第13話 僕、空回ってたみたいです

 いくつか店を周って日用品の買い物を終え、最後に食料品を買いにスーパーへ入る。場所は自宅マンションの最寄り駅から1つ隣の駅の近くだ。ネイルサロンからは帰る途中にある。他の買い物もその辺りで済ませてしまった。

 時間は丁度お昼になるころ。帰って試しに料理するつもりだが、昼食は遅めになるだろう。まぁ福江さんも仕事が忙しいと言っていたので、帰りが遅くなるかもしれないし、夕食が遅めになるなら丁度良いくらいか。


 カートにカゴを乗せ、バッグもカートの手荷物置きに乗せて店内へ。スマホのメモを身ながら、必要な食材を探す。


(野菜とか久しぶりに買うなぁ。スーパーは田舎とあんまり変わらない感じがするけれど。)


 地元で買い物する時はどうせ自分か父しか食べないと、食材の選び方も適当だった。今は、少しでも美味しい物を福江さんに食べてもらいたくて、調べた食材の選び方を頼りにカゴへ入れていく。


(調べた選び方も実際に見てみると判りづらいな。やっぱり教えてくれる人が欲しいけれど、料理教室とか行った方がいいのかな?)


 悩みながらも必要な野菜は選び終え、次は肉のコーナーへ行く。

 平日の昼間だけあって、ご年配の方々が多いが、時間帯的にお昼を買いに来たスーツや仕事着の人も居る。休日程ではないが、少し混んでいるくらいか。

 だいたい1人か2人で買い物に来ている人が多く、当然学生らしき人は居ない。たまに居る連れられている子供も、幼児といえる範囲だ。だが、それほど小さい子だと保護者が目を離した隙に走りだしたり、商品棚の影から飛び出してきたりすることもありそう。


「おおっ。」


 今まさに小さな女の子がカートの前に飛び出してきた。幸いゆっくりと進んでいたのですぐ止まれた。女の子はじっとこちらを見ている。


「びっくりした?大丈夫?」


 かがんで目線を合わせ、出来る限り優しく話しかける。女の子はこちらの問いに、指を咥えながら首を縦に振る。女の子は何を思ったか、こちらを指さす。


「きらきら!」


(あぁそっか、ネイル。)

 そっと指を見せてやる。


「キラキラだよ。」


 女の子は嬉しそうにキャッキャと飛び跳ね、商品棚の向こうからカートを押してきた女性に「おかあさ~ん」と声を上げながら走っていく。母親らしき女性は、女の子の手を捕まえるとしっかりにぎり、苦笑いをしてお辞儀をしてくる。こちらも釣られてお辞儀を返すと、二人は遠ざかっていく。


(これって、もしかしたら事案になっちゃったりする?)


 考えると、おじさんの自分が女の子に話しかけて大丈夫だったのだろうか。遠ざかっていく声は走らないよう注意しているようで僕のことは話題になっていないよう。まぁ、もし話題に上がっても見た目はおじさんではないし大丈夫だと思いたい。ちょっと浮かれすぎだっただろうか。


(とりあえず買い物を済ませて早く帰ろう。福江さんに食べてもらうんだし、練習しなくちゃね。)


 正直、福江さんが普段食べているものに、自分が作った物が味で届くわけがないとは分っている。

 デリバリーだってレストランだってプロが作っているのだ。ちょっと料理したことがある程度の自分が、レシピ通り作ったからって失敗せずにそれなりの味がだせればマシ程度で、味は遠く及ばないだろう。

 それでも、あれだけいろいろそろっているキッチンを使わないのはもったいない気がするし、何より彼女に自分の料理を食べてほしい。やっぱり、料理を作って待っている人がいるというのは特別だと思うのだ。たとえ自分の自己満足だとしても。


(料理もそうだけど、掃除も洗濯も上手く出来るようにしたいし、お化粧もまだ簡単なのしか出来ないから覚えたい。あとはファッションも勉強しなくちゃ。)


 やることは沢山ある。それがなんだか嬉しくて、早く家に帰ろうと思った。


§


「めぐみちゃん、今日はもう上がりましょう。」


 社長室で溜まった書類を一通り処理し、デザイン企画部の階へ来ると、定時だというのに、部長のめぐみは試作の手直しをしている。すでにほとんどの社員は帰り始めていて、この階でもまだ作業しているのはめぐみくらいだ。


「社長……。1着目がそろそろ仕上がるので、少し残ってやりますよ。」


 手を止めずに言う。


「そんなに急がなくていいわよ。それに明日は工場から試作が来て早くは帰れないだろうし、帰れる時に帰って休まなきゃ。」

「いえ、ほんと少しだけなんで。」


 彼女は実に仕事熱心だ。一度手を付けた仕事は切りの良い所までやりたいというタイプのようで、タイミングが悪ければ終わるまで止めようとしない。少しワーカーホリック気味なのかもしれない。

 もう十年以上前だが、独立前に居た会社で彼女が新人だったころ、真面目過ぎて仕事を押し付けられていた。そのせいで時間がかかっていたのに、押し付けた当人たちは仕事が遅い無能呼ばわりしていて心底腹を立てたっけ。


 いや、昔を懐かしんでいる場合ではない。今は彼女にどうあっても休んでもらわなければ。自分では、今日絶対に終わらせないといけないのでもない限り、残業なんかするなら帰って休んで、次の日やった方が効率が上がると思っている。

 その方針は社内でも共有させていて、よほど急ぎでなければ定時で帰るよう責任者たちにも徹底させているのだ。だが、当の責任者でもあるめぐみは、部下にはそうさせるものの、自分だけはこうして隙あらば残業してしまう。さて、どうやって仕事を切り上げさせようか。


 ふいにドアが開き、そちらを向く。


「社長、営業と総務は定時で終わります。デザイン企画の方は終わりますか?」


 見ると総務部長の典子が入ってくる。


「こっちも定時で上げるわ。ね、めぐみちゃん。」

「ええ。私だけ少し残るので、みなさん上がっちゃってください。」


 どうも切り上げる気はないらしい。やる気があるのは良いことだが、一生懸命出来る限り働いてほしいとは思わない。むしろ余裕を持って出来る程度で良いと自分は思っている。余力があれば不測の事態にも対処しやすいだろうし、ずっとこの会社で働きたいというモチベーションにもつながってくれればなお良い。

 もし、残業して少しでもお金を稼ぎたいというのなら、給料アップだっていくらでも応じる。いや、前に自分の給料は他の社員と同じで良いからその分社員の給料を上げるよう典子に言ったら、「社長と社員が同じ給料で良いわけがありません。」とお説教されたっけ。今は彼女が提示した社長として取るべき給料で、1割返還を大目に見てもらっている。


 住んでいるところだってそう。起業どころか独立前から住んでいる安アパートに起業後もずっと住んでいたら、「社長ともあろう方がいつまでもそんな住まいでは困ります。」と、これまた典子に怒られた。そのせいで、2年前、会社の経営が軌道に乗ったのを機に引っ越すことになった。しかも提示された社長の給料で余裕で住めて、かつ社長が住んでも恥ずかしくない所と無理を言ったら、あっさり今のマンションを紹介されたのだ。考えるほど典子には頭が上がらない。


 いや、考えが脱線したけれど、そういえばめぐみがお金が欲しいと話しているのを聞いたことがなかった。そっちの方面で仕事を切り上げさせるのは無理だろう。だが、めぐみ相手なら必勝法がある。


「めぐみちゃん、今日は早く上がれるから、みんなでご飯いきましょう。もちろん奢るから。」

「えっ、ご飯ですか。」


 めぐみが手を止める。彼女がファッション以外で興味を惹かれると言ったらこれだ。もっとも最近お腹周りを気にして朝のランニングの距離を伸ばしたとかなんとか。確か陸上部だったと言っていた。


「で、でももうちょっとなんで、今日は遠慮しておきます。」


 心がゆらいだがもう一押しか。と、そこでまたドアが開く。


「川島部長!営業と総務の階、戸締り確認したんで電気消しましたよ。」


 よく通る声で言いながら入ってくる青年。営業の花岡だ。たしか今年28歳だったか。


「ご苦労様です。あとはここだけですので上がってもらって結構ですよ。」


 典子が言う。いや、ここは巻き込ませてもらおう。


「お疲れ様花岡君。そうだ、今みんなでご飯に行こうって言ってたんだけど、花岡君もどうかしら?」

「はい!お供いたします。」


 素直ではきはきして良い。実に体育会系だが、意外にも運動部では無かったらしい。いや、そんなことよりめぐみだ。


「ねぇ、めぐみちゃん。何か食べたい物ある?」

「えっ?ええっと。いえ、私は大丈夫です。」


 かなり心が揺れていると見える。それを知ってか知らずか、花岡君が声を上げる。


「そういえば、麦島部長の行きつけのステーキハウス、今増量キャンペーンでしたっけね。」

「えっウソ。忙しくて調べてなかった。」


(花岡君、よくやったわ。)


 心の中で思わず誉めてしまう。


「それじゃそこに行きましょうか。ほら、めぐみちゃん。残念だけど時間だから、後は明日にしましょう。」

「うう。分りました。すみません社長。」

「いいのよ。たまには労わせてちょうだい。」


 たぶん仕事が終わっていないことを謝っているのだろうけれど、謝る方向が違うと思う。まぁ彼女がリフレッシュしてくれるならそれで良いが。


(鈴に遅くなるって連絡しておかなくちゃ。本当は早く帰りたいけど、仕方ないわね。その分帰ったらいっぱい可愛がってあげましょう。)


「さぁみんな、早く戸締りしていきましょう。」


 わざと急かすように言って、会社を出るように仕向けた。


§


「もうこんな時間だ。」


 つい独り言が漏れてしまう。福江さんから遅くなると連絡があってから3時間くらいか。本当は整理をしたいところだったのだが、勝手に手を付けていいか分からないので、彼女に聞いてからにしようとそのままにしてある。


 メモしたものはほとんど買ってきたが、お米等の重い物や大き目の収納ケースのような持ち歩けない物は通販で注文した。届くのは明日か明後日くらいだろう。もっともご飯は炊きたかったので、お米は今日、明日分くらいの量は買ってきた。さすがに大き目のバッグがいっぱいで、持ち運ぶのもなかなか大変だった。


 実家に居た頃はどこへ行くにも車だったので多少大きいものや重い物でも何とかなったが、徒歩と電車で移動しているこちらではそうもいかない。通販以外なら自宅へ送ってもらうサービスを使うというのも手だろう。

 もっとも今日はネイルが傷つかないように気を使っていたので、バッグに入る以上の物は買うのを控えたのもあるが。


 ネイルと言えば、昔何かの番組で、ネイルをしたまま料理しているのを見たことがあるが、実際かなり大変だった。

 もちろん、素手ではなくて、買って来た使い捨ての手袋を使った。それでも爪がぶつからないよう気を使った。あとは袖も汚したり濡らしたりしないように買ってきたアームカバーをして、大き目のエプロンで身体の方は覆っていたのだが、やはり家事用の服が欲しいので福江さんに相談しないといけない。


 ご飯はすでに炊飯器で炊いてある。メインは彼女が好きだと言っていた鶏料理でチキングリル。下味を付けた鶏もも肉を冷蔵庫で寝かせ、あとはオーブンに入れて焼くだけの状態だ。スープはミネストローネ。ホールトマトの缶詰と市販のコンソメで味付けしたシンプルなもので、すでに出来上がっている。これは必要になったら温めれば良い。食事の準備が終わり、お風呂も沸かした。聞きたいことも整理して、スマホのメモ帳にまとめてある。

 それでも余った時間は、とりあえずリビングで、今朝気になっていたロリータ系のファッション雑誌を読んでいた。福江さんの記事が載っていて少し驚いたけれど、やはりすごい人なのだと改めて思い知った。


(福江さん、お仕事大変なのかな。ご飯、喜んでくれるといいけど。)


 ふいにガチャリと玄関の開く音がして、急いで玄関へ出る。


「ただいま、鈴。」

「おかえりなさい、福江さん。」


 彼女の顔を見てなんだか安心する。


「福江さん、ご飯は……。」

「うん、会社の子たちと食べてきたの。」

「そう……、ですか。」


 こんな時間だし、そういうことも考えられたのだ。確認もしないで勝手に用意して失敗だった。遅くなると連絡が有った時に確認していればよかったのに。


「あ、お風呂は沸いてますよ。バッグは預かりますね。」

「ええ、ありがとう。それじゃ入らせてもらっちゃうわね。」


 ハンドバッグを預かると、彼女はそのまま洗面所へ入る。


「あ、洗濯物はクリーニングに出してくれたの?」


 脱衣籠の中は無くなっているのだからさすがに分るか。


「はい。服はクリーニングに。戻ってきたものは作業部屋に置いてあります。あと、下着とバスタオルとシーツは洗って、下着は作業部屋に。シーツとバスタオルはそれぞれ戻してあります。」

「そう、ありがとう。大変だったでしょ?そこまでしてくれなくても良かったのよ?」

「いえ。出来ることはやっておこうかと。」


 やはりやる必要はなかったか。掃除にしても、大してきれいになったわけでもないし、食事も洗濯もとなると、結局自己満足で無駄に動いていただけだった。それこそ、ちゃんと聞いておけば良かったのだ。


 とりあえず、自分もご飯を食べないといけないので、用意していた食事を自分の分だけ仕上げなければ。預かったハンドバッグを作業部屋の机の上に置き、そのままリビングを通ってキッチンへ。ふと見ると、カウンターのグラスにあるバラの花びらが数枚落ちている。


(何やってるんだろうな、僕。)


 二人で暮らすのだから、何より彼女と話をすることが大切だったのだろう。それが、勝手に迷惑だろうと連絡もせずに手を付けた結果がこれだ。

 仕事中に連絡したら迷惑だろうなんて、それも彼女に聞いてみないと分からないことなのに。結局、全部自己満足で空回っていただけだと気づいてしまった。


 とりあえず自分の分の食事が出来上がり、ダイニングテーブルへ運ぶ。2人でも大きすぎるダイニングテーブルにポツンと1人だけの食事。そういえば食器も調理器具も使って良いか聞いてもいなかった。今日はなにもかも自分勝手にやりすぎてしまった気がする。


「いただきます。」


 実家では晩酌をしている父と夕食を一緒にしていたので、いつも挨拶はかかさなかった。一人でも習慣で言ってしまうのはなんだか寂しい。お昼に試しに同じ物を作って食べているので、今日は2回目の同じメニュー。別に同じ物を連続で食べても気にならないが、お昼の時より食が進まない。一人で食事することなんてよくあることだったのに。


「ふう。いいお湯だった。」


 ドアが開いてリビングから福江さんが入ってくる。料理の仕上げに時間をかけすぎてしまったのか、すでにお風呂から上がって、髪も乾かしたようだ。


「福江さん、すみません。髪を乾かすのお手伝いするつもりだったのに。」

「いいのよ、気にしないで。」


 すでに寝間着に着替えている彼女は、入ってそのままキッチンに入り、何やらやっている。ほどなくして戻ってきたその手には赤ワインが入ったグラス。


「鈴、もしかしてお料理した?」


 彼女は言いながら自分の隣へ来る。


「ごめんなさい、勝手にいろいろ使ってしまって。」


 キッチンで使った道具もそうだが、勝手にいろいろ見て回った事も事後報告だ。きちんとあやまらなければ。


「あと、いろいろ部屋の中も勝手に見てまわってしまいました。すみません。」


 食事を中断し頭を下げる。自分は何を浮かれていたのか。なぜか目頭が熱くなる。


「全然かまわないわ。ここはもう鈴の家でもあるんだから、あるものは自由に使っていいし、どこを見てもいいんだから。」


 そう言ってワインに口をつける彼女。その目が自分の食事へ向く。


「いい香りね。一口もらっていい?」

「もちろん。ど、どうぞ。」


 まだ温かいチキングリルを一口分切り分ける。あーん、と口を開ける彼女に、少しためらったが、料理を食べさせる。なんだか恥ずかしい。


「ん、おいしい。お料理上手なのね。」


 嬉しそうに言う彼女になんだか胸が熱くなる。


「いえ、そんな。レシピ通りに作っただけで……。」

「そう?あ、ネイルサロンも行って来たのね。見せてもらっていい?」

「は、はい。」


 食べさせるときに目についたのか。そっと両手を出すとそれに手を沿えて眺める彼女。


「良いネイリストさんだったのね。服にも合っているしバランスも良くてきれいね。」


 誉められているのはネイルなのに、なんだか自分も嬉しくなる。


「えっと、ネイルしてくれた人は、僕の服を見てブランドが分ったみたいで。何着か持ってると。」

「あら。それじゃうちのお客様だったのね。なんだか嬉しいわ。」


 微笑む彼女に自分も自然と笑顔になる。


「僕もこのネイル気に入ってます。つい写真を撮ったくらい。」

「本当?その写真見たいわ!」


 ぐっと顔を近づけてくる彼女。あわてて、テーブルに置いてあるスマホを取り、操作する。食事中は見ないようにしているが、つい手元に置いてしまうのが役に立つとは。


「こ、これです。あんまりよく撮れてないかもしれませんが……。」


 カフェで撮った写真。つい浮かれて自撮りしてしまったが、今見直すと恥ずかしい。


「かっ可愛い!この写真ほしいわ!送ってちょうだい。」


 こんなに喜んでくれるとは予想外だ。すぐに彼女へ送信する。


「これ、ネイルしてもらってすぐ、お昼前くらいに撮ったんですけど。仕事中に送ったら迷惑かと思いまして。」

「そんな、むしろすぐ送ってほしかったわ。すぐ返信できなくたって休憩中なら出来るし、この写真があればやる気だってすごく上がっちゃうわ!」


 心なしかテンションが高い。もしかして酔っているのだろうか。


「仕事中でも気にしなくていいから、これからは写真撮ったり、思ったことがあったらすぐ送ってちょうだいね。」

「はい。そうさせてもらいます。」


 仕事中に送ったら迷惑なんて勝手に思っていたが、むしろ逆だったようだ。やはり聞いてみないとわからないものだ。


「そういえば、ちょっとお聞きしたいことが。」

「なぁに?何でも聞いて。」


 彼女はそう言ってまたグラスに口をつける。


「えっと何から聞こう。あぁ、そうだ。クローゼットの中とか作業部屋とかお風呂場とか、整理させてもらっても良いですか?」


 彼女の持ち物を勝手に触ろうとして気を悪くしないか不安だが、思い切って聞いた。


「えっ?整理してくれるの?助かるわ。最初はきれいに使おうと思ってたんだけど、一人暮らしだと面倒になっちゃってね。幻滅した?」


 そう言って少し苦笑いする彼女。


「そんなことありませんよ。福江さん、すごく忙しそうですし、お手伝いできればと勝手に思ってしまって。」


 手を横に振る。実は彼女の油断した一面に、思ったほど完璧な人ではないと安心してしまったのは言わないでおこう。


「そう。ありがとう鈴。」


 彼女がそっと肩を抱き寄せてくる。温もりと風呂上がりの良い香り。


「あ、あとは、その置物は……?」


 少し恥ずかしくなってあわててダイニングの階段下にある2つの置物を指す。


「あぁ、あれ。実はよく分からないのよね。引っ越し祝いに貰ったんだけど、とりあえず置いてそのままなの。邪魔なら片付けてかまわないから。」


 チラリと見て特に気にした様子もなく言う彼女。どうりで彼女の雰囲気には合わないなと思った。


「そ、そうなんですか。あとは、キッチンの道具とか食器とか、少し使っちゃいましたけど……。」

「必要ならどれでも好きに使って。あれも引っ越し祝いでいろんな人から貰ったんだけど、あんまり多くてどれを誰からもらったか忘れちゃったの。結局使わないで仕舞い込んでたし、使わないと勿体ないとは思っていたのだけれど、つい億劫になっちゃって。」


 そう言って苦笑する彼女。

 社長である彼女なら知り合いも当然多いだろう。あの置物はともかく、実用的なものをと食器や調理器具をみんなから送られたのなら、キッチンの収納がいっぱいになるわけだ。


「私も一応家事は一通り出来るし、ここに越して来る前は節約のためにやってはいたのよ。でもここに引っ越して余裕が出来たら、なんだか面倒になっちゃってね。本当は私がお料理してあげたいんだけど、ごめんなさいね。」

「いえ。僕がやりたいからやっているだけなので。」


 聞いてみるとなんてことはなかった。勝手に悩んでしまうのは自分の悪い癖だ。ここに初めて来たときもそうだったが。


「そういえば、バルコニーとかこの部屋も、あんまり物が無いと言うか。いえ、収納方法とか詳しくはないので、あんまり物があっても困っちゃうんですけど。クローゼットとかも整理は出来てもどう仕舞おうか迷ってるくらいで。」


 なんだか殺風景だと咎めてるような気がしてごまかすように早口になってしまった。


「けっこう引っ越してきた時のままほったらかしになってるのよね。今までは一人だったから持て余してて。鈴が好きに模様替えしていいからね。あと、そうね。収納とか家事で困ってるなら、来週私の友達を紹介するわ。うちの会社で総務部長をやってもらってる、5つ年下の子なんだけど、彼女そういうの大得意でね。私が教えるよりずっと詳しいから。」


 教えてくれる人がいるというのは、予想外だがありがたい。それに好きに模様替えしていいと言われたら、どうしようか嬉しいような悩むような。

 あと聞きたいことは、洗濯もそのお友達に聞けば解りそうだし、掃除もお料理もそうだろう。だとしたらあとは、あのダンボールの山か。


「えっとあとは、階段下の収納にあったダンボールなんですけど。」

「ああ。あれは起業前にやった仕事の資料とか試作ね。越してきたまま2年も放置してるから、服もダメになってるでしょうね。別に捨てちゃってかわない――。」

「捨てません!絶対!」

「そ、そう?」


 つい声が大きくなってしまった。彼女が驚いている。


「す、すみません。ただ、せっかくの福江さんの仕事の足跡ですし、福江さんのファンの方とか、デザイナー志望の方とか、見たい人も絶対居ると思うんです。だから整理させてもらえたら、ちゃんと見られるようにしたいなって。」

「そうかしら?なんだか恥ずかしいけど、鈴の好きにしていいわよ。確かに、昔のものだからって捨てちゃうのはちょっともったいないかしらね。」


 彼女が照れているのは初めて見たかもしれない。もっとも、彼女の努力の跡なのだから、もっと誇ってもいいくらいだと思う。

 彼女は照れ隠しかぐっとワインを飲み干す。


「そういえば、今日のご飯ってもしかして私の分も作ってくれてた?」


 彼女が顔を覗きこんで来る。つい目を伏せてしまう。


「えっと、はい。勝手にすいません。ちゃんと夕飯どうするか聞くべきでした。」

「そうだったの。ごめんなさいね。明日はちゃんとご飯を食べずに帰ってくるから、また作ってもらえる?」


 彼女がそっと首すじを撫でてくる。暖かく、こそばゆい。


「もちろんです。あと、良かったら明日の朝ごはんも作っていいですか?」

「嬉しいわ。ぜひお願いね。あ、明日も少し遅くなるかもしれないけど待っててくれる?」

「はい!お夕飯用意して待っていますね。」


 自然と顔がほころぶ。彼女も嬉しそうに笑っている。今日悩んでいたことがウソのように片付いてしまった。


「それじゃ、私は先にベッドへ行っているわね。鈴も急がなくていいから、ご飯とお風呂が終わったら来てちょうだい。待ってるわ。」

「は、はい。」


 グラスをシンクに置くと彼女はダイニングを出ていく。その背中を見ながら、急いでご飯を食べ始めた。

 

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