第18話 僕、彼女と夫婦になります

 目の前が明るくて目が覚める。しかし、自分がどうなっているか分からない。


(昨日飲んでて、それからどうしたんだっけ……。)


 見覚えのある天井。横を向くとカーテンが閉まっているが、リビングの大きな窓。自分の家だ。けれど、いつ帰ってきたのか覚えていない。

 ふと、見ると毛布がかかっていて、どうやらソファーで眠っていたらしい。隣にかすかに寝息が聞こえる。


「鈴?」


 ソファーの座面にもたれるよう、床に座ったまま眠っている鈴。周りには沢山のタオルが敷いてあって、プラスチックのバケツもある。バケツの中身は空だ。


「もしかして、あの後酔って……。」


 だんだんはっきりしてくる意識と裏腹にガンガンと頭に鈍痛が響く。二日酔いか。何年、いや十何年ぶりだろう。鈴が介抱してくれたのか。だとしたら、飲んで深夜に帰って彼に相当な迷惑をかけただろう。


「うん、……う。ふぁあ。あ、福江さん……。おはようございます。」

「おはよう鈴。もしかして……。その、昨日……、やっちゃった?」


 ばつが悪い。まさか出会って一週間もしないうちにこんな失態をやらかすとは。幻滅というレベルではないだろう。さて、どうして挽回したものか。頭痛で頭が回らない。


「あぁ。だいぶ飲まれてたみたいで。大丈夫ですよ、そんなときもありますって。」


 鈴は優しく笑っている。優しさになんだか急に恥ずかしさがこみ上げてくる。


「ごめんなさいね。いろいろ。」


 とにかく謝るしか出来ない。


「そんな。夫婦になるんですから、このくらい頼って下さい。」


 あぁ、実に優しく笑いかけてくれる。微塵も嫌な雰囲気は感じられない。

 自分が昨日何をやらかしたかさっぱり覚えていないが、四十路のおばさんが酔って粗相をしたなら千年の恋も覚めるというものだろう。

 だが、彼は事もなげに笑っている。それほど彼の器が大きいのか、あるいはすでにその程度許容できるほど私に愛情を持ってくれているのか。


「お加減はいかがですか?」


 顔を覗いてくる。格好はいつものネグリジェ。実に扇情的だが二日酔いが邪魔をして欲情出来ない。


「ええ。ちょっと頭痛がするくらいよ。」


 実のところかなりつらい。二桁に乗る程度の本数ならこんなにならないはず。一体どれほど飲まされたのか。


「水分を取ったほうがいいですね。どうぞ。」


 彼がテーブルからペットボトルを取って蓋を開け渡して来る。スポーツドリンクだ。少し上体を起こしてそれを受け取る。


「ありがとう。ほんと悪いわね。」


 ぐっと飲む。身体に染み込むような味わい。一気に半分ほど飲んでしまう。


「しじみのお味噌汁もありますよ。少し飲みます?」

「ええ。じゃあもらおうかしら。」

「わかりました。ちょっと待っていてくださいね。」


 にこりと笑って彼がソファーを離れる。それを見送りながらまたスポーツドリンクに口をつける。

 ふと、自分の格好を確認すると、昨日出勤した時の服装だが、上着とタイツが無い。顔も触ってみるが、化粧を落とさず寝たときの突っ張り感や違和感が無い。どうやらメイクを落としてスキンケアもしてあるようだ。


(だいぶお世話してもらっちゃったみたいね。)


「お待たせしました。」


 いつの間にか彼が戻ってきている。盆に味噌汁の入った椀を1つ乗せて来て、テーブルに置く。


「ありがとう。お化粧落としてくれたみたいね。本当にごめんなさい。」


 身体を起こしソファーに座る。彼がそっと椀を差し出してくれるのを受け取る。


「いえいえ。本当は着替えてもらってベッドに運びたかったんですけど僕じゃ無理で。こちらこそごめんなさい。」


 彼が苦笑する。彼の裸は何度も見ているが、お世辞にも力持ちとは言えない筋肉量だった。それにこれだけ体格差があれば、リビングまで運んでくれただけでもありがたい。


「そんな、ここまでお世話してもらって本当に嬉しいわ。ありがとう。」

「そう言ってもらえると僕も嬉しいです。さ、お味噌汁をどうぞ。お口に合うかわかりませんけど。」

「そうね、いただきます。」


 空になったペットボトルを渡しお椀を受け取り、勧められるまま味噌汁をすする。熱過ぎずぬる過ぎない丁度良い温度。しじみの香りと出汁、味噌の味わいがじんわりと広がる。身体に染み渡る心地よい温もり。


「あぁ、おいしい。本当にありがとう。」

「どういたしまして。」


 彼の笑顔が心までほっこりと温めてくれる。二日酔いの痛みなど、どうということは無い。優しい夫が居てくれることがこんなに素晴らしいことだったなんて、一人で居る時には想像も出来なかった。もっとも、これは彼が夫になってくれたからだろう。

 つい一気に飲み干してしまう。具は食べづらいと思ったのか入っていなかった。二日酔いがマシになったら具も一緒に味わいたい。


「あぁ。ごちそうさま。」

「お粗末様でした。」


 椀を渡すと嬉しそうに彼は受け取ってくれる。多少二日酔いもマシになって来たようだ。

 余裕が出てきて、改めて彼の格好を見ると、家事をするためにと言って渡した例のメイド服だった。ご丁寧にショートボブのウィッグにフリルカチューシャまで身に着けて自分の夫だというのに可愛らしい少女にしか見えない。

 今までなら可愛らしくて抱きしめて愛でてやりたいという気持ちでいっぱいだっただろうが、今は違った。なぜかその彼の乱れた姿が脳裏に浮かび、堪らなくなる。


「鈴、ほんとに嬉しいわ。ありがとう。」


 そっと彼を抱き寄せる。


「いえ、そんな。福江さんが喜んでくれるなら……。あっちょっと、え!?」


 そのまま彼のスカートに手を突っこんで彼の股間をまさぐる。


「な、福江さん!?そこは、だめぇ。」


 彼が身じろぎするのもかまわずしっかり抱きしめて右手だけは彼のスカートの中。


「あっ!?掴んじゃ……だめぇ……。」


 実に色っぽい声で耳元であえぐ。


「ちょっとだけ、いいでしょ?昨日できなかったから、ね?」

「こんな朝からするのはまずいんじゃ。あっ、んぷ。」


 有無を言わさず彼の口を自分の口で塞ぐ。彼の吐息が漏れるのに合わせ無理やり舌をねじ込む。もう二日酔いの痛みなんてかまうものか。そのまま彼に覆いかぶさった。


§


 昼下がりの午後。お昼を済ませ、身だしなみも整えている。

 福江さんは薄手ながら露出の少ないワンピースにカーディガン、自分はブラウスにジャンパースカートでもちろんフリルやレース、リボンで飾られたもの。二人とも明るい色合いで初夏らしい爽やかな装いだ。

 出かける支度を終え作業部屋からリビングへ出る。


「福江さん、二日酔いは大丈夫ですか?」


 見たところは平気そうだが聞いてみる。


「ええ、すっかり良くなったわ。鈴のおかげでお腹いっぱいだし。ありがとう。」


 そう言ってお腹をさする彼女。きっと昼食のせいだ。その前のことは頭から追い出す。


「それなら良かったです。じゃあ行きましょうか。」


 彼女と連れ立って部屋を出る。


 そういえば二人で外出するのは日曜日以来か。まだ一週間経っていないなんて信じられないくらい濃厚な日々を過ごした気がする。今のような服装にもずいぶんと慣れた、というか慣れというか。


 初夏の日差しの中、手をつないで歩く。日焼け止めは塗ってあるが、汗ばむほどではない。時折吹いてくる風が気持ちいい。そういえば始めてデートした時は、服装が恥ずかしくて天気なんて気にしていられなかった。慣れというのは恐ろしいもので、今は何の気がねもなく歩いている。


 他愛のない会話をしながら役所へ向かう。田舎に比べるまでもなく、人通りはそれなりに多いが、それも気にならない。彼女と一緒に歩いているだけでこんなに楽しいとは。気が付けばあっという間に目的地に着いていた。


 土曜日の役所はそれなりに混んでいる。平日が仕事で土日が休みという人が多いだろうから土曜日に窓口が開いているのはありがたいのだろう。

 さすがにこちらを見てくる人が多いが、そこまで注目されている感じはしない。ちょっと珍しいものを見たというくらいか。気にしなければ、今までだってこの程度の注目だったのかもしれない。


 窓口に話しかけ婚姻届けを提出する。


「おめでとうございます。今日は娘さんとご一緒で?」


 人の良さそうなおばさんが受け取ってくれる。普通に外見を見ればそう思うだろう。


「いいえ、彼が私の夫なの。」


 福江さんが僕を抱き寄せる。さすがに気恥ずかしい。


「まぁ!これは失礼しました。素敵な旦那様ですねぇ。」


 こうやって驚かれるのも何度目か。慣れてくるとこういう反応をされるのも悪くはない気がする。


「ええ、うちの旦那可愛いでしょ?」

「はい、とっても。」


 福江さんの嬉しそうな顔を見られるだけで自分まで嬉しくなる。


 滞りなく手続きが済む。これで晴れて夫婦となったわけだ。先週まで伴侶がいることなど想像もできなかったのに、驚くほどあっさりと籍を入れた。

 いや、あっさりではなかったか。それなりにいろいろあった気がする。女装のまま地元に帰ったり、メイド服で家事をしたり。考えてみるとちょっと笑えてしまうが、その時は必死だったのだ。あの日々がほんの一週間足らずというのが不思議にさえ感じる。


「じゃあ次へ行きましょうか。」

「はい。」


 役所を出て、近くの駅に向かい、在来線で次の目的地へ。ごく短い距離を電車で移動するというのは、田舎から出てきた自分にとってはなんだか奇妙な感じもする。もっとも、ここ数日買い物で毎日のように乗っていた。きっとこれからはこれが日常になるのだろう。彼女と手をつなぎ、並んで歩いていることも含めて。


 役所を出て1時間もしないうち、電車を使ったとはいえあっという間に次の目的地に着いた。水曜日に来た宝飾店である。店内に入り挨拶と共に出迎えてくれたのは前来た時対応してくれた店員のおばさんだった。


「設楽様、ご注文いただいたお品、出来上がっておりますよ。」


 実に良い笑顔で言う。


「ありがとうございます。覚えていて下さったんですね。」


 前回来た時とは違うウィッグに服装だが、長年接客をやっていると判るのだろうか。


「ええ、こんな素敵な旦那様、他にいらっしゃいませんから。本日はご夫婦でいらして下さったのですね。」

「ええ。せっかくだから二人で受け取りに来ようと思いまして。」

「本当にお似合いの素敵なご夫婦ですこと。さ、こちらへどうぞ。」


 リップサービスだとしてもなんだか嬉しい。福江さんも実に嬉しそうにしている。

 奥のテーブルへ案内され、その前に福江さんと二人並んで座る。出されたのは2つの指輪入れ。サイズを確認するよう促され、それを開く。中からはダイヤのあしらわれた一対の結婚指輪。中に刻まれた名前を確認して、お互いの左手薬指に嵌める。サイズは二人ともぴったりだ。


「まぁ、よくお似合いですよ。」


 満面の笑みで言う店員さん。自分達の見た目はとても夫婦には見えないだろうけれど、揃いの指輪があると何となく様になっている気がする。これで晴れて夫婦と胸を張って言えると思うと、嬉しいような、ちょっと気恥ずかしいような。喜びが溢れて、なんだかはにかんでしまう。


「あと、鈴之助様にはこちらもですね。」

 もう一つ別の指輪入れを受け取る。


「あら?鈴、何か注文してたの?」

 福江さんが意外だという顔。


「はい。後でお見せしますね。」

 照れくさくてニヤけてしまう。


 指輪の受け取りも滞りなく済ませ店を後にする。


 それからまた手をつないで自宅のマンションへ向かう。初めて会った日は、自分は福江さんに手を引かれて歩いていた。それが、今はこうしてすぐ隣に立って一緒に歩いている。たった一週間足らずで分かったことなどたかが知れているだろうが、距離が近くなった気がして嬉しい。

 なんだか彼女の勢いに押されて結婚してしまった気もするが、それでも後悔はまったくない。今はただ隣にいる彼女が、つないだ手の温もりが、彼女と過ごすこの時間がたまらなく愛おしい。


 このまま家に帰ってしまうのがなんとなく惜しくて、二人で近くの公園を歩く。都会の中とは思えない、青々とした木々に整備された道、池まであるなかなか広い敷地を持つ公園だ。

 ジョギングしている人、犬を連れている人、家族か友人と思われる何人かで連れ立っている人、そして自分達のように男女連れ立って歩く二人組。以前の僕なら間違いなく一人か、親友の祐也と二人で居ただろう。それが今、妻となった福江さんと一緒に手を繋いで歩いているのだ。自分にとっては奇跡のよう。夢なら覚めないでほしいとさえ思う。

 池の前のベンチに座る。二人の重みで少し軋むベンチの音。紛れもなく、これは現実なのだ。


「今日は散歩日和で良かったですね。」

「ええ、本当に。」


 そっと身を寄せあう。胸に熱い物がこみ上げてくる。


「福江さん。こうして一緒にいられて幸せです。」

「私もよ、鈴。」


 なんだか長い事連れ添っているような気さえしてくる。出会ってたった1週間という記憶の方が間違っているのではないかと思うくらい。ふと、バッグに入れたものを思い出す。


「そうだ、福江さん。これを。」

「あら、なにかしら?」


 さっき結婚指輪とは別に受け取っていた指輪入れ。結婚指輪がぴったりだったから大丈夫のはず。

 指輪入れを開けると彼女に向ける。


「ええと、順番があべこべですけど、婚約指輪です。僕の溜めてたお金で買ったので、大して高価なものでは無いですけど。自分の稼いだお金でどうしてもこれを福江さんに送りたくって。」


 福江さんなら良い指輪なんていくつも持っているだろう。本当は婚約指輪のほうが結婚指輪より高い物というのが相場らしいけれど、この婚約指輪は福江さんが予約してくれていた結婚指輪より安物だ。ただそれらに勝てる点があるとすれば込めた自分の気持ちくらいだろうか。


「っ!?」


 口元を抑える福江さん。喜んでくれているのだろうか。左手の薬指はもう結婚指輪を嵌めているので、彼女の右手を取ってその薬指に婚約指輪を嵌める。どうやら右手でもぴったりのようで一安心だ。


「ありがとう……。大切にするわ……。鈴、愛してる。」


 目に涙を一杯溜めながら僕を抱きしめてくれる福江さん。


「喜んでもらえたようで何よりです。僕も愛しています。福江さん。」


 身体に感じる彼女の温もり。僕は今までの人生で一番充実した瞬間を味わっている気がした。

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