第7話 僕、自分で女装してみるみたいです
「えっ!設楽君辞めちゃうの?」
「ええ、そうなんですよ。今までお世話になりました。」
事務室で退職届や有休の残りの消化申請を書いていたら、通りかかった同じ職場のパートのおばさんに聞かれ、退職することを伝えた。今は仕事中のはずだが、事務室の位置的に作業場からトイレへ行く途中で通りかかれば窓から中が見える。自分は今日有休で居ないはずなので気になる人は話くらい聞くだろう。もちろん、自宅でちゃんと化粧を落として男物の服に着替えてある。
「なんで?何かあったの?」
「実は僕、結婚することになりまして。妻の住んでる都内へ引っ越すので、急ですが退職しないといけなくて。」
事前に電話をした時は課長さんに繋いでもらったが、似たようなことを聞かれた。その時は同じように答えて電話を切ったが、職場についてからも何か職場で不都合でもあったのかといろいろ理由を聞かれたのだ。
当然最初に言ったこと以外の理由なんて無いので、職場に問題があったわけではないと言っておく。それから急に辞めることを謝り、今日には都内へ戻るので明日から出社できないことを伝えると対応してくれた。本当にありがたいやら申し訳ないやら。
「仕事辞めちゃって大丈夫なの?そりゃ東京行っちゃったらこっちで仕事するわけにはいかないでしょうけど。」
おばさんの言うことはわかる。パートだって収入が無いよりは遥かにマシだろう。だが、今の自分は不本意ながら無職だろうがまったく問題は無い。
「ええと、妻が結構良い稼ぎなので、お金の心配はないんです。まぁ向こうでも働くつもりではいますけど。」
「逆玉ってやつ?すごいねぇ。まぁ設楽君ならそういうこともあるわ。」
あははと大きな声で笑うおばさん。それから他愛無い話をしておばさんは戻っていき、自分も書類の記入に戻る。
ほどなくして一通り書き終え、課長さんと事務のお姉さんにお礼を言って出ようとすると、お昼休みのチャイムが鳴る。思ったより長居してしまったらしい。
持ってきたお菓子は事務のお姉さんに適当に配ってくれるよう言って渡してあるし、忘れ物も無いだろう。職場を出たら適当に昼食を済ませて、それから役所へ行かねば。そう思って事務室を出る。
「設楽君!」
呼ばれた方を見ると、同じ職場のおばさん達が何人もやってくる。普段そんなに話をした覚えは無いが、仕事では協力し合っていたし、お世話になってはいた。しかし、お昼へ向かうにしてもチャイムが鳴ってすぐとは少し早すぎはしないか。
「今日で終わりなんでしょ?もう会えないなんて寂しいわぁ。」
「えぇ、まぁ。お世話になりました。」
おばさん達に囲まれ、口々に別れを惜しむ言葉やら結婚相手のことを聞くやら言葉を投げかけられる。なんだって辞める時になってこんなに話しかけてくるのか理解に苦しむが、邪見にも出来ない自分が恨めしい。
結局、何分も下手したら職場のおばさん全員に代わる代わる話をされて対応し、職場を出られたのはお昼も終わろうというころだった。
§
「
「はい。新しい型紙と一緒に工場へ送りました。」
問いかけにさわやかな風貌の青年が、書類確認の手を止めず答える。
デザイン企画部の職場では社員たちが慌ただしく行き来している。もちろん、デザインの担当である自分も、新作の生産開始前は確認のため、社長室よりこちらに居ることの方が多い。
デザイン企画部という名前にしているが、デザインから型紙をおこすパタンナーや工場との擦り合わせ等、デザインから生産に入るまでのほとんどを行っている、うちの会社の心臓部と言える部署なのだ。
「めぐみちゃん、エラー対策は結局どうしたの?」
ふわふわしたくせ毛のメガネの女性に聞く。若く見えるが30代前半、デザイン企画部の部長をまかせている、自分の右腕ともいえる子だ。
「戸倉くんの案で行きます。戸倉くん、直したやつ印刷してある?」
「これです。
渡された何枚かの書類は青、緑、黄色とそれぞれ色分けされている。
「うん。とりあえずこっちはひと段落ね。めぐみちゃん、最初の試作もらえる?来週には撮影に使いたいから手直しちゃうわね。」
「いえ。手直しもいつも通りこっちで間に合わせるんで、社長は戻って下さい。」
毎回デザインしてから最初に手作りで試作して、実物を元に販売用へ修正して行く。他社から依頼されてデザインをする場合はデザインだけで良いが、自社で生産する服はデザインそのままとはいかず、販売時の価格や工場での生産工程などを考えて修正をかける。だいたいその時点では仮縫いなのだが、販売用のデザインが決定して工場で生産が始まる前に、予約や宣伝用に撮影する必要があるので、モデルに合わせて手直しし、完成品にするのだ。
工場での生産段階まで行けば多少余裕は出来てくるので、いつも部長であるめぐみちゃんが手直ししている。
彼女の働きは目を見張る。デザインの勉強を大学の頃からしてきた自分と違い、彼女は元々パタンナーの仕事をしていた。自分がファッションデザイナーとして独立した後、元いた会社から助手として引き抜き、少しずつデザインの仕事を教えてきたのだ。
起業後はデザイン企画部の部長として、私のデザインを一般販売する段階へ落とし込むまでの仕事をほとんど仕切ってもらっている。そのうち彼女にもデザインをやらせたいとは思っているが、会社が軌道に乗ってきたとはいえ人員的にギリギリでまわしている今は難しい。
当然彼女への仕事の負担が大きくなってしまうため、なるべく自分の方もデザイン企画部の仕事を手伝うようにしている。だがデザイン企画部の仕事を社長にさせるわけにはいかないと、どうしても間に合わない時以外は頼ってくれないのだ。
「そう言うなら戻るけど、無理しないでこっちに投げてくれてもいいからね。」
「ありがとうございます。あの、社長。もしかして今回急いでます?」
心配そうに聞いてくる。少し疲れが見える顔だ。会社の方針として休日出勤は原則禁止、仕事の持ち帰り禁止、残業は1日最長2時間までとしている。
だが作業時間が限られるせいか、始業前や終業後にも仕事をしている時があり、その分は典子に残業として処理してもらっている。
もちろん本来の2時間をオーバーしてしまっているが。だいたいそういう時は自分も一緒に仕事することで、私に仕事させまいとするめぐみを牽制していた。
一応新作の発売時期は大まかに発表しているとはいえ、延期しても問題はない。当然提携している店に初回分を卸さなければならないが、うちには延期ぐらい平気に通して来る頼もしい営業部長がいるのだ。しかし、めぐみは期限厳守という心構えで取り組み、起業から発売延期があったのは、彼女がインフルエンザに罹った時の1回きりだった。
今回だって時間はかなり余裕を持っている。別に前倒ししたいというわけでもない。
「別にそこまで急いではいないわよ。来週に撮影の予定を入れてるからそれに間に合わせたいだけ。急かすつもりはなかったのだけど。」
「そうですか。今回はスムーズに進んでいるんで、試作の手直しも撮影までには十分間に合うはずです。」
安堵したように言う。実のところ急いではいる。が、納期がどうとかそういうことではなくて、来週に鈴をみんなに紹介するのに撮影という口実が欲しいのと、あとはとっとと仕事を片付けて週末は気兼ねなく彼との時間を楽しみたいというだけだった。
完全に私情で、めぐみに心配をかけるのは気が引ける。とはいえやはり鈴とのひと時を考えるだけで顔がほころんでくる。彼は今頃どうしているだろうか。明日帰ってくるのが待ち遠しい。
「社長、なにか良いことでもあったんですか?」
「え?ええ。まぁ来週には分かるわよ。」
顔に出ていただろうか。でも昨日婚約したばかりなのだ、仕方ないではないか。顔の笑みが消せないまま、とりあえず自分の仕事を片付けようと社長室へ向かった。
§
だいぶ急ぎつつも安全運転に気を付け、家に帰って時間を確認するとすでに16時少し前。
(もうこんな時間だ、急がなくちゃ。)
職場から出た後は、昼食をコンビニで買って済ませ、すぐ役所へ行って転居の手続きをした。転出届は出し終わったので、マンションに戻ってから時間があるときに転入届を出せばいいだろう。だが、職場を出たのが遅かった分、こんな時間になってしまったのだ。
自分の部屋で、とりあえずキャリーバッグから明日の着替えにと入れておいてもらった服を取り出す。実家についたときは化粧を落とす道具やスキンケア用品だけ取り出したので他の物は確認していなかった。
中にあった服は蝶の柄の布地で、和服とドレスを合わせたようなデザイン。もちろんフリルが可愛らしくあしらわれている。あとは前髪がまっすぐに切り揃えられた黒髪のロングのウィッグ。大きな花の髪飾りも入ってる。それにタイツとか中に着るものと、編み上げのロングブーツに、巾着型のポーチ。
服だけ変えるのかと思っていたのだが、頭から脚まで一式コーディネートが入っている。あと下着も朝着ていたレースのTバックとブラみたいなやつで、色が赤いの。もちろん今日着替えた時に下着も自分のシャツとボクサーパンツにしたので、帰りはこれに替えねばならない。別に朝着てきた服でもいいのだが、せっかく福江さんが用意してくれたのだ、ちゃんと着替えて帰りたい。
とりあえず自分の服を下着まで全部脱いでしまって、赤いレースの下着から服まで着る。ポーチの化粧道具を取り出し、洗面所へ。
化粧をするにしても、男所帯のうちに化粧台なんてない。もしかしたら母が生前使っていたものが眠っているかもしれないが、それを探している時間も無い。なので、今朝、化粧を落とした時と同じく、洗面所に来たのだ。とりあえず洗面台の隣にある洗濯機の上に化粧品を並べ、福江さんに教えてもらったことを思い出しながら化粧する。
口元はマスクで隠れて、食事をするときくらいしか出さないので、目元に注意する。もちろん口元もおろそかにして良いことにはならないが、なにしろ時間がないのだ。
一通り終わったら今朝自撮りした画像を鏡と見比べておかしなところがないか確認する。化粧の色が違うが、基本は同じだ。ちゃんとなじんでいると思うが、自分の感覚を信じるしかないのが怖い。それでもこれで行くしかないと、化粧道具をもれなく回収して、脱いだ自分の服を洗濯カゴに入れ自室に戻る。自分の服を次に着ることがあるのかは分からないが、一応父に洗濯してもらって自分の部屋にでも置いておいてもらえばよい。いつも洗濯は週2回くらい、父か自分かどっちか手の空いたほうがやるようにしていた。時間があれば自分で洗濯してもよかったのだが。
あとはウィッグをつけて、髪飾りもつけて、スマホを置き全身が入るように正面、左右、後ろと写真を撮り確認する。うちに全身が映る姿見なんてないのでこうするしかなかった。
画像を確認してみたが、一応おかしなところは無いと思う。あとはキャリーバッグに朝身に着けていたものを一通りしまい、化粧落としやスキンケア用品も入れる。化粧道具やポーチの中身も巾着型のポーチに移し、元のポーチはキャリーバッグの中。これで準備は完了だ。
(次にここに帰ってくるのはいつになるかな。)
マンガや小説や種々の本がぎっしり詰まった本棚。少しだけフィギュアが飾られてるケースや本の入ったコンテナの載った金属ラック。PCとゲーム機がつながっているテレビがそれらと一緒に載ったPC台。使い古したタンスや勉強机が付いたベッド。子供の頃から少しずつ変わりながらも、見慣れた自分の部屋。同年のおじさんと比べたら子供っぽいだろうか。
いや、感傷に浸っている時間は残されていない。とりあえず自分の部屋のコンセントは一つ残らず引き抜く。それから自分の車のカギを居間のテーブルに置く。車は父も持っているが、自分の車を都内まで持っていく気は無い。まぁ処分してもらってもかまわないのだが、その辺はあとでメッセージを送っておけばいいだろう。家を出て、家の鍵は一応ポーチにしまう。あとは家から離れれば、たとえ父とすれちがっても、この姿の僕を息子だとは思うまい。
(ごめん。ちゃんと後で福江さんを紹介しに戻ってくるから。)
心の中で今は居ない父に謝る。それから近くのコンビニまで歩く。一番近くのコンビニまでは5分程度。時間が時間なので、小学生から高校生まで、近くに学校が揃っているせいでみんな歩いている。幸い子供たちに近寄らずにコンビニまで着けた。
店内に入ると、コーヒーを買ってイートインスペースで休み、タクシーを呼ぶ。これでやっと一息つける。思ったよりは時間がかかったが、とりあえずは一安心だ。スマホを見るとすでに18時を過ぎている。
(福江さん、何してるかな。)
思えば昨日会って、今朝別れたばかり。なのに妙に恋しく思うのは初めて出来た恋人だからだろうか。いや、これで最後にするのだ。すでに婚約しているし、初めて愛した人と最後まで添い遂げるのはそれはそれでかっこいいではないか。あるいは何も成せないで悶々と過ごしていた自分に手を差し伸べてくれた彼女に全身全霊で恩返しがしたいというか。
(早く帰ろう。それから僕に何が出来るか考えるんだ。)
口に運んだコーヒーの香りが心地よく鼻を抜けていった。
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