私が"ホラーマン"と言われた日。
@0719sae3
第1話
2009年6月私は拒食症になった。
幼稚園、小学校、中学入学まで勉強は中の下、身長は高めで痩せ型、顔面は特な不自由なし、性格は泣き虫の典型的な末っ子。
この条件の中で生活してきて、幼少期から自分で言うのもなんだが一般的にモテた。
小学生の時はラーメンやお茶漬けが大好きで、学校終わりにおやつがない日は夜ご飯までの小腹満たしに食べたりする痩せの大食い。
それでも、特に太ったりすることなく「痩せてるねぇ」と言われ育ったように思う。
しかし、今思えば幼少期から『太る、痩せる』には敏感な子供だった気がする。
私には姉がいるが私とは正反対の見た目容姿で、
幼少期は中肉中背、顔は丸く負けん気が強くて男勝り。姉は勉強やスポーツも得意でいつも比べられていた。そんな姉に私が勝てたのが「スタイル」だった。
中学校に入る頃には、部活に入る入らないや勉強は塾か家庭教師…選択肢が多く、私は"皆"に溶け込める選択を好む傾向が強かった。
小学生のころ日本バレーボールが流行ってて父が休みの日にバレーボールを買ってきて「中学に入ったらバレーボールがしたい!」だなんて言いながら私はバドミントン部を選んだ親不孝者だ。
元々運動神経もよくない私がなぜ運動部を選んだのかはもぅ忘れてしまったが、たぶん「かっこいい!」と思ったからだと思う。
中学一年生は、勉強になれない中する部活動で毎日ヘトヘトになりながらも"青春"を送れていたと思う。友達とマクドナルドに行って新作のマックフルーリーをたべたり、プリクラを取ったり。
その時はその中学生の青春が最後になると思ったことはなかった。
第2話
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中学2年生の6月。体重43キロ
中間テストが間近に迫った4.5日前。
全くお腹が減らなくなった。
「食欲」が私の中から一切消えたのだ。
両親も姉も風邪やら色々心配していたが2日くらい食べないで寝ていても大ごとだとは思わなかったんだと思う。そりゃそうだ。
しかし、3日目4日目になっても食欲は湧かず飲み物も喉を通らない。それを心配して見かねた母が私の好きなバナナジュースを作ってくれた。それは好きだし美味しく飲めた。
私自身なぜお腹が全く減らないのか、なぜ食欲が一切ないのかわからなかった。
ご飯の時間になっていい匂いがしてきても、全く気にもならなかった。まさに『無』である。
3日目、4日目は母の特性バナナジュースでなんとか乗り切ったようなものだった。(そのバナナジュースには母が卵を入れたり砂糖を入れたり牛乳や生クリーム…とにかくカロリーが少しでも高くなるように作ってくれていたらしい…)
テストも間近でご飯を食べられない私を見かねた両親が病院に連れて行った。
そこは父が扁桃腺でよく通う街の内科。
そこで体重を測った時38キロになっていた。私は内心「おー痩せたなぁ」とその時思ったのを今でも覚えている。苦手な運動部で作った太もものポっこり張った筋肉はまるっきりなくなり、棒のようなスッキリとした脚になっていた。悪くなかった。私の辛くて苦痛だった筋トレも一瞬にして水の泡だったから笑ってしまう。
内科では14歳の女の子に診断をつけられる訳もなく、大きな病院の小児科を紹介された。
すぐに紹介状を持って大きな病院にかかるべきではあったが、テスト期間も始まり終わってからにしようと私も両親に伝えそのまま何も、食べず母のバナナジュースを飲みながら保健室でテストを受けて、テストが終わったら自宅に帰る。そんな感じで無事に一口も何も口にすることなくテスト期間を終えたのであった。
きっと1週間くらいは何も食べずに過ごしたことだろう。その間も一瞬空腹を感じたこともあったとは思うが「食事がしたい」となることはなく"食欲"は私から家出したままだった。
第3話
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やっとテストも終え、母と大きな病院に行くことになった。当時14歳で小児科にかかり、36キロまで縮むことに成功した私は呆気なく入院となった。ちゃっかり生理も止まった。その時に私は『神経性無食欲症』と初めて診断された。晴れて?拒食症という病名がついたのだ。
しかし、私はそんな自覚もなく「なにを言っているんだろうこの大人達は」くらいにしか当時思っていなかった気がする。入院して点滴して検査してご飯が食べれるようになったら退院できる。
そう言われたから「なんだ、すぐ退院か」と。
入院すると毎日朝起きたら体重を測り、それを紙に記入してご飯を食べたらどのくらい食べたかを報告する。これは小児科のお約束。
ちなみにトイレも一日どのくらい行って、便をしたかまで報告しなければならない。
すごく、苦痛だった。
人生初めての入院で、強制されることに嫌悪感を抱いた。特に体重を毎日計ることは私にとって凄まじいストレスとなっていた。
しかし、体重を測る時は看護師さんがいたりいなかったりで自分で置いてある紙に記入するスタイルだったのが項を生して中学2年生の頭で『嘘を書く』ことをひらめき出したのだ。
食事も本当のことを書く必要はなく、紙にどのくらい食べたか書いて自分で食事をデイルームにある大きな機械車みたいなのに戻せば嘘がバレることもない。14歳の私は嘘で塗り固められた姿と化した。
そんな娘の姿に疑問を持ち、心を痛めたのは他でもない母だったと思う。
私は毎朝来る担当医をT先生(女性)と呼び、日々の回診で交流を適切にはかり、交渉に交渉を重ね「38キロで退院してもいい」という確約を取り付けたのだ。我ながら幼少期から話すのが得意だったのがここで生きるとは思わなかったが、正直チョロかった。毎朝の体重は嘘を書いて徐々に38キロに近づけて、食事も頑張ってる感を出して少しづつ食べた量を増やした記載をし、便が出た時は体重を少し減らし増減のリアリティをだす。
そんなこんなで36キロで入院した私は36キロで退院することに成功したのだ。
しかし…
14歳の小娘には気づかなかった大きな問題が残されていたのに気づいたのは退院後である。
週に一回の通院が定められていたのだ!
これは盲点!外来の診察では必ず体重計に乗せられ、隣に絶対看護師さんがいて記録することくらい中学2年生の栄養失調の私でも容易に想像できた。
38キロで退院の約束を36キロで病院を脱獄(正当?な退院)し、その差2キロ…。
1週間後には外来受診で体重計に乗せられる…
そこで嘘は通用しない。
そうしたらまた入院となってしまう。
しかし、ご飯をバク食いする気力もやる気ももちろんない。そもそもせっかく痩せたのに太りたくないのだ。そこで中学2年生は考えた。
『当日沢山水を飲んでポケットに携帯を入れよう』
これしかない名案が浮かんだと思う。
水は沢山飲んでも尿として排泄されるし、ダボダボになった服の中に携帯を仕込んだところでボディー検査などされない。不本意だが病院前は母親と外で食事でもして頑張って食べれば2キロなんてすぐ埋まるだろう。
今思っても実にアホだ。
退院して病院受診までの1週間、また食事をとることが嫌だと言い、家族に半ば半ギレで絶食を続け差が2キロだったはずが、気づけば35キロ代に。
病院が近づくに連れて、体重は減っていく…
焦りと痩せる願いが叶っていくのが交互に私のメンタルを刺激していった。
母もそんな私を察し心配したのか「それじゃまた入院だよ…」と私の焦りと不安を刺激するために声をかけ、私も入院はしたくない一心で、不本意ではあるが36~37キロ台まで戻して病院を受診。
受診直前も食事を取り、水をがぶ飲みして携帯をポッケに仕込み無事入院回避ができたのだ。
しかし、そんな小細工が続く訳もなく2週目には呆気なく再入院。
私がついていた嘘も華麗にバレて、体重測る時は看護師さんに声掛けして確認してもらい
食事は自分で下げる前に量を確認されるという、もぅ手も足も出ない状態へと陥った。(当たり前だ)
強いて言うなら厚着をするくらいしか抗う方法などなく、早起きしてトイレに行き体重測る前に部屋に戻り水をがぶ飲みする手法も取ったが、部屋に戻る前に看護師さんに捕まったらもぅお手上げ。14歳の嘘など大人が見逃すはずがない。
そして再入院の時はしっかり38キロオーバーで正規?の退院を果たした。
第4話
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大変なのは退院後だ。
また退院すれば体重を落とせる一心で、入院生活を乗り切ったと言っても過言では無い。
しかし、家族の目も更に厳しくなり私も戦闘態勢。私が食べないと言えば両親は悲しみ、姉は呆れる。我が家の空気をぶち壊す、まさにクラッシャー状態の存在な私。
しかし、太ることへの恐怖。
食べることへの不安を超えた食への嫌悪感や怒り、
自由を奪われる入院は嫌だという正常な判断。
自分でも私をどうしたらいいかわからなかった。
食べたくない、太りたくない、でも入院したくない。
なんて我儘で傲慢なのだろう。
入院もタダでは無いし、家族への負担も多い。姉は私の2個上で高校に入学したばかりだった。
親不孝者というより家族不幸も甚だしい。
そんな収集のつかない自問自答の葛藤を繰り返しながら
家族への罪悪感を考える余裕もなく、
全く食事も水分も取らなくなって寝てばかりな私を見兼ねた姉に説得され夜間救急にかかり、そのまままた再々入院となった。深夜。
14歳の冬。34キロ。
ここまででお分かりの通り、学校に行けるはずもなく中間テストが6月に終わり7月の夏休みを境に私は青春を放棄した。
ちなみに、中間テストは今までで1番いい成績だった。(と、言っても中学1年生の時しか受けていないが)
長い長い数字という"体重"との戦いが始まる。
第5話
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再々入院した時の担当医はI先生(男性)へと変わったのである。たまたま夜間救急で診てくれたのがI先生で、入院したらT先生(女性)にまた戻るんだろうと思っていたがなぜかI先生のままだった。
夜間救急を受診したとき、私は入院が嫌で不機嫌で何を聞かれても無視するか睨むを繰り返した為、I先生が担当となって少し気まづかった。
恐らくT先生には見放されたのだろうと14歳ながらに思ったのを覚えている。
しかし、I先生との出会いは私の人生でとても貴重で、とても大切な思い出だ。
I先生はお世辞にも愛想はなく、口数も少ない。
そしてなんかいつもヨレヨレしてると言うか、何を考えてるか分からない顔をしている。ついでに清潔感もあまりない。髪の毛はモジャモジャで忙しくて美容室に行けないと実験で失敗し爆発した博士のような感じになっていた。マスクで髭はわからなかったけどきっとボーボーだったと思う。
でも。どんな時も私の話を聞いてくれた。
くだらない雑談から、太りたくない気持ちまで遮ることも急かすこともなくただただ聞いてくれた。
わたしがこうしたい。
ああしたい。という我儘もできる限り聞いて、判断してくれた。
だから私は自分の心と共に病気と初めて向き合えたのかもしれない。そのままI先生となら拒食症という病気も少しずつだったけど良くなっていく自信が芽生え始めていた。
だけど、運命はそう思い通りにはならない。
第6話
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I先生が別な病院に移ることになったのだ。
私も一緒に移りたいと思ったし、家族もそれがいいと思ってくれていたがI先生は小児心臓の専門医で、一切メンタル系ではない。
1人でも多くの子供を救って欲しい気持ちと、移る病院が遠方なのを聞いて「私もがんばってみる」と言ったものの。結果的に光の速さで転げ落ちたのは言うまでもない。
I先生が移動する為、担当医が変わる。
それで連れてこられたのがT先生(男性)だ。
ズボンの丈が少し、いや5cmほど足りてないコミュ力皆無の先生だった。
でも、私は信頼するI先生の紹介だしきっといい先生なのだろうと思い込みI先生が移動する前に35キロで退院の許可も得た。
退院する間際、病院で胃腸炎やら肺炎が流行っており私も恐らく胃腸炎になっていたりして体重も下がっていたが、I先生は私の気持ちの変化にきっと賭けてくれたのだと思う。
I先生から1度だけ手紙を貰ったことがあって、『医者としてその方針が賭けになってしまうのはどうなのだろう?って気もしますが、僕はいつもあなたと御家族と自分に賭けています』
こんな人間らしい手紙を貰ったのも、私の話を最後までいつも聞いてくれたのも14歳の私にはI先生が最初で最後の最高なお医者さんだった。
そんなI先生にも迷惑かけたくないし、頑張る気がメラメラとしていた私は必ず予定通りに退院したくて、熱を測る時は脇を上げて「なんか部屋が暑い暑い」と白々しい演技もしつつ微熱ではあったがなんとか退院した。
I先生は私の熱を心配していたが、私の白々しい元気なフリ演技とI先生との別れを惜しむ姿を見て退院させてくれたのだろう…。
第7話
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そして、2日後には自宅で唇が真紫になった。
マイコプラズマ肺炎だった。
I先生がいなくなり、T先生(男)が担当医となって初めての入院。肺炎になって入院した時は28キロだった。
さすがの私も驚いたのを覚えている。中3の始め。
マイコプラズマ肺炎で入院し、I先生抜きにT先生と話すようになるがビックリするくらい馬が合わない。会話にすらならないのだ。
一生縮まらない距離があそこには存在したと思う。
私が泣きながら話そうと、何かを訴えようと話してても「届いてない」って中学生の栄養失調の私がわかるほどに。
それは15歳の中学3年生には言葉にできないほどの苦痛だった。
せっかくよくなりかけてた『太ることへの考え方や自分の気持ちの整理』が一瞬にして砕かれた。いや、砕いた。ような気分になった。
マイコプラズマ肺炎で点滴と流動食のような経口栄養食を口にはしていたが、一切また食事を受け付けなくなり、太る事も嫌になり、
積み上がってきていた気持ちも一気に崩れ落ち、
人生初めての26キロとなった。
そして、1度目の死を感じたのはこの時だった。
家族が病院に呼ばれて、姉も高校から病院まで来てくれてなんだかソワソワ…
私は当人だが全然死ぬなんて思ってもないし、少し眠いから目を閉じる…そしたら看護師さんやら母や姉から名前を呼ばれて起こされる。
「寝ちゃダメ」と誰かに言われたのはなんとなく覚えている。
あとは覚えていない。きっと色々さ迷っていたのだろう。
しかし、なんとか?生還し
ご飯も少しずつ食べたり経口栄養食のおかげで肺炎で運ばれる前の29キロまで戻ることに成功した。
だが、この時にはすでにT先生とはそれはそれは疎遠も疎遠なくらい互いに踏み込めない、踏み込みたくも、踏み込まれたくもない溝ができあがっており、修復不可能だった。(私は修復する気もなかった)簡単に言ってもすごく嫌いだったのだ。
きっと彼も私が嫌だったと思う。
だから28キロで退院の許可をしてくれたのだろう。医者としての判断云々よりも互いのためにもそれが一番良かったと思う。
第8話
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20キロ代に突入してから、足の裏がゾウさんのように浮腫、紫斑もでて歩くのも足が痛くて立ってるのも辛いくらいの大きさに浮腫んでいた。
それでも、
20キロになっても、
私は歩きたくて、食べたくなくて、食べたら沢山動き回らないとおかしくなりそうだった。
自分で足を上げられなくて階段も登れなくなり、嫌々エレベーターを悔しい思いをしながら使ったこともある。
1度しゃがむと自分の太ももの力じゃ立ち上がれないくらい衰弱していたのだろう。
マイコプラズマ肺炎で入院した時は26-29キロ代だったので相当骸骨だった。
そんな時に洗面台で出会った年長さんくらいの男の子に『ホラーマンみたい…』と小声で言われて、部屋に帰って号泣したこともある。
この本の題名はここから来ているのだ。
母親と病院のお風呂に入った時は『解体新書みたいだ』と笑ったくらい、ひどいものだった。
そして風呂場で意識がなくなったこともある。
2度目の死フラグ。しかし、これは私の我儘で入ったお風呂であり、圧倒的に悪いのは私だ。弁明の余地もない。
一緒に入ってくれた母親には怖い思いもさせてしまったし、病院の看護師さんや先生方にも悪くないのにも関わらず反省させる結果を招いてしまった。あと、不覚にも母の裸を看護師さんに拝ませてしまう失態も招いた。
重ね重ね関係者の方々には頭が上がらない。
申し訳ないです。
そんなこんなで、
ホラーマンに進化?退化?した私は自宅に帰った。
第9話
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そして私は自宅に戻り15歳の中学最後の体育祭を見に行って自宅で意識がなくなった。
死を感じる3度目の正直。
残念なことに29キロくらいで自宅に退院してからの記憶はまるっきり無いのだ。
今思えばきっと毎日死にかけていた。
食事をとったのかも、病院に行ったのかも覚えていない。
ただ、中学最後の文化祭をゾウさんのように浮腫む足で顔面蒼白でホラーマンのような面構えで行って友達が号泣していたのはなんとなく覚えている。皆私が死ぬとその時思ったのだろう。無理もない。ホラーマンだ。
私が目を開けた時には病院で
首に管、鼻にはチューブ、総理大臣が変わっていて、2010年サッカーワールドカップが終わったくらいの頃だった。
全然なにがなんだかわからなくて、ついていけなかった。
朝母が仕事前に私を起こし会話をして、仕事に行ったらしい。
12:00になっても私と連絡がつかなくて、たまたま学校を早退して帰ってきていた姉に電話をして私を見に行くように言ったら「えー面倒臭い」と言って渋った姉だが、なんだかんだ優しいから私を見にベッドに行くと白目を向いて汗だかなんだかわからないが、とにかくベチャベチャ?だったらしい。姉は私の命の恩人だ。
母に「なんか白目むいてる!」と姉は伝え、母は仕事を早退し自宅に戻って、その間に姉が救急車を呼び帰ってきた母と合流。
15歳のホラーマンだが思春期の娘がベチャベチャは可哀想だという一心で、ベチャベチャから2人がかりで着替えさせてくれたらしい。恩に着る。
そして、救急車に揺られ私は病院に運ばれて姉が同乗し、母は車で、父は現地集合で無事に1家が集結した。
母は車で病院に向かう時に、救急隊の人から「救急車を追いかけてこないで冷静に運転してきてください」と、言われたらしい。
気が動転した家族が救急車の後ろを走って赤信号を乗用車が無視してしまうことがあるかららしい。それは危ない。ナイス救急隊の人!
意識不明の私と、その愉快な1家が病院に着き『延命はしない』と家族会議で決めていたらしい。
しかし、私は悪運が強いのか意識は無いが心臓は動いてICUに運ばれたようだ。
ここで、みなさんに伝えたいのだが
本人は当然意識がないのでなんにもわからないから、家族の話しか聞くことが出来ない。
できればホームビデオや携帯のムービーで構わないので残しておいて欲しい。と、意識が戻って思った。意識が戻ったから思えた。
第10話
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そこからまた、ずっと空白の時間が続く…
ICUを脱することが出来たが、小児科に移り経過観察をしている時は『半覚醒』という状態だったらしい。
たしかに、なんとなく話したり怒ったり泣いたりした記憶がある。
T先生に「死ね!」と言った記憶もある。
鼻のチューブを取り替えるのが痛くて泣いて看護師さんに暴言を吐いた記憶もある。
中学の担任の先生がお見舞いに来て泣いていたような記憶もある。
首の管を止めてるテープが痒くて、テープをよく剥がしていたらミトンを履かされてそれをどうにかとろうともがいていた記憶もある。
あ、鼻のチューブから入れてたのがずっとコーヒー牛乳だとも思っていた。(本当はバニラだった)
これらの記憶は全て『なんとなく覚えている』レベルなのだ。
ちゃんと覚醒したのは笑っていいともを見ようとテレビをつけて、その前のニュースで総理大臣が変わったことと、2010年ワールドカップで本田圭佑選手がなんかコメントしてたのがこの世に戻ってきた明確な実感だった。
ここまで書いても、書ききれていないことが山のようにある。
しかし、今となれば古い記憶なので
細々とは書かないでおこう。
そんな感じで3度目の死に損ないが生還し、
このままじゃ治るものも治らん!と
家族会議をしていただいた結果。
都会の小児精神専門の病院に移ることに。
第11話
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そこからはもぅうなぎ登りです。
私は意識なくなって、
意識が戻った頃には34キロになっていた。
意識が無くなって救急車で運ばれた時は23キロだった。
意識がない間にチューブと管だけで11キロも増やされるなんてまさに青天の霹靂。
しかし、意識が無くなったおかげで色々忘れていた。太りたくない気持ちはあったけど、昔ほど強くもなく、食べ物へのこだわりも忘れ、まるで別人。
退院する頃には36キロはあったと思う。
しかし、小児精神専門の先生は容赦ない。
その病院に行く頃にはまた少しずつ"あの頃"の記憶を思い返して体重が減って34キロ。
『次会うまでに38キロにできてなかったら入院ね!』K先生は私にそう言った。
「いやいや、38キロなんて何年も見てないぞ。
そんなの無理に決まってる。おかしい!(怒)」
15歳の私は反論するが、虚しく(当たり前)聞き入れてもらうことはなく次の受診で呆気なく入院。
『退院は42キロ。売店に行きたいなら38キロ(看護師付き1日1回)、40キロで1人で売店(1日1回)それまでは移動は全て車椅子で』
まさに、絶句。
食べても動けない。
1人で売店行くにも40キロにしないといけない上に1日1回。階段を使うのも1日1回じゃないか!
しかも40キロなんて、すごろくでいう振り出しに戻るような感覚…
私の今までの死に損ないは全て、
小児精神専門医の言葉で無に期した。
目の前の動くために下げられた人参のために
私は最早太るしかない。馬の如く。
拒食から過食期と思うほど
我慢していた大好きな菓子パンを食べ、アイスを食べ、病院のご飯も食べてみたりしながら何年もかけて命を犠牲にして減らした体重はあっという間に元通りに。
太るのは簡単なのに、痩せるのは難しい。
命を削って知ったことは本当にコレだった。
第12話
━━━━━
その頃の私は高校生となり(通信制だが)、
辞退していた"青春"を再び取り戻すかのようにムクムクと元気になり、現在の健康体に至り、長い間家出していた"食欲"も無事に帰宅。
高校を卒業し、進学、一人暮らしをスタートし自由になって食べなくなることもできたが、そんなこともなくMAX体重は52キロ。
そこから年齢を重ねていく事に、43-48キロの間をずっと行き来し続けてもぅ6年くらい。
食事へのこだわりも特になく、3食食べようとも思わないし、お腹が減ればたべるし、食べたいものを食べれるだけ気にせずたべる。
たしかに、
いまでも太りたくないし、痩せていたいけど
中学生の頃のようなガリガリにはなりたくない。
これは紛れもない本心。
綺麗で、可愛く、モテる素敵な女性でい続けたい。時間は戻せないから、同じ後悔はしたくない。
せっかく病気になる前に戻れたのだから。
あとがき
━━━━━
私は拒食全盛期な時肉も魚もだめだったし、菓子パンなんてありえない。白米も、バターや油、マヨネーズ…
ダメなものがありすぎて思い出せない。
でも、3回目の死にかけで意識が長い間なかった"おかげ"でたくさん忘れられた。それでよかったし、『それがよかった』と生きてるから思える。
何度も助けてくれた家族にも感謝だし、沢山泣かせてしまったことも忘れない。
自分の時間のみならず、償いきれないくらい家族の時間も奪ってしまったからだ。
私が過去に戻れるなら、中学1年生からやり直したい。
たぶん拒食症になった理由である、中一の終わりに好きな男の子から言われた
【『案外太ってるね』】という言葉。
言葉は刃物だ。"たまたま"私が気にするワードだったと言うだけで人は23キロまでなることができて、3回も死にそうになる。
生まれ変わったらそんな言葉に負けないくらい強い気持ちで中学生という貴重な10代を過ごしてみたい。
どんなに願おうと過去には戻れない。
だから今「痩せたい」と悩む子に伝える。
今が1番若くて可愛くて、美しい
何にも変えられない価値ある存在だってことを。
どんなに願おうと"あの時間"は戻らないのだから。
綺麗事でもなんでもなく私の実体験に元ずくお話です。
人間わりとやろうと思えばどこまでもやれちゃう。ダイエットに限らず。
だから怖い。
私はこの経験を友人に自ら話すことはこれまでも、きっとこれからもない。
恥じてるでもないが、私にとっては
"なくてよかった経験"だから。
いまの私にとって黒歴史。
鼻にチューブか入った顔も、首に刺してた高カロリー輸液の痕も、痩せすぎて肺気胸になって萎んだ肺を膨らませるために入れた管の痕も…
私の人生に舞い降りた"ダイエットの闇"。
しかし、
経験していなかったら、ダイエットの大変さも酷さもきっと知らずに生きていただろう。
家族への感謝も、「いつまでも綺麗な女性でありたい」という思いも今とは違っただろう。
でも、結果論として経験した。
知らなくてよかったことも、
なくてよかった時間も
流さなく済んだかもしれない涙も。
だから私はいまの自分に出会えた。
それは今となっては幸せでもあり、
結果的に幸せの解釈ができるまで成長した。
私のこの経験が誰かの"なにか"になればいい。
それ以上も以下もなく。
ダイエットで流す涙が1粒でも減りますように。
私が"ホラーマン"と言われた日。 @0719sae3
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