第19話 僕、彼女の事を聞いてみます
「結婚を祝って、乾杯。」
「乾杯。」
彼女の言葉に合わせてグラスを上げる。
琥珀色の照明が照らすワインレッドの輝きが、グラマラスな彼女の唇を濡らしていく様は実に艶やかで幻想的ですらある。その光景に心を蕩かせているこの瞬間は夢見心地で、この魔法が永遠に解けないよう願うことしか出来ない。
「どうしたの鈴?」
「い、いえ。福江さんがお綺麗で見惚れてました。」
雰囲気に酔って呆けていたのを見咎められたようで恥ずかしく、ワインを少し飲んで目線を下にしてしまう。
「うふふ、ありがとう。鈴もとっても綺麗よ。」
「ありがとうございます。」
なんだか照れくさくて食前酒の味もよくわからなくなってくる。
今日の夕食は結婚の記念にと福江さんが予約しておいてくれたフランス料理の店だ。
一旦家に帰って、彼女は黒のイブニングドレスに、自分も日曜日に着たのとは別のゴシックロリータに着替えている。
当然、入店するときお酒を飲むのに身分証の提示を求められたが、紛らわしい格好を謝りつつ免許証を見せた。もう慣れたものである。
「すみません。フランス料理って初めてで。その、マナーとか分らなくて。」
「別に二人だしそんなに気を使わなくていいのよ?必要なところは教えるから、鈴は料理を楽しめばいいのよ。」
「はい。ありがとうございます。」
楽しそうにワインを飲む彼女を見ると、自分も嬉しくなる。夫婦水入らずなのだから、彼女の言う通りマナーを気にしすぎるより楽しんだ方が良いだろう。そういえば、初めて会った日のディナーの時もマナーなんて良くわからなかったし、緊張で料理の事もさっぱり覚えていなかった。今日はその時よりは余裕があるので、料理もしっかり味わいつつ、彼女との時間を楽しみたいものだ。
それから順に料理が出されて、使う食器を聞きながら料理を楽しむ。美しく彩られた料理は舌だけでなく目も楽しませてくれ、新鮮な驚きを感じる。これも多少は余裕が出来たおかげだろう。
出された料理を食べ終え、次の皿が運ばれてくるまでの手持無沙汰に声をかける。
「福江さんはこういうお店によく来られるのですか?」
「たまにね。ワインの種類が多いところを選んで来るのよ。」
「そうですか。福江さん本当にワインがお好きなのですね。」
「別にいつも飲んでるわけじゃないのよ。ただ、いろいろなワインを楽しみたい時もあるから。」
少し照れたようにワインを口にする彼女。少なくとも、出会ってから今日まで彼女がワインを飲んでいなかった日を自分は知らない。しかし、これから妊娠するのならお酒を控えてもらうのも今後の課題かもしれない。
「そういえば、福江さんは昔からこういうお店に?」
深く考えもせずなんとなく聞いてみる。
「いいえ。婚活初めてからね。知り合いに紹介されてディナーのセッティングされちゃうとね、断りづらくて1回だけって。まぁ何回かそういうことがあって、お店自体は良かったから、友達と一緒にたまにね。」
そう言って苦笑する彼女。
「そうですか。福江さんなら子供の頃から来ているのかと。」
「まさか。高校の進学祝いに家族で来たことがあるくらいよ。」
そう言って懐かしそうにグラスを見つめる彼女。
「そういえば、福江さんのご家族って――。その、ご兄弟とかいらっしゃるんですか?」
ふと口に出したことに焦って付け加える。彼女の両親に挨拶に伺うにはまだ覚悟というか心の準備が足りないから話題に出さないつもりだったのに。しかしすでに入籍しているのだ。いつまでもはぐらかすわけにはいかないだろう。
「うちは一人っ子だから兄弟はいないわね。」
そう言ってまたグラスに口をつける彼女。
「それじゃあ、ええと、ご挨拶に伺うのはご両親だけで良いのでしょうか。」
意を決して言う。もしすぐ会いに行かなければならないのなら、正直に女装で会いに行くのは恥ずかしいと伝えるしかない。
「ええと、まぁそうね。……そのうちね。うん、そういえば鈴は兄弟姉妹は居るのかしら?」
なんだか歯切れが悪い。予想外だったが、ご両親に何かあるのか。もしかしたら、僕に女装させているのが知られるととまずいのかもしれない。気にはなるが、今は深く追求しないで彼女の質問に答える。
「うちも兄弟はいませんね。」
「そうなのね。鈴も一人っ子か。じゃあ急にこっちに住むことになって親御さん心配されてないかしら?」
彼女が心配そうにこちらを見つめる。
「それは大丈夫です。僕ももう39歳ですし、うちは僕が小さい時に母が亡くなって、父と僕と二人暮らしだったので。」
「それじゃあ今はお父様は一人暮らしなのね。それも心配じゃない?」
「いえ、父は僕と違って社交的なので、友人も多いですし、親戚も近くに住んでいますので。」
思いがけず彼女を心配させてしまったようで気が引ける。
「そう。でもお寂しいでしょうし、そのうち鈴のお父様にお会いしたいわ。」
「ええ。福江さんの長いお休みの時にでも実家にご案内しますね。」
「ふふ、そうね。楽しみだわ。」
彼女が笑うのにつられて自分も笑顔になる。
そのうち次の料理が運ばれて来て、また食事を再開した。
§
コースの料理をほとんど食べ終え、デザートが来るまでの間に別なワインを楽しむ。
今日も料理に合わせたワインを堪能したが、可愛らしい彼を見ながら飲むとまた格別の味わいだった。
しかし、彼に親の話をされた時はドキリとした。実のところ父に反対されていた大学への進学の際、家を飛び出してもうかれこれ22年会っていない。実家には何度か向かったこともあったが、結局遠くから両親が健在であることを確認して会わずに帰ってしまっていた。今更どんな顔をして会いに行けばいいのやら。
「鈴はやっぱり、うちの両親に会いたいかしら。」
ふと口から漏れてしまう。
「それは、まぁ。結婚したのですからきちんとご挨拶したいですし、初めて会うのが結婚式というのもご無礼でしょうから……。もちろん、すぐにとは言いませんけど。」
少し焦ったように手を横に振る彼。可愛らしいが、女装して会うのに抵抗があるのだろうか。まぁ、夫を女装させているなんて知ったら、厳格な父のことだ、激怒しかねない。
それでも自分のしてきたことに悔いはない。
一目惚れの彼と結婚したこともそう。こんなに誰かを愛しいと思ったのは初めてだし、出会ってから一緒にいて、彼の存在が自分の中で大きくなっていくのが分かる。だからこそ、この幸せに水を差したくなかった。
もし会えないまま、両親が亡くなることでもあれば後悔してもしきれないだろう。だが、会いに行く覚悟は決まらない。
「あの、福江さん。どうかなさいました?」
彼が心配そうに見てくる。
「ううん。ちょっと結婚式のことを考えていたの。すぐにとはいかないけど少しやりたいこともあってね。そのうち相談しましょう。」
話題をそらす。結婚式にやりたいことがあるのは本当だが。あるいは両親を式に呼べないかもしれない。それが残念なのか、それで良いのか、自分でもわからない。
「わかりました。僕も少し調べておきますね。」
「ええ、お願いね。」
彼の笑顔につられて笑う。そこで丁度デザートが運ばれてくる。
とりあえず心配事は後回しにして、今は彼とのひと時を楽しむことにした。
§
食事を終えた帰り、マンションまでそう距離は無いものの、時間も遅いためタクシーを呼んだ。ほんの数分で家に着き、今はエレベーターの中だ。
今日も当然のように彼女と手を繋いで乗っているが、二人で一緒に帰ったのは数えるほどなのに、まるで何度もこうしているような感覚がする。
彼女の手は少し熱い。お酒を飲んだせいだろうか、昼間はもう少し冷たかった気がする。
「あの、福江さん。昨日はずいぶん飲んでらしたみたいですけれど、今日もお食事でワインを飲まれて、気分が悪くなったりしてませんか?」
気になって彼女の方を向き聞いてみる。察して気を利かせることが出来れば良いが、経験や知識が無ければ無理な相談だ。分からないなら素直に聞いた方が良いという当たり前のことを、この歳になって実感するとは思わなかった。
そもそも人付き合いが苦手な上、父や親友は付き合いが長すぎて今更聞くようなことも少なかったのもある。そんな自分が知り合って日が浅い彼女と結婚して共に生活するようになったこの状況は奇跡とも言えるだろう。
「大丈夫よ。あの程度飲んだ内にも入らないから。心配してくれてありがとう。鈴は大丈夫?」
「僕も大丈夫ですよ。普段はほとんどお酒は飲まないんですが、今日はお食事しながらでしたし、そんなに酔ってもいません。ありがとうございます。」
彼女の笑顔に笑って返す。そもそもお酒はあまり好きではないのだが、今日は彼女と一緒だったおかげか、良いワインだったせいか、初めて美味しく感じた気がする。
まぁ、20年以上の社会人生活でお酒に良い思い出が無かったというのも飲酒を好まない原因の一つではあったのかもしれない。
「そういえば、結婚記念日って今日になるんですかね?それとも結婚式の日の方が良いのでしょうか。」
「今日で良いと思うわ。籍も入れたし、私たちにとって思い出深い日にもなったでしょう。午前中のことは忘れて欲しいけれど。」
そう言って苦笑する彼女。間違いなく一生忘れられないだろうけれど、二人の秘密として人には話さないようにしよう。
「それじゃあ記念日としてちゃんと覚えておきますね。来年からお祝い出来るように。また、二人で過ごすようにしたいですね。」
「そうね。でも、来年は子供も生まれるかもしれないし、二人きりは難しいかもしれないわね。」
「そうですね。それなら……家族で過ごすというのも良いんじゃないでしょうか。」
「ふふ、そうね。」
1日くらいなら実家に預けても、と言いかけて飲み込み、別な言葉を繋いだ。彼女が、親の事で言い淀んだ事が頭をよぎったからだ。さすがに今聞く勇気は無いが、何か理由があるだろうことは想像に難くない。焦って聞くよりも、彼女が自然に教えてくれるまで待つ方が良いだろう。
いくらちゃんと聞くことを心掛けるつもりとはいえ、何でもかんでも聞けば良いという事ではなかろう。その加減も難しいのだが。
彼女と出会って1週間。距離は縮まった気がするのに、話すほど彼女のことを何も知らないのだと思い知る。いや、話すほど彼女のことを知ることが出来ると思うことにしよう。
エレベーターはすぐに最上階へ着き、二人で玄関へ。鍵は自然に自分が出して開ける。この何でもない行動さえ、彼女と暮らしているのだという実感だと思うと嬉しくなる。
そして玄関で靴を脱げば、当然自分のスカートと女物の靴という現実を直視せざるおえなくなる。だいぶ慣れてきたとはいえ、完全に受け入れるにはまだまだかかりそうだ。幸せ気分で流すにはまだ少し重い。こう冷静に思えるだけで、羞恥と浮かれた気分の混ざった心持も落ち着いて日常になってきたのだと実感する。
「それじゃ一緒にお風呂入っちゃいましょう。」
「そうですね。」
とりあえず手荷物を置いて、洗面所へ向かうが、ふといつものネグリジェを見て思い出したことがある。初日から疑問に思っていたが、いろいろありすぎて聞きそびれていた。
「そういえば、何で寝巻がこれなんですか?」
福江さんはまだ分からなくもない。だが自分が着るのは明らかにおかしいだろう。福江さんの似合ってるから問題無いという話を考えても、寝巻は見せるものではない。というか見せるものではないからこんな寝巻でもとりあえず着ていたわけで。どう考えても男が着る物ではない。
「あら、気に入らなかったかしら?」
「いえ、その男の僕がこれを着ているのは女装とか似合ってるとか以前の問題な気がしまして。さすがにどうかなと。」
もう恥ずかしいのを通り越して何か罰ゲームでも受けているような気分でもある。ただまぁ、夫婦生活において妻の趣味だというなら受け入れられなくもない。二人きりならたいていのことは受け入れる所存だ。
「そう?どうせ寝るだけだし着心地で選んだだけなのよ。嫌なら何か良さそうなもの探しておきましょうか。」
「そうですね……。出来ればお願いします。」
聞いてみればなんてことはなかった。思えば割と突拍子も無いことをしてくる彼女だが、聞くと深く考えてないなんてことが何度かあった。デザイナーという職業故、独特の感性をしているのかもしれない。いや他のデザイナーさんに怒られそうだけれども。
あるいは自分が無駄に考えすぎだというのもあるだろう。聞いてみると対した事は無かったというのがここ数日で何度もあった。
要するに、これから家族になるのだから、肩肘張らずに気楽に過ごせば良いというのが結論なわけで。気が楽になったというより、脱力感と無駄な疲労感が押し寄せてくるのだった。
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