第3話 産声

「ソフィア、無事に生まれたぞ!」

「よかった……」

「大丈夫ですかぁ? え? ももも、もしかして、もう産まれちゃいました?」


 赤ちゃんは、待望の外へ出る思いが叶った嬉しさで満足気な笑みを浮かべつつ、いきなり外気に触れた寒さと、取り上げ包んでくれた暖かさと安心が声に漏れ出す。


「ひゃ、ほぉぅ……」


 日頃聞こえていた会話の中で、ジンが「パパ」と呼ばれていたことを思い出してそのまま声に出る。


「ばぅぷぁ?」


「え? ソフィア? い、今パパって呼ばれた気が……あ、看護婦さん、産まれちゃいました。あ、あ、まだへその緒が繋がっていて……」


 いきなりの出産だったとはいえ、ひと仕事を終えたソフィアは脱力感の奥底にあった。が、なんとか気持ちを振り絞り、ジンの言葉に返す。


「ふぅふぅ……よかったわね。産声がパパかぁ、ちょっと悔しいけどまぁいいわ。そんなことより、私、ううん、私たちの赤ちゃん、こんにちは! 生まれてきてくれてありがとう!」


「まんむぁ? きゃぃひ」


「今度は私よ、ジン。ママって言ったよね? それに可愛いって言わなかった?」


「そうそう、聞こえた聞こえた」


 当然言葉など伝わるはずはないが、何となくの意識が伝わったのか、キャッキャと言いながら満面の笑みで返す赤ちゃん。一方、看護婦は今何が必要かなど、状況を見据えながら近付き、テキパキと作業を始め、ソフィアに問い掛ける。


「もう、なにがなんだかわかりませんが、おめでとうございます。今医師せんせいがいらっしゃいます。まずは赤ちゃん、お預かりしますね」


 話しながら、ナースコールのボタンを押す婦長。カチカチッ、プーッ


「はいぃ」

「あ、私婦長です。301号室の一ノ瀬さん。無事産まれました」

「え?」

「駆けつけたら既に出産されてました。へその緒、一応クリップはしましたが、事後処置がまだなので、オペ室の手配と、それより、医師せんせいはまだですか?」

「ちょうど今向かわれました。オペ室は準備完了。いつでも大丈夫です」

「わかったわ。ありがとう」


 諸々の手配を済ませると、看護婦の婦長は、目前の不可思議な状況に疑問を抱きつつも、それを含めてこれから到着する医師に伝えることの整理を頭の中で進めつつ、もう一人の看護婦に指示しながら状況を整えていく。ジンの手から包まれたままの赤ちゃんを預かり左腕にいだく。赤ちゃんは無事で、目は瞑ったままだが、ジンとソフィアを交互に追うように微かに頭を傾けながら、キャッキャと笑っている。


 ふつうなら産まれたばかりは産声となる泣き声がない。まぁ、それはよいとしても抱きかかえる婦長自体に意識が向けられていないとなぜか思えてしまうところがやや釈然としないが、それもまぁよいとして、赤ちゃんと母体を繋ぐへその緒がなぜか薄っすらと光っているのは気のせいか、などと考えながら、赤ちゃんの身体を優しく拭ったりの作業を進めていた。


 すぐ横で、ジンは赤ちゃんを覗き込み、これでもかというくらいの崩れた表情で赤ちゃんの表情に翻弄されつつ、目が開いてないから見えていないはずの赤ちゃんに時折ソフィアの方向に顔を向ける仕草で繋ぐジン。もちろん目が開いていてもまだ視力は伴わないから見えていないはずだが、目を閉じたままソフィアに向けて顔を微妙に動かす赤ちゃん。そんなやや不思議な状況を目にする婦長だが、赤ちゃんへのケアがだいたい整うと、ソフィアに向けていくつか質問する。


「お母さんのソフィアさん、おめでとうございます。赤ちゃんは黒髪の女の子、まあ、ホントに真っ黒、漆黒の黒かしら? とても元気ですよ。ところでソフィアさん。確かまだ32週だったかと記憶していますが、合っていますか?」


 赤ちゃん誕生の嬉しさ、自身の出産に伴う痛みや行動制約からの開放による安堵感でソフィアはうっかり失念していた。健康そのものな状態であることは親子側も病院側も他の誰の目にも好ましいものと捉えられるが、現在のこの状況、人類の医学的にあり得ない突発的な変化は異常でしかないのだ。


 検査入院の発端となる、通常より早すぎる成長速度、という程度ならば、やや健康過ぎる特殊体質のような説明で乗り切れたと考えられる。


 もちろん、それすらも懸念してソフィアには躊躇いがあったものの、やや健康過ぎるだけで少し進みが早いくらいだから大丈夫、というジンの言葉に押され、また別の理由で病院を選べる状況になかったため、ソフィアは懸念を飲み込んでの検査入院となっていたのだった。


 そんな中、今起こったこの状況は、嬉しい、幸せなことには違いないが、ソフィアの懸念を遥かに超える状況に成り果ててしまった。婦長の心内には、当然そんな納得のいかない状況に疑惑が渦巻く。そのことを突きつける言葉を今婦長は発しているのだと、ソフィアは悟る。


 ソフィアの一族の記憶として継承されてきた魔女の黒歴史と犯してはならない戒律。どんなに文明が進もうとも、魔力に関しては何一つ解明されていない現代だから、戒律が護られなければ、また歴史が繰り返されることは自明の理。


 起こってしまったことはどうしようもないが、それならばどうすべきかを考えるソフィアはダメ元でなんとか誤魔化そうと試みる。


「はい。あ、予定より早いからそんなお言葉なのだと思いますが、今日、なぜか急激に成長したみたいで……こんなことってあるんですね、あはははぁ」


「いえ、ふつうはありませんよ?」


 婦長から、バッサリと断ち切るように、否定で返される。


「早産というケースはあるにはありますが、そんな場合、未熟児のままで産まれたり、いろいろと問題があったりするのですが、この赤ちゃんの場合、母体もそうですが、特に問題はなさそうな様子に見えます。確か、診察のときはお腹、まだそんなに大きくなかったですよね?」


 その上で明らかにすべく事実を掘り起こそうとする婦長。そんなところへ遅れてきた医師が到着する。


「婦長! 前の手術が立て込んでいた関係で、遅れてすまない。あ、ソフィアさん……って、え? 本当に出産されて、しかも終わっている状況? え? あれ?」


医師せんせい! ひとまずへその緒はクリップしてあります。施術は何もやってませんが、すでに生まれている状況で、術後処置は未処置です。オペ室の準備はできています。搬送しますか?」


「お? そうか、もう殆どやることは残ってないが、この特別個室は昔オペ室だったからいくつか設備も残っていて、消毒や感染対策なら問題ないし、メスや縫合に必要な最小限のものは所持している。むしろこの状態から移送することのほうが感染の危険は高そうだから、このままここでやってしまおう。後で術後の検査測定は必要だろうから詳細データはそのときに取得すれば大丈夫だろう」


 そう言いながら、医師はそのまま術後処理に取り掛かる。無理のない自然分娩だったのか、へその緒以外は切除も縫合も必要なく術後処理はすぐに終わり、その他に異常がないかを確認しつつ、持参したカルテへの記載を始める頃、今がそのとき、とばかりにソフィアが行動を起こす。


 (かけるなら今ね!)


 ソフィアの身体の輪郭がうっすらと光り、フッと見えない何かが降り注ぐ。


 ソフィアが放ったのは、ある範囲にいる者の記憶を曖昧にする魔法。その発動をいち早く感知したのは婦長に抱えられる赤ちゃん。魔法の効果範囲はやや広く、病院のフロアをすっぽり覆う程度だ。


「あー、うー、まんむぁ? きゃきゃっ!」


 面白かったのか、見様見真似でソフィアと同じような魔法を発動してしまう。ソフィアと同様に赤ちゃんの輪郭がうっすらと光るが、ソフィアと違いやや黄色味を帯びた光が降り注ぐ。


 曖昧にする魔法は記憶を消すわけではなく、飲酒や睡眠のように思考力を緩ませることで、今起こっていた事象への認識力が低下するため、記憶が眠りにつくようなものだ。


 この力は万全ではない。かかることはかかるが、そのかかり具合、深さが人やその状況によって異なる。


 心に深く刻み込まれた記憶や衝撃的な記憶には影響を与えにくい。ゆえに古い記憶はそのままで、時間的に新しく比較的浅い記憶に影響が大きい傾向にある。また緻密な思考には効果てきめんだが、大雑把な思考には効果が薄い。言い換えればミクロには効くがマクロには効かないといった感じだ。


 現在は比較的適した状況にあると言えるが絶対ではない。うまくいけば婦長や医師の認識をうやむやにできるかもしれないという神頼み的な考えのソフィアだった。


 ところが重ね掛けのような形で赤ちゃんの魔法がかかることで、強力に記憶が部分封印されることになる。赤ちゃんゆえにその力は弱いものだが、ソフィアたち一族で受け継がれる曖昧化の魔法よりも効果の高い魔法だったため、結果、意図する曖昧化は想像以上の成果をあげる。言語的思考も状況理解力もまだ持ち得ない赤ちゃんなのだが、今かけられる魔法をイメージ的に感じ取り、その本質部分を自身で生成・発動するという、生まれながらの魔法の天才だったわけだ。


 (あら? 赤ちゃんが私の魔法をブーストしてくれているのかしら? いつもよりも周囲への浸透度が高そうに感じるわ)

 

 ふと周囲を見渡すと、婦長も医師も目がとろ~んとしている。時間にして5秒程度のこと、皆我に返っていく。


「え、あれ〜? ここは……あ、そうそうソフィアさんが急変して出産されたのだったかしら?」


 医師も婦長の独り言で気がつく。


「お? あれ? あ、そうそう事後処置をしていたのでしたね。はい。処理は完了です。他に異常もなさそうですね」


 意識が跳んだと思えることなどは、立場上、言えないことであり、言葉を並べることでなんとか平静と体裁を保とうとする医師。ふと記載済みのカルテに現状と乖離する記録を見つけるが、あまりの乖離から、現在の目前の健康かつ正常な状況が真実である、というように慌てながらも思考の整合性を図る。


「あれ? カルテに32週と書かれてあるけど、どうやら私が誤って記載してしまっていたようです。後で訂正しておきます」


 ふつうの人間がそんな短時間にお腹が膨れたりすることはあり得ないから、今の状態を正として、遡った段階の状態の記録になにかの思い違いがあったのだろうと補正の思考が駆け巡るのだ。


「成長が早いから入院検査とあるけど、もう産まれてしまいましたから、検査したいものも無くなってしまいましたね。うーんと、どうしようかな?」


 そう言いながら医師はソフィアの状況とともに、赤ちゃんの状態を確認する。ふつうの新生児は胎内から全く異なる環境の変化、呼吸が必要となるなどの自身の振る舞いの変化が生じ、驚きや不安のさなかにあることや、生まれたばかりの不安定さから生じる変化等、どんな細かな変化も見逃すことは命取りであり、体温や呼吸、心拍数などを除けば、それを知らせる唯一の方法は赤ちゃん自身が泣いて知らせることだ。そんな状況にある新生児は、それを乗り越え母親とともに帰宅してから暫く経った頃の状態とは異なり、自身が喜怒哀楽の感情を出すことはかなり少ない。しかし、眼の前にいるのは生まれたばかりの赤ちゃんのはずなのに、体調はすこぶる安定し、新生児とは思えないほどに、既に情緒豊かな表情を見せている。このまま自宅に返しても、体調は崩しにくそうにも見え、崩しても両親にそれを知らせることができそうに見える、という診断に医師は傾倒していく。


「うーん、おそらく大丈夫かな? もしも何か異変が見られたら、深夜でもかまいませんからご来院くださいね。えー、退院されても問題ない状態と考えています。今処置した縫合は抜糸不要ですから、今夜か明日、調子良ければ退院されても問題ありません」


 同じく思考のまとまらない婦長も、鶴の一声に身を任せ、同調の頷きを返す始末だ。


「早速お家に帰れそうでよかったですね、一ノ瀬さん。改めてご出産おめでとうございます。必要書類等はナースルームに揃えておきますから、お帰りの際にお持ちくださいね」

「うん、無事に生まれてよかったよかった。私はこれで失礼しますが、何かあったらまた当院にいらしてくださいね」


 婦長と医師からそれぞれ声をかけられ、医師は退室しようとしていた。


「はい。ありがとうございます。おかげで無事、赤ちゃんと出会うことができました」


 笑顔で頷き医師は退室していった。


 思いのほか事態の収拾ができてしまったことに、お礼を述べながら安堵の息を漏らすソフィアだった。余計なことを言えば、なにかのキーワードで記憶が復号されてしまいかねないため、言葉少なめの挨拶に済ませた。


 もう一人の看護婦は起きてる気配だが、まだ目がとろ~んとして動きは止まっていた。気づいた婦長が軽く背中を叩き撤収作業の指示を出す。


 ジンも同様に上の空な様子だったが、作業を再開した看護婦たちに気付いて我に返る。赤ちゃんはというと、自身の魔法にそのままアテられたのか、すやすやと気持ちよさそうな寝息を立てていた。

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