冬生まれの夏海

月原友里

冬生まれの夏海

 人の名前は、生まれた季節に由来して名付けられることがある。春に生まれたから春香、秋に千秋──など。生まれる前から死ぬまではもちろん、その存在が忘れ去られるまで一生使われる名前には、様々な想いが込められているはずだ。

 それなのに、私は両親から与えられた想いを受け止めきれずにいる。


「夏海! 今日部活あるから一緒に帰れない」


 友達から呼ばれたその名前は、夏の日差しを受けて輝きながら揺らめく海を連想させる。


「あー、分かった。また明日ね」


 別れの言葉を返し、教室を後にする友達──矢澤優香ちゃんを見送る。こちらが軽く手を振ると、優香ちゃんは大きく手を振り返してくれた。明るく元気でとても良い友達だけれど、名前ではなく名字で呼んでくれたらな、と私の心は曇ってしまう。仲良くなったから名前で呼んでくれているわけで、名字で呼んでほしいとは言えるわけがない。

 私の誕生日は12月12日。れっきとした冬生まれなのに、名前には『夏』が付けられている。初対面の人には、私が夏生まれだと勘違いされることがある。冬生まれだと知った後には名前の由来を聞かれるが、どのように答えれば良いか分からず言い淀んでしまうことがほとんどだ。

 友達と一緒に下校予定だったが、一人で帰ることになった。今日は寄り道をしようか、と考え事をしながらカバンに荷物をまとめる。席を立とうとすると、後ろから肩を叩かれた。振り返ると、クラスメイトの菅沼達彦がこちらを見下ろして立っていた。


「八雲、ちょっといい? 暇なら黒板綺麗にするの手伝って欲しいんだけど」


 今日の日直である菅沼の手には、真っ白になった黒板消しが握られていた。一人でやれば良いのに、と思いつつも了承し、カバンを置いて席を立ち上がる。特に用事は無いため、断る理由が無かった。


「左半分は俺がやるから、八雲は右側をお願い」

「分かった」


 黒板の縁に置かれた黒板消しを手に取り、チョークで書かれた文字を消していく。消すたびにチョークの粉が舞い、ブレザーの袖口が白くなった。終わったら叩いて落とさなければいけない。ふと視線を横に向けると、菅沼とばっちり目が合ってしまった。

 茶髪にも見える色素の薄い黒髪にすっと通った高い鼻、薄い唇に180cmあるという身長──。同じ中学校出身の菅沼は、かっこよくていつも人気があった。

 私がずっと見ていたからか、菅沼が不思議そうに首を傾げる。


「八雲、どうかした?」

「……菅沼は人気があってイラッとするなぁって思った」


 言い過ぎた、と思わず口を抑えるが、嫌味の混じった言葉は既に菅沼の耳に届いてしまった。


「人気があっても、関わりが浅かったら寂しいもんだよ。波長が合う相手が居なかったら、仲良くなるもんもなれないし」


 菅沼は手を止め、はー、と軽くため息を吐く。人気者には人気者にしか分からない悩みがあるらしい。もし普段菅沼と接している人が聞いていたら、少し可哀想だと思う。今この教室に誰も居なくて良かった。

 私は少し重くなった空気を誤魔化すように、んんっ、と大きく咳払いをしてみた。そして黒板の上の方の文字を消そうと、えいっ、と背伸びをする。


「もう1月だけどさ、未だに中学のやつらが恋しくなってる。早く高校でも友達作らないといけないのに、友達になりたいと思えるやつが居ないんだ」

「友達になりたい人が友達になるとは限らないんじゃない? こう、偶然の出会いというか、運命というか……」


 菅沼の考え方は違うのではないか、と反論してみる。視界の端で、菅沼がどこか不貞腐れている様子が見えた。


「……へー。じゃあ八雲がどうやって高校で友達が出来たか教えてよ」


 気がつくと菅沼は作業を終えていて、綺麗になった黒板にもたれかかりながらこちらを見ていた。菅沼の顔は窓から差し込むオレンジ色の夕陽に照らされている。その光景がとても綺麗で、思わず見惚れていた。夕陽によってくっきり浮かび上がるフェイスラインをなぞるように視線を移動させる。まつ毛が長くてバサバサで羨ましい、と眺めていたらその顔がぐっと近づいてきた。


「聞こえてる?」


 十分聞こえている。けれども、私の唇は上手く動かなくて頷くことが精一杯だった。

 慌てて残っている板書を全て消すと、黒板消しを置いてブレザーについたチョークの粉を叩き落とす。ドキドキ高鳴る心臓を落ち着けさせるために深呼吸を繰り返したのち、ゆっくりと口を開いた。


「私が高校で友達出来たのは──」

「すみませーん! この教室バスケ部が使うんで」


 私の声を掻き消すほどの大きな声が背後から飛んでくる。そういえば、バスケットボール部の顧問である担任がHRで話をしていたことを思い出した。

 菅沼と目を合わせると、お互い苦笑いをした。


 ***


 桜といえば、卒業シーズンや入学シーズンの象徴として扱われている。しかし、卒業式の時にはまだ咲いていないし、入学式の時には既に散ってしまっていることが多い。そんなわけで、道いっぱいに敷き詰められた桜の絨毯を歩きながら新しい学び舎へと向かう。

 進学した高校は電車に乗って30分ほどのところにある。仲の良い友達は皆違う高校に入学したため、一人で新生活に挑まなければならなかった。

 校門をくぐりクラス分けが書かれた名簿を受け取ると、自分の教室となる1年3組を目指す。名簿を見ると、一人だけ知っている人物の名前があった。教室に入ると、その一人だけ知っている人物の背中が見える。その背中を、とんとん、と軽く叩いた。


「菅沼、また一緒だね」

「おう。またよろしく」


 菅沼はスマートフォンをいじっていた手を止めて顔を上げると、こちらを向いて笑いかける。菅沼とは小学校こそ違うものの、中学3年間同じクラスであった。この高校に進学するとは聞いていたが、まさかまた同じクラスだとは思っていなかった。どこか不思議な縁を感じる。

 菅沼の席から離れて自分の席に辿り着く。少し早くに着いたからか、周りはまだ空席が目立っていた。ただ、私の目の前の席は既に女子学生が座っていた。

 紺のゴムでポニーテールに結われている髪の毛の綺麗さに驚く。傷んでる様子は無く、ツヤとハリがあるように見えた。どんなケアをしているのか気になって仕方がない。私は秘密を探るように、じーっ、と髪の毛を見つめる。その視線に気付いたのか、女子学生がこちらに顔を向けた。


「あっ」


 視線が合い、思わず声が漏れる。相手も目が合うとは思っていなかったようで、二人の間には沈黙が訪れた。


「……八雲さん、かな。矢澤優香です。よろしくね」


 前の席の女子学生もとい矢澤優香ちゃんは微笑みながら手を差し出してくれた。私も手を伸ばし、ぎゅっと手を握る。


「八雲夏海です。こちらこそよろしく」


 これが、のちに友達となる友達となる優香ちゃんと私の出会いであった。


 ***


「それからしばらくは出席番号順の席だから話す機会も多くて、一緒にお昼食べたりしているうちに仲良くなった感じだね」


 私と友達との出会いのエピソードを披露し終え、キンキンに冷えたコーラをストローで飲む。喉元で炭酸が弾けるのが心地良い。

 教室を追い出された私達は、高校の近くにあるハンバーガー店に居た。菅沼の奢りで食べるハンバーガーセットはいつもよりも美味しく感じる。


「確かに矢澤さんと八雲は出席番号が連続してるか。そりゃ、運命の出会いだな」


 だけどな、と言いながら菅沼はポテトを一本掴むと指を差すようにこちらに向けてきた。


「それは4月だったから出来たわけで、1月である今その技は使えない」

「そうなんだよね。……うん、あんまり菅沼の参考にはならないかも」

「もう既に関係性が構築されてるし、ここから仲良くなるのは難しいな。どうするか」


 クラス内の関係性は出来上がっており、そこに菅沼が介入するのは難しいかもしれない。それでも菅沼に話しかけてくれる人は居るわけで、友達を作れる可能性はある。


「クラスの人とは普段どんなことを話してるの?」

「んー、授業のこととか話すけど、基本は聞かれたことに答えてる」


 聞かれたことに答えているだけでは、交友関係は広がらない。話しかけてくれる人が居るのだから、菅沼が受け身の姿勢をやめれば親しくなれるはずだ。

 そのことを伝えようと考えていると、ポテトを摘んでいた菅沼が突然大きく目を見開いた。


「俺からも話しかければいいのか!」


 どうやら私が指摘する前に、本人が気付いたらしい。菅沼は頭を掻きながら口を開く。


「待ってるだけじゃ何も始まらないよな。相手のことを知らないと仲良くなりようがないし。八雲のおかげで気付けたわ、ありがとう」


 菅沼のアーモンドのような大きな目が私に向けられている。瞳は髪と同じように茶色っぽく、どこか優しげな印象がある。やっぱり菅沼はかっこいい。正直なところ、菅沼の見た目はかなり好きだ。菅沼から話しかけられたら、男女問わずみんな喜ぶだろう。

 ずっと菅沼に見惚れているわけにはいかないので、コーラを飲んでから一つ咳払いをする。それから、菅沼から視線を外してそっぽを向いた。


「菅沼が自分で気付けたんだから、私に感謝する必要はないよ」

「いや、八雲と話せたから気付いたんだって。だから八雲には感謝してる。ありがとう」


 菅沼にがっしりと両手を握られ、改めて感謝の言葉が伝えられる。そこまで感謝してくれているとは思わなかった。手を握られていることとあわせて、なんだか照れてしまう。分かった、と言わんばかりしきりに頷くと両手を解放してもらえた。よく考えると私も菅沼も手にポテトの塩がついていたが、指摘するのも野暮だろう。


「俺を助けてくれたわけだし、八雲も何か悩んでることがあるなら相談に乗るから」


 そう言われたものの、菅沼に話せるような悩みは特に見当たらなかった。優香ちゃんを始め友達は複数人居るし、勉強面で困っていることも無い。悩みといえば自分の名前についてだが、友達に話すにしては少し重たい話題な気がする。もし今後話したいことがあれば、その時は菅沼に頼らせてもらおう。


「それでさ、八雲のこと名字じゃなくて、名前で呼んでもいい?」


 菅沼の言葉を聞いて、ポテトを食べる手が止まった。それから、全身の血の気が引いていく。今の私は人に見せられない顔になっているはずだから下を向いた。

 名前で呼びたいと思ってくれたのは、私と仲が深まったと感じているのか。そう思っているのなら素直に嬉しいが、名前で呼ばれたくない私にとっては複雑な気持ちになる。少しだけ顔を上げて菅沼を見ると、困惑した表情を浮かべていた。この状況をどうにかしたいが、どんな言葉で気持ちを伝えればいいのか悩む。


「八雲が嫌ならこれまで通りの呼び方にするけど」

「嫌じゃないよ。嫌じゃないんだけど……」


 その先の言葉が出てこず、私は口を噤む。顔は俯いたままで、申し訳なくて菅沼の顔を直視できない。

 優香ちゃんは特に何も言わずに私を名前で呼ぶようになったな、と思い出す。あまりにも自然に名前を呼ぶものだから、その時は動揺してペンケースの中身をぶちまけた。菅沼も許可なんて取らなければ、こんな空気になることもなかったのかもしれない。

 店内は高校生が多く話し声に満ち溢れていたが、私と菅沼の間には沈黙が流れている。


「……さっきも言ったけど、八雲が悩んでるなら相談に乗る。人に話すことで何か見つかるかもしれないし」


 沈黙を破った菅沼の言葉が頭の中に響く。私はハッとして顔を上げると、心配そうに眉尻を下げる菅沼と目が合った。こんな時でも菅沼の顔はとても綺麗だ。

 名前についての悩みは誰にも話したことが無い。家族には言えないし、友達に話すには重い話だからだ。そう簡単に解決出来る悩みではないけれど、菅沼の言う通り話すことで何かが見つかるのかもしれない。

 いざ話そうとすると、話すことが少し怖くて全身が震えてくる。冷静になれ、と何回も深呼吸を繰り返すと次第に落ち着いてきた。私は少し目を伏せながらゆっくりと話し始める。


「……私、自分の名前が好きじゃないんだよね。人にもよく言われるけど、冬生まれなのに夏海って名前変だなって思ってた。両親に由来を聞いたら『夏みたいに明るい存在になってほしい』からって言われたんだけど、ちょっと含みのある言い方だったから引っ掛かっちゃって」


 両親に名前の由来を聞いたのは、小学一年生の時だ。あの時の両親は、どこか困った顔をしていたことを覚えている。


「その後遠くに住んでる母方の祖父母と会う機会があって、祖母から教えてもらって本当の由来を知ったんだけど……」


 私はそこで言い淀んでしまう。話すと決めたのに、いざ話し始めたら怖くなってしまった。やっぱり重い話だったかもしれない、と少し後悔してきた。

 チラリと菅沼の方を見ると、とても優しい表情を浮かべていたので驚く。戸惑いなどは見せずにしっかり話を聞いてくれているようで、その姿を見ていたら後悔が薄れてきた。私は氷が溶けて味が薄まったコーラを飲んでから話を続ける。


「きょうだいの中で一番上なんだけど、私の前に妊娠してたみたいで、その子につける予定の名前だったんだよね。残念ながら流産だったから、名前は私に使われた。それを知ったら、両親がどんな想いを込めて名前をつけたのか、とか考え出しちゃって。その子の分も、って思ってこの名前にしたのかな……」


 話し始めるよりは落ち着いているけれど、まだ心臓がバクバクと音を立てているし、テーブルに置いている指先は少し震えている。それでもなんとか私が言いたいことは言うことが出来た。

 気の早い両親は妊娠が分かってすぐに名前を決めていたらしく、出産予定日が夏頃だから名前に夏を付けたのだと祖母から聞いた。性別が分からない段階で名前を決めていたということは、男の子用の名前も用意していたのかもしれない。

 菅沼は私の話を聞いてどんなことを考えているのだろうか。今はとても真剣な顔をしていて、表情から気持ちを推し量ることは出来なかった。

 少しの沈黙の後、菅沼が口を開いた。


「……話してくれてありがとう。こういう時にどんな言葉を掛けるのが正解か分かんないけど、八雲は辛かったんだろうな、って思う」


 優しい声色で紡がれる優しい言葉が私の胸の中に溶け込んでいく。それから、目頭が熱くなって、ぽろりと一粒涙が溢れた。一度泣いてしまったら歯止めが効かなくなって、ぽろぽろ涙が流れていく。私の想像以上に菅沼の言葉が胸に響いた。


「ご、ごめん。泣くつもりはなかったんだけど」

「大丈夫だよ」


 スカートのポケットに入れていたハンカチを取り出して涙を拭っていると、次第に涙は止まってくれた。気持ちを落ち着かせると、周囲の視線が私達に集まっていることに気付く。理由は私が泣いていたからであることは明確で、少し恥ずかしくなった。


「……続きは歩きながら話そうか」


 菅沼の提案に私は食い気味に頷いた。

 ゴミを片付けて店の外に出ると辺りは暗く、太陽の光を失ったことで余計に寒くなっていた。コートのポケットに入れっぱなしだったカイロがまだ熱を帯びていたから、今朝の私に感謝している。

 駅までの道を歩きながら、菅沼と話を続ける。


「答えたくなかったら答えなくていいんだけど、八雲のきょうだいの名前はどんななの?」

「弟が陸人で妹が美空。だからきょうだいで関連性はある名前なんだよね」

「そうなんだ」


 海に陸、そして空。きょうだいで関連性があるからこそ、この名前を嫌いになりきれなかった。この名前を完全に否定することで、弟と妹との関係も否定してしまうように思えたからだ。名前こそ好きではないが、両親を含め家族のことは好きだ。


「……別に両親の想いなんて気にしなくていいんじゃない?」


 横を歩いていた菅沼から聞こえてきた言葉に衝撃を受けて、私は思わず立ち止まった。菅沼も私に合わせて止まる。横を向くと平然としている菅沼と目が合った。一方の私は驚いてフリーズしかけている。


「八雲の両親が八雲に本当の由来を教えてないんだから、知らないフリをすればいいんだよ。もし名前に込めた想いを八雲が背負ってほしいと思ってるなら、自分達から伝えてると思うし」


 菅沼の考えを思いついたことがなかった。目からウロコが零れるようで、私は何も言えずにその場に立ち尽くす。

 両親の想いを受け止めて、それに応えなければいけないと勝手に思っていた。名前に込められた想いは重いと思い込んでいた。けれども両親は本当の由来を伝えてないのだから、私は知らないフリをすることができる。そういう考え方に今まで辿り着かなかった。自分一人で悩むことは、良くなかったのかもしれない。これからは両親の想いは気にせずに生きていこう、と強く決心した。今なら自分の名前ときちんと向き合える気がする。

 私が考え事をしていると、菅沼は急に焦り出した。


「あ、俺の個人的な意見だから気に食わないなら全然殴ったっていいから!」


 焦りすぎてよく分からないことを口走っている。私が何も話さなかったから不安になったのだろう。そんな菅沼の様子がおかしくて、私は声を上げて笑った。それから、再び駅に向かって歩き出す。


「菅沼のおかげで悩みが解決したよ。ありがとう」

「それならよかった」


 私が感謝の言葉を伝えると、菅沼も笑ってくれた。駅に着くまでの間お互い何も話さなかったが、不思議と気まずくはなかった。

 心が軽くなったし、清々しい気持ちになっている。薄暗かった世界に一筋の光が差し込んで、呪いに囚われていた私を解放してくれた。菅沼が私に光をくれたし、感謝してもしきれない。菅沼は交流のあるクラスメイトという感じだったが、もう仲のいい友達だと思ってもいいだろうか。

 駅に着くと、帰宅ラッシュで混雑している電車に乗り込んだ。菅沼とは中学が同じだったため、最寄り駅も同じである。菅沼と並んで座席の前に立ちながら、30分かけて地元へ帰る。

 乗り始めてから10分ほど経った頃、カバンに入れていたスマートフォンが震えた。後で確認しよう、とそのままで居ると、菅沼に肩をつつかれる。手に持ったスマートフォンを掲げていて、どうやら私に見てもらいたいらしい。

 カバンからスマートフォンを取り出すと、菅沼からメッセージが来ていた。中学の頃に連絡先を交換していたが、普段やり取りすることは無い。


『うみって呼んでいい?』


 たった一言のメッセージだったが、嬉しくて胸がいっぱいになる。OKを意味するスタンプを送信すると、菅沼の方を見た。菅沼はスタンプを確認したようで、私を見ながら微笑んでいる。何故か私の頬が熱くなったし心臓の鼓動が速くなっているが、その理由には気付いていないフリをしたい。

 私の名前に海がついているからうみなのだろうか。今まであだ名で呼ばれたことはなかったから、特別感があって嬉しく感じる。自分の名前が好きではなかったが、菅沼のおかげで少し好きになれた。


 ***


 いくら太陽が出ていても冬の朝は寒い。駅から高校まではたった7分間の道のりなのに、それ以上歩いているような感覚に陥る。カイロを握り締めながら、高校に辿り着く。昇降口で着ていたコートを脱いでいると、後ろから勢いよく誰かに抱きつかれた。


「夏海、おはよう!」

「おはよう。今日も元気だね」

「だって良いことがあったからね!」


 抱きついてきたのは優香ちゃんで、とても上機嫌だった。どうやら、昨日無くしていたキーホルダーを家の中で発見したらしい。それだけでそこまで嬉しいのかな、と内心思ったがそのキーホルダーは優香ちゃんにとって特別なものだった。


「私のお母さんが誕生日にくれたイニシャルのキーホルダーなんだけど、すごく可愛いからお気に入りだったの。紐が取れて無くしちゃってたから、見つかって本当に嬉しいんだ」

「そうだったんだ。それは嬉しかっただろうね」


 優香ちゃんはカバンにつけているYを模したキーホルダーを見せてくれた。ニコニコ嬉しそうに笑っていて、キーホルダーに対する想いが伝わってくる。

 私はイニシャルが入った雑貨が好きではなかったな、と思い返す。自分から買うことはなかったし、家族や友達から貰っても実用的な物以外は使ってこなかった。プレゼントを使わないなんて最低なことをしているが、当時の私にとっては使い難い代物だった。自分の名前と向き合える今の私なら、ちゃんと使える自信がある。

 優香ちゃんと話しながら教室に入ると、何人かのクラスメイトと談笑する菅沼が目に入った。昨日の話を踏まえて、人の話に答えるだけでなく自分からも話しかけているようだ。時折笑い声が聞こえるから、円滑な会話が出来ているようで安心する。

 自分の席でカバンから荷物を出していると、菅沼と目が合ってしまった。少し恥ずかしく感じて、目を逸らしてしまう。そんな私が気に入らなかったのか、菅沼は会話の輪から抜けて私の元へとやって来た。


「そっぽ向かなくても良いでしょ」

「ご、ごめん」

「別に良いけどさ。おはよう、うみ」

「おはよう」


 菅沼はいつもと同じ笑顔で、私の新しいあだ名を呼ぶ。その声がやけに心地良くて、私も自然と笑顔になった。

 悩み事が無くなった私は、生まれ変わったような気持ちになっていた。教室の窓から見える青空が、心なしかいつもより澄んで見える。鬱々とした気持ちを捨てて、新しい生き方が出来そうでワクワクしていた。

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