取り上げられては、どうしようもない。そんなナターシャの思いをコルドバが感じ取り、謝る。

「申し訳ない。フィン様のことなのです」

 あぁ、やっぱり。


 コルドバのフィン様愛は深い。ナターシャのトニカ様愛と張るくらい。

 だから、時間が奪われたついでにトニカ様の「やらねば病」についても知らせておこうと、ナターシャは思った。ナターシャの経験上、最近のトニカは危険なのだ。

 そう、トニカは何かをしなくてはならないと思うと、周りのことが見えなくなる。いや、見えすぎてその空気のようなものを感じにくくなるところがあるのだ。

 正義感というか、使命感というか。

 男の子だったら……。


 そう思うと、少し残念で、その兄のことを思えば、女の子で良かったとも思える。

 アラバス家を出て、ここに来てからは少し落ち着いていたのだが、フィン殿下と会話をするようになって、また再発しそうなのだ。楽しそうなのに、残念である。

 殿方は女性に上回られるのを嫌う節があるから……。

「もちろん、私は悪いことだとは思っておりませんが、トニカ様に悪気もないのですけど、フィン殿下のお気を悪くさせてはと、少し心配しています。一生懸命フィン殿下を考えるが故なのです。だから、この国全体のことをたくさん知ろうと勉強なさっているだけなのです」


 いつの間にか、洗濯場の腰掛けに座り込んでいた。コルドバは聞き上手なのだ。そして、「あっ」とナターシャが声を上げた。

「申し訳ありません。お尋ねになりたいこと。私ばかりお喋りしてしまいました。コルドバ様は何をご心配なされていたのでしょう?」

 水を向けられたコルドバはなぜか「ふふ」と笑った。

「いえ、解決致しました。トニカ様は、リモナ様に似ておられるのかと思っておりましたが、どちらかと言えばローゼマリア様でございますね」

 なぜ、王妃であらせられるローゼマリア様が出てくるのか分からず、ナターシャがきょとんとしていると、コルドバが嬉しそうに笑った。


「フィン様が、最近この国のことに興味を持っておられます。もちろん、外の国と付き合うにあたり、自国を知ることはとても大切なことなのですが、あまりにも急でしたので、どうなさったのかと。それにトニカ様が驚かれてはいないかと心配していたのですが、杞憂でした」

 フィンに似合わず、王位でも目指そうとされているのでは、と心配したのだ。ただ、別に本当に目指そうとするのであれば別にそれでも構わない。フレデリック様も、反対は、なさらないだろう。今までだって、そんな争いの上で勝ち残った者が、王位に就いてきたのだから。

 ただ、それには危険が伴う。フィンの世界では、気付けない悪意もたくさん蔓延っているのも確かだ。

 しかし、巻き込んでしまう形となるトニカ様との婚約は、破断を前提に考えようと思っていたのだ。


 そして、空を見上げた。杞憂だとまた笑いたくなる。

 コルドバはその空にうっすらと影を現す白い月に、リモナを見ていた。

 ローゼマリアが『太陽の女王』だとすれば、リモナは『月の女王』であった。

 太陽はすべての道を照らし、すべてに豊かさと未来を与える。

 月は静かに輝き、不安な者を優しく照らし、希望を失わないようにしてくれる。

 ただ、太陽と違い、闇を消し去る程の光はないのだ。


「フィン様が、そのようなことでトニカ様を嫌うことはありませんから、大丈夫ですよ」

 フィン殿下は、リモナ様そっくりだ。

 そして、月は確実に暗闇を歩くための道を照らしてくれる。



「綿花とは、急にどうしたのだ?」

「この国はどちらかと言えば羊毛産業が発達しており、それを軸に経済が回っているのですけれど、隣の国も同じく羊毛が発達しております。今後、あちらが余剰を多く持つ可能性もあり、安く仕入れられるようになると、こちらの経済に打撃があると思うのです。ですので、別の可能性も考えておいても良いかと思うのです」


 フィンは膝にある温かいイブリンを撫でる。イブリンを撫でながら、トニカの言う未来はまだ来ないだろうと、考える。そして、これは将来フィンが外交を担うだろうという話をしたことに端を発しているのだろうとも思う。それに、指摘自体は間違っていないとも思う。

 ただ、実質そこまで国を動かせる力をフィンもトニカも持っていない。現王フレデリックでさえ、いきなり思いついたからと言って、急に産業を動かせることもない。


「トニカは忙しい女だな」

「……あ、私、また。申し訳ありません。でも、殿下、……いえ、大丈夫です」

 俯いてしまったトニカに視線を移動させ、フィンが口を開く。

「いや、私の気付かないことに気付くトニカは、素晴らしいものを持っていると思っている。綿花か……我が国で育てられるのか、調べておいても良いのかもしれぬな」

 今のフレデリック王か、次期王だろうロン殿下に進言すべき時があるかもしれない。


「このまま調べていてもよろしいのでしょうか?」

「分かれば知らせてくれれば良い」

 トニカは素直に『誰かのために何かを考えること』が好きなのだ。そして、そんなトニカを見ていると、たくさんのものを温められる太陽のようだ、と思う。決して自分に真似は出来ない。そして、ロンが生まれてくれて、本当に良かったと、ほっと胸を撫で下ろすのだ。ロンはフレデリックに似て、おおらかに物事を見据えられるし、表情も豊かで、人に好かれやすいし、人を惹きつけられる魅力もある。国王として申し分ない。


 ただ、解せぬことといえば、先日「兄上は僕の年でトニカ様と婚約されたのですよね。心配ないですよね。僕に何かできることがあれば言ってくださいね」と確かめられたことだ。あれはいったいどういう意味だったのだろう?


 ロンも早く婚約者が欲しいということなのだろうか?

 フィンが僅かに首を傾げていると、トニカも首を傾げていた。


「殿下、どうされました?」

「いや、なんでもない。綿花だな……実際に栽培できるように花壇を造らせてみようか」

 フィンが答えるとトニカが「はいっ」と太陽のように笑った。

 こんな笑顔をする女だとは思いもしなかった。

 太陽の御子みこだな。


 ローゼマリアが太陽の女王なら、トニカはきっと太陽の御子なのだ。本来ならば、日陰者の自分には勿体ないくらい。しかし、フィンはそんなトニカに一つだけ不満があるのだ。ただ、嬉しそうに目を輝かせるトニカを見ていると、まぁ、構わないか、と思えるのだけど。

「今度図書室で綿花についてをもっと調べて参ります」

「トニカは面白いな」


 それは穏やかな昼下がりの、他愛のないふたりのいつもの会話だった。

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