第4章 光に満ちた場所

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 初めて訪れた祀廟しびょうの美しさに、私は感嘆の声を漏らした。


「なんて清らかな場所」

「空気が澄んでいますわね」


 隣で賢妃も晴々とした表情だ。

 私たちは臘日ろうじつ祭の礼典のために、都の外れの祀廟を訪れていた。


 山麓さんろくに位置するこの廟は、広々とした庭園内の中心に主殿である翠母すいぼ殿をえ、周囲に献殿や楼閣ろうかくを有している。建屋の間を巡る小川は山の湧水を源流とし、その清流を魚が悠々と泳いでいた。


 一年の豊作に感謝する臘日祭は、民にとっても朝廷にとっても重要なお祭りだ。一年の最後の月である臘月ろうげつの八日に行われることから臘八節ろうはちせつとも呼ばれる。


 大黄帝国では帝室の祖先である仙人をまつるのだが、翠山では翠母と呼ばれる女神に祈りを捧げるらしい。翠母はこの国を創り育んだ女神なのだと、道中の馬車の中で賢妃が教えてくれた。


「賢妃、翠母殿が見えて参りました」


 小川に渡された橋の向こうにひときわ長い歳月を感じさせる殿舎があって、それが翠母殿だった。威儀を正した儀仗ぎじょう兵が周囲に並び、正装の女官が忙しく礼典の準備をしている。吐く息の白くなる季節だが、寒々しさとは無縁の華やかさだった。


「お待ちしておりました、公主様、温賢妃」


 橋を渡り切ると、すでに到着していた星狼殿下に迎えられた。両隣に史淑妃と、劉徳妃が控えていて、みな礼典にふさわしい正服に身を包んでいる。


 殿下は藍の深衣しんいに宝刀をき、首元に銀白の毛皮を巻いていた。美しい銀の髪を結って小冠を戴き、秀でたひたいも華やかな面立ちも惜しげなくさらしている。

 加えて、両隣に同じく神々しいばかりの妃が控えているものだから、視界がまばゆいばかりだ。


 史淑妃がおずおずと一歩進み出た。


「公主様、先日の茶会では大変な失礼を……本当に申し訳ございませんでした」


 睫毛まつげを伏せて恥じらう淑妃は、今日も芸術品のような美しさだった。


「いえ、こちらこそ何か不心得ふこころえがあったのではないかと心配していたのです。元気なお姿を拝見できて安心いたしました」


 茶会で涙をこぼして辞去してから、彼女は自殿にこもっていた。嫌われたのかと案じていたのでホッとした。

 殿下が親しげに淑妃に微笑みかける。


「だから言ったでしょう、桃英様はお気になさっていないと」

「はい、殿下のおっしゃる通りでございました」


 頷いた淑妃に向ける殿下の眼差しは優しい。

 無骨な礼をして徳妃も会話の輪に加わった。彼女は今日も男装だ。


「殿下、わたくし、温賢妃とは初めてお目にかかりました。ご紹介賜れますでしょうか」

「これは失礼した。温賢妃、こちらは徳妃の劉涼だ」

「初めまして、温家の小梟しょうきょうと申します」


 徳妃と賢妃は握手を交わした。


「温賢妃は、そこに控えている侍中の温漣伊れんい従姉いとこにあたる」


 温侍中が拱手し、劉徳妃も彼に一礼した。星狼殿下が言い添える。


「劉徳妃の兄は翠山国軍の劉ぎょう将軍だ。軍内随一の剣の使い手だよ。今日は翠天宮に残って、ここには来ていないが」


おそれ多いご紹介です。殿下の腕には叶わぬと、兄はいつも悔しがっております」


 元々は婚約者だったという徳妃と星狼殿下の会話に、わだかまりは感じられなかった。昔からの友人だと言われても納得してしまいそうだ。

 妃付きの女官も主殿の傍に控えており、夏泉らとともに徳妃の恋人も並んでいる。桂鈴という名の彼女は、熱い眼差しで徳妃を見つめていた。


 星狼殿下は、二人の恋心を知った上で徳妃を後宮に迎えたのだという。

 どのような考えがあってのことなのだろう。殿下本人に尋ねてみたかったが、大黄帝国の使節団の来訪のせいでままならなかった。しかもその使節団は皇帝名代をかたっていたというから、迷惑……というか不敬極まりない。今はひとまず翠山の牢に放りこまれて、帝国による処分を待っているらしい。


「殿下、そろそろ始めましょう」


 小柄な老人が口を挟んだ。


「公主様、そして夫人の皆様方、遥々お越しいただき痛み入ります。私は宰相職を賜っております、ちん安江あんこうでございます。本来、臘日祭の礼典は国王様がり仕切るもの。ですがご存知の通り我らが王はいささかお体の具合が優れませぬ。そこで王太子殿下と、その妃の皆様方に国王の代理として礼典を行っていただきます」


 殿下は妃たちを見渡した。


「わざわざ足を運んでもらいすまないが、臘日祭は翠山国にとって極めて重要な祭儀。あなた方にもぜひ大地の実りへの感謝と、来たる新年の豊穣ほうじょうを祈ってほしい」

「では、参りましょう――どうも西から嫌な雲が近づいております。雨に濡れる前に終えられた方がよろしいでしょう」


 陳宰相の言葉に皆が目線を上げた。気持ちのいい冬晴れだと思っていたが、西の空には黒々とした雲が迫っていた。


 *


 主殿には翠母の塑像そぞうまつられていた。

 木彫りの塑像はやや色せて、豊かな年月を感じさせてくれる。翠緑すいりょくに彩られた鮮やかな髪と、瞼を伏せたご尊顔が神秘的だった。


 翠母像の前で道士の祈祷きとうを聴き、宰相の指示通りに供物くもつを差し出す。


 事前に聞いていた通り、儀式自体は簡素なものだった。だが、殿下とほかの妃たちの真剣な眼差しが、この祭儀の重要性を物語っていた。


「来年も飢饉ききんが起こりませぬように……」


 隣席で賢妃がこぼした切実な祈りの言葉が、私の耳に強く残った。

 

 *


 それは、ちょうど私が翠母に供物を捧げようと立ち上がった時に起こった。


「う、うわぁ!」

「きゃあああ!」


 翠母殿の外で悲鳴と絶叫が入り混じる。

 何かとんでもないことが起こっている。直感的にそれがわかった。

 私は全神経を聴力に集中させた。衛士や女官の叫びに混じるこの息遣いは――獣だ。しかも、かなり巨大な。


「く、熊です!!」


 衛士が叫び、翠母殿に飛び込んできた。その背後に逃げ惑う女官たちが見える。


「妃たちを退避させよ!」


 殿下はそう指示し、自ら翠母殿の外に駆け出した。


「星狼殿下っ!?」


 私は愕然がくぜんとした。

 殿下はこの国の王太子だ。この場で一番守られるべき方なのに、自ら危険に向かっていくなんて。

 さらに私を驚愕きょうがくさせたのは、淑妃が殿下に追いすがろうとしたことだった。


「星狼様、いけませんっ!」


 殿下を追って飛び出そうとする淑妃を、私が捕まえる。


「だめです、淑妃! はやく逃げましょう!」


 熊は危険だ。刀ですら簡単には突き通せないと聞いている。


「ここは衛士に任せましょう、さぁ」


 避難を促しても淑妃は殿下の元へと手を伸ばす。彼女の顔面は蒼白で、ほとんど我を失っているように見えた。


「いえ、いけません! はやく行かないと星狼様まで己を犠牲にしてしまう!」


 必死に暴れる彼女を取り押さえながら、淑妃の言葉に微かな違和感を抱いた。星狼殿下まで、とはどういうことだろう。

 けれど、考え事をする余裕はなかった。私の横を、徳妃が駆けて行ったのだ。


「桂鈴っ!」


 なんということ、殿下だけでなく徳妃まで危険に突っ込んでいく。


「淑妃と賢妃をお守りして!」


 私は淑妃を取り押さえる役を女官に任せ、殿下と徳妃の後を追った。

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