第12話 僕、初めてのネイルサロンです
今日の献立に使う食材と日用品等の買うものをメモし、大き目のバッグを持って家を出た。
今は朝の通勤時間帯を過ぎたころだが、それでも人通りは多い。スーツ姿の人が多めだが、様々な服装、年齢の人が歩いているし、人種の違う人達も多く見かける。
昨日まではとにかく恥ずかしさが先に立って周りを見る余裕などなかったが、こうして少し慣れてみれば、様々な個性の人が流れとなって歩いていて、その中にこんな派手な格好の自分が紛れてもそう目立たないらしい。例えるなら、子供がおもちゃを仕舞った箱に人形1つ紛れても目立たないような。
それに案外周囲を見ている人は少ない。歩いている人は迷うことなく歩を進めているし、街角に座っている人も、どこか上の空だったりスマホをいじっていたり。
自分が見られて恥ずかしいというのは自意識過剰すぎたのかもしれない。
さて周囲の観察もほどほどにし、福江さんがスマホに送ってくれた地図を頼りに目的地を目指す。最寄りの駅から電車に乗り、2つ先の駅の中にそのネイルサロンはあった。1駅間が短いのでほんの10分足らずである。
(初めて入るお店って緊張するなぁ。)
しかし、すでに予約時間目前。このまま突っ立っているわけにもいかない。
店のガラス窓に映っている自分の姿は、大き目のバッグを携えたロリータファッションの少女だ。どこから見ても39歳の成人男性には見えない。
(大丈夫だよね?)
福江さんの努力の足跡を見た後、服に恥じない自分になろうと思ったのだ。こんなところで尻込みしてはいられない。きれいになるためにどんな努力が必要なのかは分からないが、まずは彼女に勧められたこの店に入るのだ。
意を決してガラスの扉を開く。「いらっしゃいませ」とにこやかに挨拶をしてくるカウンターの女性店員さんの元へ向かう。ロビーには開店直後のせいか誰も居ない。結構な人気店らしいが、空いている時間だったのだろうか。
なにせネイルサロン自体初めてなのだ。女性向けで爪を飾ってくれるくらいのイメージしかない。
「すみません。予約した設楽なんですけど。」
受付の店員さんに確認してもらう。その後店内へ案内してもらい、ネイルをしてくれる店員さんの前へ座る。
「いらっしゃいませ。今日はどんな感じにしましょうか?」
にこやかに話しかけてくる店員さん。20代くらいの女性だ。たしかネイリストというのだったか。なんだか髪を切ってもらう時に似ている気がするが、床屋や美容室が基本鏡越しが多いのに対して、爪をきれいにしてもらう都合、目の前で話をするのが居心地が悪い。
とりあえず、初めてネイルなんてしてもらうのだから、自分でどうしたいかなんて見当もつかない。となると言うべき言葉は一つか。
「えっと、初めてなのでよくわからないので、おまかせして良いですか?」
「かしこまりました。コーディネートに合わせたネイルにしますね。」
分からなければプロである店員さんにまかせれば良いのだ。まぁスマホを選ぶ時みたいに余計なオプションがついてくる可能性もあるが、きれいにしてくれるなら文句はない。もっとも、人見知りな自分にとって、ネイルより心配なのは会話のほうなわけで。
「とっても可愛らしいですね。コーディネートもそろっていて素敵です。」
「ありがとうございます。」
微笑んで見せる。誉められて悪い気はしないが、この歳のおじさんが可愛いと言われても複雑だ。
「あの、失礼なことを言っていたら申し訳ないのですが。もしかして……、男性の方ですか?」
ドキリと全身が強張る。今まで恐れていたことを面と向かって言われた。いつか、誰かにバレるのではないかと。いや、口に出されていないだけで、すでに何人も男と気づいていたのではないだろうか。男がこんな格好をしておかしな奴だと思われていたのでは。
「そ、そうです。やっぱり変ですよね?」
店員さんはテキパキと手を動かし、爪をきれいに手入れしていく。まだ付け爪や装飾はされていないが、さすがに手馴れた様子だ。
「いえいえ、変なんてとんでもありません。私も手を見なければ男性だなんて気づきませんでしたし。女の子だってあなた程可愛い子なんてそうそう居ませんよ。」
「あ、ありがとうございます。えっと、手で判るんですか?声とかでなくて。」
「ええ、うちのお客さんはほぼ女性ですがごく稀に男性もいますから。でも、声も女性でもおかしくないですし、男性だと判る人なんてほとんどいないと思いますよ。」
さすが手のプロといったところか。いや、声も女性っぽいなんて初めて言われたけれど、複雑な気分だ。男だと思われる心配がないという安堵と、男に見られないという悲しみというか。
今の格好なら男だと思われないことはメリットだ。しかし、今まで普通に男として生活していた頃も、言われなかっただけで、結構女性に間違われていたのだろうか。それはそれで悲しい気がする。
「ファッションも素敵ですね。Witchwinkですよね?」
Witchwinkは確か福江さんの会社のブランド名だったか。市販されているのだから当然知っている人もいるだろうが、まさかこんなところで聞くとは。店員さんもロリータファッションに興味があるのだろうか。
「そうです。御存じなんですね。」
「ええ。なかなか手が出せないですが、やっぱり素敵で品質も違いますからね。年1~2回くらい自分へのご褒美で買っちゃうんです。」
手を止めずに言う。人気店のネイリストさんなら少なくない稼ぎだとは思う。しかし、その人でも年1~2回奮発して買うということはいったいどんな値段なのだろうか。知りたいような怖いような。
「こういうお洋服は結構持ってらっしゃるんですか?他のブランドとかも。」
何と答えたらいいか。ブランドで言えば、家にあるのは福江さんのデザインだけだろうから、彼女が個人的に作った物以外はWitchwinkのブランドということになるか。数的にはもう服がジャングルになるくらいだから沢山としか。
「数的には結構あると思います。ブランド?は全部Witchwinkですけど。」
「ええ!すごい……。もしかして、かなり裕福なお家なんですか?あっ、失礼しました。こういうこと聞くべきではなかったですね。」
「いえ。大丈夫です。まぁ、僕が稼いでいるわけではないですけどそれなりには。」
思わず苦笑いしてしまう。裕福かと聞かれればそうだろう。なにせ社長の夫だ。彼女がどれほど稼いでいるかは分からないけれども、数日前の自分からしたら雲の上の生活だ。もっとも、稼ぎが良いからブランドの服を沢山持っているのではなくて、ブランドの服の会社だから稼ぎが良いのだが。
「あの……。今お召しになられてるお洋服って、市販品ですか?そのお洋服は私買っていないんですけれど、通販サイトで見た物よりリボンなんかが良い物みたいなので。もちろん参考写真と実物の仕様が違うだけかもしれませんけれど。」
通販で売っているというのは初耳だった。今更ながら、妻になる人の会社の情報や売っている製品くらい調べておけば良かったと思う。もっとも、今着ている服は彼女の手作りで試作品の可能性が高い。市販品と仕様が違うのも試作品だからだろう。さて、それをどう伝えるべきか。
「ええと、どのくらい違うのかは分からないんですけど、たぶんこれだけ違うのかもしれなくて。」
「あっ、もしかしてあんまり聞いちゃいけないことでした?改造品というか手を加えてらっしゃるとか。」
別に聞いてはいけないと言うことは無いだろう。むしろ、市販品と今着ている服の違いが判るということはこの店員さんの観察眼が素晴らしいということか、もしくはかなりのブランド知識があるということだ。
ついでに改造品というのも違う。たしかに市販品とは仕様が違うが、試作品でも本物ではある。むしろ福江さんの手作りなら市販品よりも本物というか。自分でもよくわからなくなってくる。
「ええと。ここだけの話なんですが、この服は妻の手作りなんです。」
「え?奥様の?」
「ええ。妻はその、Witchwinkの社長で。これは市販品じゃなくて試作なんです。だから仕様が違うのかなと。ファッションも僕の趣味というより、妻のデザインだから身に着けているという感じでして。」
「えっ?WitchWinkの社長さんの旦那様?社長さんってフクさんですか?」
今までどんなにしゃべっても手を止めずに作業していた店員さんの手が止まる。かなり驚いた様子でこちらを見ている。
「そうです。妻を御存じなんですね。」
「ええ。ホームページで見させていただきました。まさか、フクさんの。でも、そのお洋服はそうですよね。」
服をまじまじと見てくる。まぁファッションブランドの社長の夫だなんて言って簡単に信じてもらう方が難しいだろう。だが、ファッションに詳しいのであれば、今着ている服が雄弁に物語ってくれるのではないだろうか。いや、それでも信じる根拠にするには微妙かもしれないけれど。
それより、会社のホームページに福江さんが出ているというのは知らなかった。もっとも、いろんな会社のホームページで社長の挨拶が書いてあるものはいくつか見たことがあるため、彼女が自分の会社のホームページに顔を載せていても不思議はない。本当は会社の名前を聞いた後すぐに調べておけばよかったのだろうが、いろいろなことがありすぎてそこまで気が回らなかったのだ。
あとは、まだ籍を入れていないのだけれど、もう結婚しているようなものだし妻と言っても支障はないはず。
「あの、今日のネイルって奥様も御覧になられますか?」
「ええ。今日は妻に予約してもらって来たので、出来たら見せるつもりです。」
答えると店員さんの目の色が明らかに変わった。
「最高のネイルに仕上げてみせます!」
そこから店員さんの口数が減って、すごい集中力でネイルを飾っていく。福江さんのブランドを知っていてくれたことが嬉しくて、つい余計なことまで口走ってしまった。しかし、それが店員さんのやる気に火を点けてしまうとは。
しばらくして、ネイルが出来上がる。
「ふう。完成です。いかがでしょう。」
「わぁ、すごいです。キラキラしてきれいで、気に入りました。」
ドレスに合わせた夜空のような藍色にキラキラとした星と月、兎のシルエット。こんな小さな爪の中に見事な表現力だ。なんだか見ているだけで気分が高揚する。
「喜んでいただけたようで何よりです。また、ぜひお越しください。奥様にもよろしくお伝えくださいね。」
「はい、ありがとうございました。」
一通りすんで会計を済ませ店を出る。正直、ネイルをしてもらうだけでこんなに気分が違うとは思わなかった。服だって素敵なのは間違いないが、自分の全体の姿は鏡を見なければ分からないし、やはり自分がおじさんだという自覚がある。
だがネイルは手元なのでいつでも見られるし、爪だけというのが余計な思考を排除するのだろうか。ともかく、きれいにしてもらって嬉しいというのはなんだか新鮮な感覚だ。
(そうだよね。きれいにして誉めてもらって、悪い事なんてないんだ。)
福江さんが言っていたファッションを楽しむというのはこういうことなのだろうか。
しかし、ネイルをしてもらうために手を動かさないようにしていたので、少し疲れてしまった。
時間には余裕があるので、近くのカフェに入る。有名なコーヒーチェーン店だが自分は入ったことが無い。初めて入った店だというのにあまり恥ずかしさは感じず、適当に選んだコーヒーを買って、ガラス張りの通路に面した側の席へ座る。
まったく恥ずかしくないわけではないが、今日はなんだかこれでも悪くないような気がする。
(そういえば福江さんに見せるって言ってたけど、写真を撮っておいた方がいいかな。)
スマホを取り出し、コーヒーカップを持ったまま自撮りする。カップを持った手のネイルが映るから丁度良いだろう。しかし、写り方を意識した自撮りなんて婚活アプリに登録する時くらいしか記憶にない。
もちろん撮る前に自撮りできれいに撮れる方法を調べてみたが、お世辞にもうまく撮れたとは思えなかった。あとは昨日、化粧や服装を確認するために自撮りしたが、きれいに撮れるかなんて意識する余裕はなく、見やすければ良いとそんなに気を使ってはいなかった。
(今日のはどうかな。)
撮ったばかりの画像を確認してみる。コーヒーを片手にはにかむ少女。ネイルがキラキラと光っている。おじさんの自分なのだと考えなければそれほど悪くないと思う。
(福江さんに送りたいけど、やっぱり昼間のうちは迷惑だよね。帰ってきたら見てもらおうかな。)
なんだか今までにないくらいウキウキしていて、飲んだコーヒーもいつもと一味違う気がした。
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