4-2


 翠母殿の外へ出ると、一瞬陽射しが目をいた。その眩しさが通り過ぎると、背すじを凍らすものが目に入る。


「熊? これが……?」


 太く獰猛どうもうな牙、血に濡れた大きな爪、茶色の荒々しい毛並み。

 それは話に聞いていた熊の姿そのものだった。だが、目の前の獣はあまりにも大きい。翠母殿の屋根を超える、非常識なほどの巨体。


「か、怪異です……なんでこんなところに……」


 腰を抜かして座り込んだ女官が震える声をこぼした。その女官を夏泉が抱き起こそうとしている。よかった、夏泉は無事だ。

 数名の衛士が地に倒れ伏している。痛みにうめいているからまだ命はありそうだ。徳妃は恋人を見つけて背にかばっていた。


 熊は興奮して腕を振り回している。それを衛士と殿下が取り囲み、なんとか撃退しようと苦戦していた。温侍中も剣を握り包囲に加わっている。


 ――怪異。それは長い年月を生きてあやかしと化した獣の総称だ。


 大黄帝国が神獣と崇める黄竜こうりゅうのように、人を超える智慧ちえを獲得する者もいるが、目の前の熊は巨大化し獰猛さを増しただけの低級の怪異のようだった。


 最初に見た時こそきもが冷えたが、落ち着いて観察してみればなんてことはない、ただの巨大な獣だ。

 だからこそ、迷ってしまう。


「どうしよう……」


 ――私の力なら確実に仕留められる。だけど。


 思わず意見を求めて夏泉を見ると、彼女は厳しく首を横に振った。


 ――そうだ、戦ったらバレてしまう。


 私は、『普通』の妃になって平穏に暮らすためにこの国にきたのだ。


 ――化け物だと知られたくない。


 私は熊に背を向けた。夏泉を手伝って女官を抱き起こす。熊が暴れるこの場から、せめて少しでも多くの人たちを逃がす手伝いをしよう。


 ――きっと大丈夫、熊は殿下たちがなんとかしてくれる。


 そう信じて、人命救助に専念することにした。


 星狼殿下の剣の腕は確かだった。私が相手をしたことのある帝国禁軍にも、これほどの使い手は何人もいない。間違いなく、本物の剣豪だ。


 熊の大振りの攻撃をすり抜け、殿下はそのふところに入り込む。


「くらえ……!」


 気迫のこもった一撃が熊の脚を貫いた。


「ぐおああぁぁ」


 熊がうめく。だが、その動きを止めるまでには至らなかった。

 痛みに我を忘れた熊は、やぶれかぶれに暴れ出した。殿下は咄嗟とっさに地を転がってかわしたが、幾人かの衛士が蹴散らされてしまう。


「まずいっ!」


 殿下が叫ぶ。

 熊は包囲が緩んだ方向――翠母殿へと突進した。


 ――賢妃たちは!?


 振り返った翠母殿の屋根の下に、私は一つの影を認めた。


「きゃああ!!」


 影が悲鳴を上げた。淑妃だ。なんということ、彼女は制止を振り切って飛び出してきてしまったらしい。


 躊躇ちゅうちょする間は一瞬たりとなかった。

 淑妃のもとへと四つ脚で突進する熊。その巨木のような脚に――、

 私は飛びかかった。


「……くっ!」


 熊の脚にしがみつき、全精力を振り絞って地面を踏ん張ると、熊はつんのめるようにして前方に倒れた。

 やはり手に負えない相手じゃない。


「さぁ、こっちよ!」


 私は熊を挑発した。言葉が通じたわけではないのだろうけれど、熊は起き上がって振り返り、血走った目で私を睨んだ。


「桃英様っ! 一体何を!!」


 背後で殿下の絶叫が聞こえた。

 胸がじくりと痛む。


『この国では俺があなたを守ります』


 殿下は私にそう言ってくれた。


 ――もう、そんな優しい言葉をかけてくれることは二度とないんだろうな。


 熊が猛烈もうれつな勢いで突進してくる。


 ――でも、しようがない。人の命には変えられないもの。


 熊の大きく振りかざした右腕が、私に振り下ろされる。


「桃英様っ!」

「いやぁぁぁ!」


 殿下と淑妃の絶叫。

 それを聞きながら、私はするりと熊の腕をかわした。


「え?」


 頓狂とんきょうな殿下の声。

 私は身をひるがえし、熊の腕をつかんだ。


「えいっ!」


 突進してきた熊自身の勢いを利用して、熊を投げ飛ばす。

 どおおおおん。

 地響きを立て、熊が背中から地面に落ちた。強かに背を打った熊は、ぐぇぇと呻いて静かになる。


「ふぅ」


 乱れた息を整えた。あれだけの強さで叩きつけたのだ、もう安心だろう――と思ったのだけれど。


「くっ!」


 油断して一瞬気を緩めた私を、熊の爪が襲った。起き上がり様に肉を深くえぐられ、私の腕から血がどくどくと流れる。


 ――まずい。


 熊に裂かれた腕は右腕。利き腕だ。

 熊は二本足で立ち上がり、巨体にまかせて私を見下ろしている。


 ――さすがにこれは……死ぬ!


 そう覚悟した瞬間。


「くたばれ――!」


 熊の巨体のさらに上。剣を構えた殿下が、気迫のこもった声とともに舞い降りるように現れた。

 熊が私に気を取られているうちに、殿下は熊の背後から近づき、その背を駆け上り跳躍ちょうやくしたのだ。

 殿下の一撃が、熊の脳天を貫く。


「ぐがぁぁああ」


 熊は断末魔の叫びとともに倒れ、大量の血を流して今度こそ絶命した。


「よ、よかった……」


 安堵あんどすると、腕の痛みがより激しく感じられた。ダラダラと血が流れ続けている。このままでは失血死してしまう。

 痛みを堪えながら腕に意識を集中した。元来の治癒力が発揮され、血が止まる。


 胸を撫で下ろした私の耳に、


「……ば、化け物」


 怯えた声が飛び込んできた。ハッと顔をあげる。衛士や女官が震えながら私を遠巻きにしていた。


「なんだ、あの怪力……?」

「あ、あんなに深かった傷が、もう塞がってる」


 ひそひそと囁く声が私の鼓膜を揺さぶる。


 ――あぁ、ついにやってしまった。


 血の気がひいた。ふっと足から力が抜け、目の前が突然暗くなる。


「桃英様っ!」


 誰かが私の名を叫んだ。

 それを遠くに聞きながら――私は意識を失った。

 

 * * *


 闇の中で、小さな肩が震えている。

 亡くなったはずの母様だった。華奢な体を抱いて崩れるように泣いている。


 これは夢だ、と頭の片隅で気づいていた。

 母様がいるはずがない。彼女は毒殺されたのだから。


 でも、叫ばずにはいられない。


『母様、ごめんなさい!』


 母様の涙を拭いたかった。震える肩を抱きたかった。

 なのに、体が動かない。声すら母様には届いていないようだった。


『母様、約束を破ってごめんなさい!』


 それでも必死に喉を震わせた。


『普通でいられなくてごめんなさい! 母様の言うとおりにできなくて……ごめんなさいっ!』


 * * *

 

 目を覚まして最初に飛び込んできたのは、見慣れた夏泉の顔だった。


「桃英様、大丈夫ですか? うなされていらっしゃいましたよ」


 私は見知らぬ寝台に寝かされていた。視線をさまよわせると、夏泉がためらいがちに口を開いた。


「ここは淑妃のご実家、史家の別宅です。桃英様の手当てのためお借りしています」

「手当て……」


 体を起こそうとすると右手がずきりと痛んだ。それで私は思い出す。

 隠し通すと母様と約束した力を、使ってしまったのだ。淑妃や徳妃、そして殿下が見ている前で。


「……ごめん、夏泉」


 喉が詰まった。


「なんで謝るんですか。喉がかすれていらっしゃいますよ、白湯さゆをどうぞ」


 助けを借りながら半身だけ起こし湯呑みを受け取った。しっかり寝たおかげか体力は回復しているようだった。熊に裂かれた腕も、私の治癒力を持ってすればまもなく治るだろう。


「ごめんね、せっかく夏泉が翠山国までついてきてくれたのに。私、失敗しちゃった。きっと翠山を追い出されるわ」

「別にいいですよ。追い出されたら、次はもっと良い場所を探しましょう」


 夏泉は優しい。だからこそ夏泉に私の世話ばかりさせていられない。彼女にも彼女自身の人生があるのだ。


「あの」


 寝房の外から微かな声が聞こえた。翠山の侍女が怯えて震えながら告げる。


「王太子殿下が、公主様のお見舞いに訪れております」

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