第5話 イルに奇想、天外より落つ

「痛いのは我慢。渡したタオルはまず目に付いたのを拭くんだけど、拭ったらダメだよ。できるだけ吸わせるようにして」


 イルからの思いやる言葉を噛みしめるように、黙って頷くニョロ太達。それを見遣ると、イルはマコトに向き直り、何をして欲しいかを伝える。


「あと、これから移動させる必要があるけど、マコちゃんは周囲を見てうまく移動させる方法がないか、確認してくれる?」


 イルが指示し始めると、面白いようにテキパキと事が進んでいく。二人で分担することの凄さ、できることの広がりを感じ始めるマコトだった。こういうときは、お互いわかっていることを言い合って、すべきことは共有したほうが良いからと、マコトは思い付くものを言葉に乗せる。


「わかった。できれば医者に診てもらうのがベストだからね。まぁ、仮に診てもらえるとしても、すぐにではないから、まずは応急処置しとかないと、医者に診てもらう前に取返しがつかなくなるのはかわいそうだもんね」


 マコトがそう言うと、イルは次の手筈の指示も含め、整理して言い直した。


「一旦、応急手当できたなら、次は移動と連絡だね。できればご家族? ……おうちの人に任せたいけど、もしも医者が近くて状況がよくないなら医者に直行しよう」


 イルと言葉を交わしながら、マコトは辺りを見渡すと、それらしきものに目が止まり、心の中で呟く。

(あれっ? もしかしてリヤカー?) 


 見るほどにマコトの中の確度は高まり、急いでイルに報告を上げる。


「200mくらいかな? かなり離れているけど、林の木陰にリヤカーみたいなのが見えるよ?」


 マコトがそういうと、直ぐに指し示す方向、遠さを意識しながら探し始めるが、イルの眼にはなかなか捉えられない。


「ど、どこ? そんなのどこにも見当たらないよ」


 諦めかけて、凝らしていた目の力を僅かに抜くと、焦点は合わないもののそれっぽいものがボンヤリ目に留まる。


「ん? あーーっ、言われてみればリヤカーみたいにも見える気がするわね。でも遠すぎて豆粒よりも小っちゃくしか見えないけど、マコちゃんはとても目がいいのね」


 一度捉えてしまうと、そこからは調整力が働くのか、少しだけピントは合っていくが、やはり小さ過ぎて判別は難しいようだ。それを識別できてしまうことに驚いていると、マコトは少しはにかみ顔で返す。


「えへへ。そんなにいいわけじゃないけど、意識して気合を入れて見ると、最近は結構遠くも見えることがあるんだ」


 目の良さに驚きつつも、そんな表情で返すマコトの姿を微笑ましく受け止め、その可愛らしさにうっかり見とれてしまうイルだったが、フッと我に返り、改めてリヤカーを借りたい旨を伝える。


「おっと、そうだった。近くにもし持ち主がいたなら、緊急事態であることを伝えて借りてきてくれないかしら? もしいなくても、一刻を争うから、目立つところに書き置きをして、借りてきちゃおう。筆記具は持ってる? もしなければ、そこの私のカバンにメモ用紙とボールペンが入っているから、一緒に持っていってね。今日中に返すことと、私の名前と連絡先も書いておいてね。連絡先は筆記用具入れの裏に書いてあるから……」


「わかった。ちょっと行ってくる」

「お願いね」


 すぐに救護に専念しようとニョロ太達に視線を戻しながら、マコトが飛び出していくのを視界の端で見届けるイル。そう思った矢先のこと、マコトが走っていった方向の遠いところで、「チュドーン」と大きな音がしてイルは体をビクッとさせた。


「えっ? えっ……、なに? 何が起きたの?」


 慌てて、マコトの方向を見遣ると、何やら、目的のリヤカーの近くの木にぶつかったようで、転んですぐ立ち上がって、「大丈夫」って大声で聞こえた気がしたイル。


「うん、大丈夫ならいいの。すごく大きな音だった気がするけど……、ホントに大丈夫?」


 独り言を呟きながら、何も思い浮かばない空白の一瞬が過ぎる。


「……」


 ふと我に返り、イルは視線を再びニョロ太達に戻しつつ、マコトの心配をしながらも、何かすごい違和感に包まれたような不思議な感覚に襲われる。


「ん? あれっ? マコちゃんが飛び出して、2、3秒くらいしか経ってないはずなのに、なんで200m離れたところにいるの? もしかして、私、意識が飛んでたかしら?」


「ただいまっ! リヤカー借りてきた」


 再び、何も思い浮かばない空白の一瞬が過ぎる。どうやらイルの脳は考えることを拒絶しているようだ。


「……」


 一瞬遅れて思考が沸き上がる。


「えっ? えっ? えぇ? えーーっ!」


 あまりの出来事に、それ以上、声も出せなくて、イルは口をパクパクさせていた。


 マコトが飛び出しておそらく5秒も経っていないはずだが、200m先にあったと思われるリヤカーとともに今ここにマコトがいる。


 オリンピックの選手の世界なら、100mを10秒くらいだから、200mの往復なら、少なくとも40秒以上はかかるはずである。それが普通のしかも小さな子供なら、その3~4倍はかかるのではないか、とイルは考える。


 別に時間を計ったわけではないが、身体に浸み込んでいる時間感覚的常識が、そこから異常なほどに乖離していることに全力でアラートを発信しているのがわかる。この異常事態を解消すべく、イルの心の中では、自問自答の諮問委員会が開催される。


 ……わっ、わたしがおかしいの? 

 ……これは夢? そうだ、きっと夢に違いない!

 ……はっ? もしかして、幻覚を見るかもしれないってマコちゃんが言ってた。

 ……特に痛みも痺れも感じていないから、気付いていないうちに私も毒を受けてしまったのかしら? 

 ……若しくは、既に幻覚の中にいて、痛みすらも気付かなかったとか? 


 時間にして約1秒間。


 マコトの「ただいま」の直後から、そんな考えが走馬灯のようにイルの頭の中で超高速で駆け巡った。


 当然、何の整理も付いていない状態だが、返事だけは返す必要があることが染みついている。


「はは、は、早かったのね。お帰り。ところで、私、今起きてる?」


「えっ? マコには起きているようにしか見えないけど、イルは寝ながらお話しできるの? もしかして今は眠っている状態なの?」


 ……えーっ! マコちゃんにドン引きされちゃったぁ? 

 ……

 ……早く自分を取り戻さないと

 ……落ち着け! わたし!


 イルの様子ははたから見ても不自然極まりない感じで、かなり挙動不審に見えた。


「アハハハ、変なこと言ってるよね、私。なんか、マコちゃんの動きが異常に速く感じて、私の時間感覚がおかしいみたいなの。私も毒に冒されて、幻覚見てるのかな? ごめんね、役立たずだね」


 悲しそうにイルは話す。

 イルにとって、自分の感覚とこれほどまで乖離する事態は経験したことがない。これまで目の前で起こる出来事を五感で捉え積み上げた経験則からなる常識。それの何を信じて良いのかもわからなくなるほどの事態だ。今回の場合、その状況を見ていないことが大きいが、それでも時間感覚だけは、ある一定以上の短縮は不可能な越えられない壁が存在する。その概念が狂うのだから、おかしいのは自分という答えにしか行き着かない。

 ところが、実はイルの感覚は全くの正常状態だった。


「あ!」

 異常に速いと言われ、思い当たったマコトは、慌てて、堰を切ったように話し始める。


「チ、チ、チ、違うよ。おかしいのはマコの方。緊急事態だから、って、もう無我夢中で、急がなきゃ、って、必死だったから、というのと、まだ慣れてないから、感覚がつかめないで、速すぎたみたい」


 必死に説明しようとするマコトだが、咄嗟、緊急事態のほかに、イルの理解の外側にあることの説明もする必要があることから、纏まらないままを早口で告げた。


「ぇ? そ、それはどうゆうこと? 速すぎるのは、私の勘違いじゃないの? ? ?」


 イルにはもう訳がわからない。生きてきた中で自然に培われてきた感覚的常識が目の前の現実に崩れ去った状況にほかならない。しかし、そんなところに、自分は間違ってないかもしれない言葉が届くが、当のイルには全く整理がついてない。そんな状況のイルにマコトは問い掛ける。


「あ! あ、あの、イルは口が固い? 秘密を守れる?」


 コクコクッ。イルは大きく頷く。それを見届けて、ニョロ太たちに聞こえないくらいの小声で、マコトが口を開く。


「あのね、イルは魔法って信じる?」


 イルは未だかつてないくらい、大きく目を見開いて返す。


「な、なに? 藪から棒に。信じてないよ。あるはずないって思ってる。でも、その言い方は、本当はあるって言いたいのよね?」


 静かにこくりと頷き、マコトは地面の小石を拾う。半信半疑のイルの眼はマコトの所作をつぶさに追いかける。


「イル、いーぃ? ちょっと見てて」


 イルが頷くと、マコトは手のひらの小石にオーラを纏わせる。うっすらとだが、小石がふんわり灯る。


「ぅぁーっ」


 イルは目を丸くしながら、思わず声を漏らす。マコトはすかさず、小石をゆっくりと浮かしていく。


「ゥナッ」


 言葉にもならない声を発して、イルは呼吸するのも忘れて、口をハクハクさせる。たぶん認識してくれただろうから、とマコトは、力とオーラを解き、小石を手のひらに戻す。


「イル、落ち着いた?」


 マコトの問い掛けに、ハッと我に戻るイル。っと、急に思い出したかのように、激しく呼吸する。


「ゼェゼェゼェ。息の仕方を忘れてた。あー、びっくりしたぁ。死ぬかと思ったよ」


「アハハハ、何事かと思ったよ~。呼吸忘れたら、そりゃやばいよ~。アハハハ」


「だってー。だって、だってぇ。生まれてから一度も経験したことのない、奇跡的なできごとが、目の前に繰り広げられるんだよ? 誰だってびっくりするよぉ。もしも、おじいちゃんおばあちゃん100人の前で突然やってたら、たぶん30人くらいはお亡くなりになるくらい衝撃的なできごとだよ?」


「え? あー、そうなのかな? うーん、教えないほうが良かったかな?」


 イルは食い気味に返す。


「ううん、教えてくれて嬉しい。ありがとう。でも、今やることだったの、これ? ニョロ太たちのこと、急がないとだよ!」

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