6
母は、リビングが好きだった。何かというと話しかけてくる母を、少なからず疎んで、俺はあの家で暮らしていた。
月が変わり、年の瀬が意識されはじめた頃合いから寒さはしんと増していて、中でも今日は冷え込んでいる。会社から喫茶店までは五分もかからない距離だけれど、それでも体は芯から凍えた。コーヒーを注文し、俺は、俺に不快な過去を思い出させる先客を探す。
薄暗い店内、曇り空の窓際に、その男は座っていた。
「お待たせしましたか」
声をかけると、男は読んでいた本を閉じ、老眼鏡を外してケースに納める。
「いえ。なにも急いでいませんから」
丁寧な所作で、本と眼鏡を鞄にしまう。
盆に載って、コーヒーと一緒にサンドイッチが一皿運ばれてくる。頼んでおきました、と男が言う。男の手元のカップには、半分ほどのコーヒーが静かに残っている。
俺はそれを一瞥し、さっと本題に入ってしまうことにする。無駄話をする仲でもない。
「動画、見ましたよ」
「そうですか」
「結局送ったんですね、息子さんに」
「ええ。それで、どうでした?」
サンドイッチを手に取って、男は俺を見る。
「合格点はいただけるでしょうか?」
俺は顔を逸らし、コーヒーを一口すする。
「教師になった覚えはないですけど」
上等な豆の香りが、口内を滑る。俺はスマートフォンを弾いて、神酒樋の新しい動画から切り撮ったスクリーンショットを開く。
「倫理的には零点でしょうね」
「それはまあ、そうでしょう」
苦笑を浮かべて、しかし何でもないように、男は画面を指差す。
「でもここの滲みとか、なかなか上手くやれたと思うんですよ」
その指先の横で、神酒樋が神妙な顔をして固まっている。その頬には、大きなガーゼが貼り付けられている。
それは、短い動画だった。ヤバい心霊写真が送られてきた、ひとまず紹介するために急遽動画を撮った、と神酒樋は言った。
「詳細が分かったら改めて動画にしますんでね、皆さんも、何か知ってたらコメントでもDMでも、送ってもらえると助かります」
カメラに向かって手を合わせる神酒樋の空々しさが、俺には哀しかった。画面に大写しにされた写真には、どこかの紅葉を背景に、幼い兄弟と、母親と、霊一人とが写っていた。
「この男、家族の一員みたいな位置に立っていますよね。だけど投稿者の方曰く、これは
そう、神酒樋は言った。
「息子さん、怪我してるみたいでしたけど」
「ああ。次男にでも殴られたんでしょう」
「……なんにも思わないんですか?」
「思わないことにしたんですよ、何も」
男は残りのコーヒーを飲み干し、手帳を開いて、挟まっていた紙きれを俺に差し出す。
「差し上げる約束でしたね」
「……どうも」
受け取ったそれは、神酒樋が紹介したものと同じ写真だった。幼い神酒樋とその弟は、母親が死ぬとも、父親が自分たちを捨てるとも知らず、無邪気に笑っている。つるりとした耳は、しかしこの頃からほんのり赤い。
そして、そんな兄弟の横に、彼らの父親であったはずの男の霊が、呪いと怒りとをむき出しにして立っている。
後でメールでも送りますね、と男が言う。その不釣り合いな軽々しさが鬱陶しかった。
「なかなか思ったようにいきませんでしたが、形にはなりました。待さんのおかげです」
「何もしてないですよ」
またそんな、と男が笑う。笑ったまま、その口で、サンドイッチを囓りとる。
「たしかに、依頼を断られたときにはどうしたものかと思いましたけどね。待さん以外は考えられないと思っていましたし」
「あんな依頼、プロなら絶対受けません」
なるべく淡白に聞こえるよう返事をする。
男から最初に届いたメールには元の家族写真に添えて、ここに写っている自分の顔を潰してほしい、という旨だけが書いてあった。日比谷さんなら、即ゴミ箱に放り込むだろう。俺がそうしなかったのも、その手間を割く気さえ起こらなかっただけだ。
神酒樋が、見覚えのある写真を手に俺を訪ねてきたのは、そのメールから一週間ほどが経った頃のことだった。
「それに、事情を知ってしまえば、ただただ不愉快なだけでしたしね」
「すみません、変なことに巻き込んでしまって」
「……それもですけど」
「私が家族を捨てるのが気に入りませんか」
気付けば、男は真っ直ぐにこちらを見ている。
俺は応えようとして、言葉に詰まり、別に、と聞こえないかもしれないような声で言う。男は黙ったまま、視線を動かさない。
「どうしてなんですか」
耐えかねて、苦しまぎれに訊く。男は最小限に口を動かして応える。
「嫌になったからです」
「でも別に、一緒に暮らしてるわけでもないんでしょう」
「そういう話じゃない」
ぎゅっ、と男が目を瞑る。痛みに耐えるように、強い拒絶を示して。無音が、いつまでも続きそうに、おし流れる。
アンタはずっとこの家にいるのね、と母は言った。
呆れるような口調だった。実際、その頃俺は大学を卒業してもまともな職に就かず、申し訳程度にアルバイトなんかしていて、だからそれ自体は妥当な言われようではあった。
俺がぞっとしたのは、そこに母の願望が混ざっていると分かったからだ。母は、俺が家を出ることを望まなかった。
「長男が生まれた日……」
目を閉じたまま、男は、うなされるように語り出す。
「あの日から、ずっと……家を捨て、あいつらを捨てるまで……私が、父親である以上に私であった瞬間なんて、一秒だって無かった」
そう言って、男はまた黙り込む。
父親の浮気が発覚したとき、母は正気を失って怒り狂った。リビングには毎日悪罵の声が響き、テーブルに置いてあった小物はだいたいが壊れた。両親が揃う時間に家にいるのが嫌で、俺は夜勤シフトに入るようになった。
もう離婚は免れないだろうと思ったけれど、母がそれを拒んだ。愛しているのだと言った。そして、許しもしなかった。発狂こそしなくなっても、何かにつけて父を非難することはやめなかったし、時折思い立ったように深酒してはぽろぽろと涙を溢した。
俺にはそれが、くだらない依存にしか見えなかった。
「長男は、どこかプラプラしたところがありますし、次男は家庭を設けて親になろうと考えている……確かに、物憂いことです。
けれど本当は、そんなことが問題なんじゃない……なんの心配も無い息子たちだったとしても、私は結局こうなっていたと思います」
男が目を開く。そうして、カップを手に取り、それが既に空になっていることに気がついて、またそれを置く。
「待さん。家庭というのはね、社会の、運用のためのシステムです。人間の……人間性のためのものじゃ、ない。こんなこと誰も言ってはくれませんでしたが、そうでしょう?」
窓の外で、子どもの声がする。見ると、親子連れが手を繋いで歩いていて、その頭上ではほとんど透明なクリスマス飾りが、点灯される時を待って、街に巻き付いている。
「何がきっかけとか、そういったことは無いんです。ある日、ふと、家庭人としての喜びや幸せといったものに、何の価値も感じられなくなりました。もう、十何年も前のことです。私には、私本来の幸福が……望みがあったはずだと、取り憑かれるようにそう思って、頭から離れなくなった」
誰かに説明するように、男は語る。それを聞くべき相手など、誰もここにはいなくても。
「けれど、ではその望みとは何か、というと、これが分からない。長く父親でいるうちに、忘却してしまったのだと、私は思った。そう思ったときから、私の望みは、まず、この家庭という呪いから解放されることになった」
「……されてみて、どうなんですか」
口を突いて出た問いに、男は一瞬目を丸くして、それから哀しげに微笑んだ。
「それが、分からないんです。結局私にはもう、何も残っていないのかもしれない……父親であった時間が、本来の私、なんてものをすっかり無くしてしまったのかもしれないと、そう思うと……」
そう、声をふるわせる男に、俺は、父が死んだ後の母の姿を重ねていた。それまで泣き叫んでばかりだった母は、父の死を前に、一切涙を流さなかった。ただ、信じられないような目をして、横たわる父を見ていた。
この人は空っぽになったんだ、と思った。
葬式を終えてすぐ、俺は東京で職を探した。仕事の質も中身もどうだっていい。家を、母のいる家を出られれば、それでよかった。
別に絶縁したわけではない。けれどそれから数年、連絡らしい連絡は一切取っていない。
「……ともあれ、当面の目的は果たせました。ひとまず、スタート地点には来られた。そのために、私は全部リセットしたんですから」
だから本当は、こんなこと言えた立場じゃない――そう思いながら、俺は口を開く。唇がいくつも細かく割れて、沁みる。
「できませんよ、リセットなんて」
暗くなった画面を指で叩いて、スマートフォンを起こす。
「責任ってものがあるでしょう」
「何の責任ですか」
俺は初め、男の依頼を断った。これは、それで終わるはずの話だった。しかし、男は諦めなかった。それなら、と、俺に写真の作り方を教えるよう請うた。
それを撥ねつけなかったのは、俺だ。
俺は、自分自身にこそ言い聞かせる。責任ってものがある。父親からこんな写真が送られてきて、神酒樋は何を思ったのか。
「私は二人に人並み以上の家庭を提供してきました。高校も大学も、塾にも予備校にも通わせた。長男の留年も許したし、奨学金だって借りさせていない」
「立派だと思いますよ」
「二人とも独立して、もう何年も経っている。そうなれるように、ずっと支えてきました。まだ私に、果たしていない責任がありますか」
「でも、あなたが言ったんだ。そういう話じゃないって。果たしたから終わるとか、そういうものじゃないでしょう」
「……待さん、何が言いたいんです」
「本当にわかりませんか」
俺は初めて男と目を合わせて、言う。
「何をしたでもされたでもない子どもを、拒絶なんかできないんですよ」
その目には、今までの語り口が嘘に思えるような、長い年月で染みついた、やさしい相が浮かんでいた。湧きそうになる同情心を、無理やり抑え込む。
「あなたが、二人を家族にしたんだから……」
そう言って、俺は男を、今さらになって突き放す。
死んだ父のことを想う。父――親父は、悪い奴ではなかった。人として見れば気は合うほうだったし、ものの考え方なんかも近しいと感じていた。ただ、家庭を持つのには、明白に向いていなかった。
親父は放蕩で、楽天家で、自由人だった。
恋愛や友情の対象にはなっても、これと共に家庭を持とうなんて、どうしたって考えられない――そういう人間だった。
だから、神酒樋たち兄弟を育て上げた男を立派だと言ったのも、本心からの言葉だった。俺は未だに、毎月奨学金を返済している。
「それは……だと、しても……」
俺は思う。高校を出て、大学へ行く程度の当然さで、人生のステップに結婚があり、家庭を持つことがあった時代――そういう時代が本当にあったなら、父も、母も、いま目の前にいるこの男も、それに翻弄された犠牲者だ。たまたま次世代に生まれてそれを免れただけの俺に、彼らを責める資格なんてない。
そう、わかっているのに、神酒樋の顔の、ガーゼが頭から離れなかった。
やがて、絞り出すように男が言う。
「……耐え、られない」
言葉は、ちぎれるように裏返り、掠れて消える。俺は、もう、何も言えなかった。
どこかにある時計が、等間隔な音を刻む。
スマートフォンが震え、そろそろ戻れ、とメッセージが表示される。日比谷さんからだった。日比谷さんは普段、こんな世話を焼く人ではない。会社を出る俺の様子から何かを察していたのかもしれない。
俺は、千円札を二枚置いて席を立つ。そうして、無言で会釈して、男に背を向けたところで、声がかかった。
「待さん、色々とありがとうございました」
「……俺は、何もしてないです」
「それでも、ありがとうございます……おかげで、今やっと踏ん切りがつきました」
その声に違和感があって、俺は肩越しに振り返る。さっきまで項垂れていた男が、今は顔を上げ、晴れやかな笑みを浮かべている。
「待さん」
「……なんですか」
「七面の霊の矛盾に、気付いていますか」
「……矛盾?」
そうです、と言う男は、しかし俺を見ているのではない。その双眸は、焦点を結んでいないかのように、俺のいるあたりへぼんやりと向けられているだけだった。
男が産んだ、悍ましい悪霊の顔が脳裏をよぎる。
「自分を陥れた兄弟と共謀者六人を喰い殺した霊は、奪った顔を
紅葉の家族写真の
「七人を喰って、七つの顔が浮かぶ……では、霊本人の顔は、どこへ消えたのでしょう」
息をのむ。あなたと同じだ、と男は加える。
それは、呪いの言葉に違いなかった。
「待さん、私はね……顔のない霊にはならない」
削ギ面は、痛ましい霊だった。顔の側面が大きく削がれ、頬から外のすべてが無かった。およそ人間味を喪った、爛れた肌色の三角柱。
目も耳も無いその顔には、鼻と、ゆがんだ口だけが残っていた。
「死んでも……殺されてもです。私を追う息子たちが、やがて私を殺すかもしれない……それは、私の不実に対する、正当な権利だ。
そんなことは……あなたに言われなくても分かっている」
男が立ち上がる。噛みちぎられる予感が、背中を走って身をふるわす。
「好きにしろ。それでも私は、私を奪わせはしない」
耳元でそう言い棄てて、男は俺を通り過ぎる。ドアベルが鳴り、やがて静まる。
立ち尽くす俺の背後で、曇り空の底が抜ける。降りはじめた雨が、強く、強く街を打つ。
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