第15話 僕、油断してたみたいです
福江さんから頼まれた用事も一通り終わったので、次は役所へ。
婚姻届は書いたものの、彼女との約束があるので今日は出さない。持ってきたのは転入届だ。それも事前に準備していたのですぐに終わる。
それから、土曜日に役所がやっているのか疑問だったのでついでに調べておく。区役所によっては土曜も受付していたり、月の半分だけ土曜に受付していたり、やっていなかったりと様々みたいだ。幸いこの役所は土曜日も受付しているので、今週末には出しに来れそうだ。
(あとは食材や雑貨の買い出しだな。)
昨日と同じスーパーで今日の夕食用に食材を買い、あと模様替えも自由にして良いと言われたので、簡単に出来る範囲でやろうとそちらに必要な物も買いに行く。
昨日ほどではないがかなり買いこんだ。しかも時間は昨日より遅く、もう日も傾き初めている。
(早く帰ろう。)
駅に向かう道は実に人が多く、在来線のホームへたどり着いたがまさに人ごみといった感じだった。在来線のダイヤの間隔は自分の住んでいた田舎の比ではなく、ほとんどひっきりなしに次々と来るのだが、それでも人の波は途切れない。完全に帰宅ラッシュに巻き込まれてしまったようだ。
(買い物の時間、もっと早めにしたほうが良さそうだな。明日から気をつけよう。)
今はどうしようもないので、我慢して満員電車に乗り込む。当然座れず立ったまま。人が密集して身動きが取れないが、どうせ2駅の我慢だ。つり革に捕まれなくもないが、自分の身長では腕を伸ばさなければならないのでキツイ。ちょうど座席端の前に居るので、手すりに掴まる。
駅と駅の間隔も短く、1駅などあっという間だ。もう次の駅で降りるのだから問題ないだろう。ドアが閉まり、電車が動き出す。するとお尻の方に何か当たる感触がする。
(荷物かな?人がいっぱいだし仕方ない。)
混んだ電車に乗るのはこれが初めてではないし、前に混んでいる電車に乗った時も近くの人の手荷物が身体に当たっていたことがあった。別に気にするほどではない。
(ん?なんか、当たっているっていう感じじゃないような。)
お尻の辺りを何かが滑るように動いている。そのうち尻肉を掴まれる。というか揉まれている。
(えっ?あれ、これってまさか……。)
窓ガラスを見ると背後には中年っぽいおじさんが映っている。自分と同じか少し上くらいの歳か。腰を座席側に引いてお尻を離そうとするが、揉まれている感触は途切れない。
と、カシャリとスマホのシャッター音がすぐ近くでする。
「この人痴漢です!このお姉さん触られてます!」
隣に居た若い女性が声を上げる。
(えっ!?痴漢ってまさか。)
「違う!誤解だ!」
後ろのおじさんが声を上げる。
「いいえ、写真撮りました。お尻揉んでました!」
おじさんはかなり動揺している。その若い女性に手を伸ばそうとするが、近くの男性がおじさんの腕を掴む。「離せ!」とおじさんが逃れようとするが、あいにく混みあった車内に動けるスペースは無い。丁度電車は次の駅に到着した。
結局そのままおじさんは近くにいた二人の男性に連れられ、自分も助けてくれた女性と一緒に駅員の元へ。おじさんは駅員に引き渡されて連れていかれ、男性二人はお礼を言う間もなく去っていった。自分と若い女性は駅員室の応接所のようなところへ通される。もちろん、あのおじさんの姿は無い。
「災難でしたね。辛い思いをされたでしょう。」
若い男性の駅員さんが申し訳なさそうに頭を下げる。
「いえ。こちらの方に助けていただきましたし、ごく短い間でしたから。本当にありがとうございます。」
とりあえず助けてくれた女性と駅員さんに頭を下げる。
「いえいえ。証拠を撮るのに助けるのが遅れてすみません。でも、お姉さんみたいな可愛い子を狙うなんて絶対許せません!」
彼女は怒り心頭といった様子だ。
突然の出来事で気にしている余裕がなかったが、改めて彼女を見るとかなりの美人だ。ぱっちりとした瞳は化粧の分を考慮してもきれいだし、背も福江さんほどでは無いが高く、長い脚に均整の取れたモデル体形だ。長い髪を後ろで縛り、ホットパンツで見事な脚線美の生足を惜しげもなく晒している。カジュアルながら服装もおしゃれで若い子向けのファッション雑誌からそのまま出てきたようだ。
「とりあえず、今は混乱されていると思いますし、ご気分も害されているでしょうから、こちらで少し休まれていかれてはいかがでしょう。それと警察の方へ伝えなければなりませんので、お名前と連絡先を伺ってもよろしいでしょうか?」
駅員さんがかなり気を使ってくれているのが分る。別に彼が悪い訳ではないだろうが、今までにも被害に合われた女性の対応をしてきた経験があるのかもしれない。まぁ、今回はアラフォーのおじさんの自分を、おそらくアラフォーと思われるおじさんが痴漢しているというある意味地獄絵図なのだが。
とりあえず、「わかりました。」と言って駅員さんが出してくれたメモ帳とボールペンで、自分の名前とスマホの電話番号を書く。
「設楽鈴之助さん?失礼ですが、男性のようなお名前ですね。」
「ええ。男ですよ。紛らわしい服装で申し訳ありませんが、身も心も男です。」
駅員さんも助けてくれた女性もだいぶ驚いている。さすがに何度も似た反応をされているので、恥ずかしいというより苦笑いしか出ない。
「まぁ、男性でも痴漢被害に合う場合もありますからね。もっとも、あなたは女性にしか見えませんので、相手もそのつもりだったのでしょう。」
男性が痴漢に合うって、やはり同性にだろうか。まさか女性が男性に痴漢をするとか。どっちにしろ怖くて聞く気にはなれない。
「まさかお姉さんじゃなくてお兄さんだったなんて。もしかして、女性になりたい方ですか?」
「いえ。妻の趣味です。見た目以外は普通に男ですから。」
自分には女性になりたい願望も、女装趣味も無い。それに、つい妻と言ってしまったが今更気にする必要もないか。
「とにかく、助けていただき本当にありがとうございました。何かお礼が出来れば良いのですが。」
助けてもらったうえ、気遣ってここまで付き添ってくれたのだ。このままお礼だけ言って別れるのは気が引ける。
「いいえ。お気持ちだけで十分です。それにお兄さんを助けられただけで満足ですよ。」
にこやかに手で制す彼女。あまり引き留めるのも申し訳ないし、連絡先を聞いて後日、ではナンパみたいだしダメだ。何か渡せるといいのだが、あいにく食料品と雑貨しか持ってない。
「それでもこのままというわけには。近くでお土産でも買ってきますので、何か欲しいものでもあれば。」
幸い駅の中だ。よほど高価なものでなければ買ってきて渡せばそれがいいと思うが。
「そんな、悪いですよ。うーん、そうですねぇ……。どうしてもというのであれば、一緒に写真を撮ってほしいです。」
「えっ?写真ですか?僕と?」
予想外のリクエストだ。もちろんそのくらいお安い御用ではあるが。
「そうです。お兄さんみたいな可愛い人滅多に見ないですし、まして男の人なんて信じられないくらいです。嫌でなければぜひ写真をお願いします!」
「分かりました。それでお礼になるのでしたら。」
彼女に気圧されて、承諾する。
「それじゃ、駅員さん、撮影お願いしていいですか?」
「ええ。かまいませんよ。せっかくですし、お兄さんの携帯でも撮影しますよ。」
「え?はい、ありがとうございます。」
どうしてこうなったのかはわからないが、とにかく若い女性とツーショットを撮ることになった。見た感じ女子大生くらいだろうか。いや、べつに
結局、彼女と写真を撮り、駅員さんと彼女にもう一度お礼を言って家路を急いだ。
§
「エラー対策で変更になった箇所の再修正、これで行きますね。」
「ええ、そうしてちょうだい。」
3つの同じデザインラインで色とフリル、リボンの位置が異なる3着のセーラーロリータを前に、部長のめぐみ、工場とのやりとりをしている戸倉と話をしている。
この工場の試作ロッドが来てからデザイン企画部で確認作業に追われていた。時刻はそろそろ定時。これは多少残業していくようかもしれない。
まぁいつもよりはスムーズに事が進んでいるので、2転3転することはないだろう。
「失礼します。」
ドアが開いて鋭い目付きで長身の青年が入ってくる。営業の
「あら、雲井君どうしたの?」
「社長、SNSとホームページの更新ですが、新作は告知だけ先行ということでよろしいでしょうか?」
所属は営業部だが、実務はネット上の管理をしてもらっている。SNSやホームページ、委託している通販サイトとのやり取り等、一通りやってもらっている。
本当は広報やネットワーク管理といった部署の所属になるのかもしれないが、うちは人員不足でまだそういう部署はない。来年人を増やして、彼の部下が出来れば専門の部署を設けても良いかと思っている。
「ええ。明後日撮影の打ち合わせをして、早ければ衣装合わせで試し撮りするかもしれないから、その写真を使うことも考えておいて。ちゃんとした撮影は来週の月曜日からになるけれど。」
「わかりました。まずは文章だけで告知を入れて、明後日か、来週の撮影写真が上がり次第変更出来るようにしておきます。」
「ええ、よろしく。」
見た目は少し怖がられることもあるが、意外と気さくで話しやすい青年だ。たしか27歳だったか。典子と同じで誤解されやすいタイプかもしれない。
と、スマホが鳴る。
「ちょっと失礼。」
すぐに確認すると、鈴からのメッセージだ。そろそろ定時で、残業があるなら休憩に入るとはいえ、仕事中に私的な連絡確認は良くないだろう。だが、今の私には彼が最優先だ。昨日待ちぼうけさせてしまった分を挽回しなければ。確認すると夕飯を作って待っているという内容と、添付写真が1枚。
「っ!!」
「社長?どうかしました?」
「な、なんでもないのよ。」
思わず声が漏れてしまった。めぐみが驚いたようにこちらを見たが、なんとかごまかせたか。写真はキッチンで料理の支度をしている鈴の自撮り。服は今朝渡したあのメイド服だ。ご丁寧にウィッグとフリルカチューシャも合わせている。実に可愛らしい。もし目の前に居たら押し倒していたかもしれない。
「と、とりあえず試作の件はまとまったし、後は任せて大丈夫かしら?」
少し動揺したが、なんとか立て直せただろうか。
「はい。微修正ですしすぐ終わります。30分も残業すればいけますからお任せください。」
「そう。それじゃあ申し訳ないけど先に上がらせてもらうわね。ちょっと用事が出来ちゃったから。」
「はい、大丈夫です。」
そう言って。めぐみは戸倉と作業に戻る。
「それでは、私も更新が済み次第上がらせていただきます。」
「ええ。雲居君もお疲れ様。」
彼が部屋から出るのを見送り、自分もそそくさと帰り支度を始めた。
§
「今日は大変だったでしょう。お疲れ様。」
「いえ。福江さんこそ毎日お忙しくて大変でしょう。お疲れ様です。」
夕食を食べながら互いを労う。夫婦としてはちょっと変かもしれないが、これはこれで良いような気がする。今はメイド服を着替えて今朝から着ている服に戻っている。これで出迎えたら、なぜか福江さんは残念そうにしていた。
「今日は早く帰ってきてくださって嬉しいです。けど、お仕事の方は大丈夫だったんですか?」
ご飯を作って待っていると言ったものの、そのせいで彼女を急かしてしまったのではないかと心配になる。無理に早く切り上げようとして仕事に支障が出なければ良いのだが。
「ええ。思ったよりスムーズに進んでるから、明日も明後日もそんなに遅くはならないと思うわ。」
「それなら良かったです。」
なんだか自然と笑顔になる。夕食を食べているダイニングテーブルには、今朝はなかったテーブルクロスが掛けられている。さらに花瓶が1つあり、自分が日曜に持ってきた赤いバラと、今日福江さんが買って来た白いバラが1本ずつ並んでいる。
「そういえば、今日は他に写真は撮らなかったの?」
「そうですね。今日はいろいろありましたし。」
ご飯の用意をしている時に自撮りしたものは彼女に送った。あとは自分で撮影した覚えはない。
「ちょっと見てもいい?」
「ええ、どうぞ。」
箸を置いて、スマホを渡す。やはり食事中に手元に置いておくのは止めておいたほうが良いかもしれない。まぁ、彼女を咎める気はないが、子供が産まれたら教育に良くないだろう。いや、今から気にするのはさすがに早すぎるか。
「うん?この写真、つばさちゃん……。えっ?なんで二人で映ってるの?」
「えっ?どれですか。」
彼女が見せてくるのは自分と若い女性のツーショット。そういえば助けてもらった彼女と撮影した写真があったか。痴漢のことは福江さんを心配させるだろうから言わないでおいたのだ。
しかし、「つばさちゃん」と言ったか。彼女の知っている人なのだろうか。
「あぁ。えっと、助けてもらったんです。」
「助けてもらった?何を?」
まぁ当然聞かれるだろう。こうなったら正直に話すしかない。
「ええと、ご心配をおかけすると思って言わなかったんですけど。電車で……、その……、痴漢に合いまして。」
「ええっ!?痴漢!?ちょっと、何されたの?大丈夫だった?」
大きな声を上げて立ち上がる彼女。予想外の反応だ。そのまま向かいの席から隣へ移動してくる。
「お尻を触られただけですよ。ほんの少しだけですから。」
「お尻って!?ここ?」
座っていた僕のお尻を掴む彼女。そのまま力強くぐにぐにと揉んで来る。さすがにおじさんのお尻だからそんなに柔らかい手ごたえはないはず。福江さんの大きくて柔らかいお尻となど比べるべくもない。いや、お尻が大きいは言わない方がいいか。
「ふ、福江さん揉み過ぎです。本当に大丈夫ですから。」
「もう。だから気をつけなさいって言ったじゃない。」
ぎゅっと抱き寄せてくる彼女。大きな膨らみがある胸元に顔が当たる。思わず顔と股間が熱くなる。これだけは慣れそうにない。
「すみません。今後は混んでる電車とか人気のない場所は避けますから。」
「そうしてちょうだいね。」
彼女が頭を撫でる。恥ずかしいやら心地よいやら。いや、そうではなくて、図らずも一昨日お巡りさんや福江さんに言われたばかりだったのに、見事に襲われてしまった形だ。反省しなければ。
「そ、そういえば、つばささんって方はお知り合いなんですか?」
ごまかすように聞く。
「ええ。私が行ってた大学の後輩。もっともまだ22歳の現役女子大生でモデルもしてる子よ。モデル歴はそこそこ長くて結構人気なのよ。まぁ鈴がティーンズ向けのファッション雑誌なんて分からないでしょうけど。ほんとはデザイナーになりたいって私が通っていた大学へ入ってて、アルバイト扱いでうちの仕事を手伝って貰いながら少し教えてるのよ。もっともデザインよりモデルの仕事を頼むことの方が多いけれど。」
彼女が苦笑する。しかし、抱きしめた腕は離してくれない。
「そ、そうなんですね。とりあえずご飯を食べてしまいましょう。」
「ええ、そうね。食べ終わったら一緒にお風呂に入って、それから昨日の続きをしましょう。」
「は、はい。」
股間が反応している時に夜の営みを思い出させないでほしい。まぁ昨日、彼女にも気持ちよくなってほしいと提案したのは自分だが。しかし、彼女は驚くほど性知識が無かった。むしろ、自分が無駄にそういう知識を仕入れすぎなだけかもしれない。
ともかく食事に専念しようと、必死にいやらしいことを頭から追い出そうとする。今夜は長くなりそうだ。
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