3-5


 目が覚めると、星狼殿下は既に出かけた後だった。

 朝廷の政務は夜明けとともに始まるから、宮城で働く者の朝は早い。

 昨晩はずいぶんと長く話しこんでしまった。殿下は寝不足で辛くはないだろうか。


「よくお眠りになっていましたね」


 いつも通り夏泉が淡々と身支度を手伝ってくれた。

 支度を終えると夏泉だけを伴って早朝の散歩に出た。すでに季節は冬に差し掛かっている。殿下がくださった毛皮のほうが温かく、有り難い。


 百花殿から少し西へ進むと竹林が見えてくる。岩が転がり下生えが茂る、ほとんど人の手が入っていない場所だ。


「……ここがちょうどいいわね」


 私は袍を脱ぎ、夏泉に預けた。


 「どうされました?」と顔をのぞきこんでくる夏泉に、少し離れていてほしいと伝える。なんとなく察したような顔の彼女を置いて竹林に踏みこんだ。

 手頃な岩の目の前で止まる。ちょっとした小屋くらいの大きさがある岩だ。


「ふぅ」


 私は軽く腰を落とした。息を整え、精神を集中する。

 そして、


「……せぇの!」 


 握った拳を岩へと叩きこんだ。


 どぉぉぉん――!

 地響きみたいな音をあげ、岩がくだけ散った。


「おぉ、お見事です。お力はご健在ですね」


 夏泉がパチパチと手を叩いて、戻ってきた私の肩に袍をかけてくれた。

 自分が砕いた岩を眺める。

 黙り込んだ私に「どうされました?」と夏泉が問いかけるけど、それには答えずただ首を振った。


 ――この国では、俺があなたを守ります。


 昨晩の殿下の声が、体の内側にぬくもりとなって残っている。

 守りたい、なんてこれまで誰かに言われたことはなかった。自分の命がそんなに大切なものだと考えたことすらなかった。


 自分の両手を見る。岩を素手で粉砕ふんさいした割に、傷一つ残っていない。生来の治癒力のなせる技だ。


 私は熹李を守るため、この力を行使してきた。暗殺犯の刃から彼を守り、時には彼を抱えて逃げ、必要とあれば反撃もした。

 『化け物公主』と蔑まれるような力を持つ私に、本当は殿下の守護など必要ない。


「あのさ夏泉、私、この国ではなんとしてもこの力を隠して生きていきたいな」

「……? ええ、以前からそう決意されてますよね?」

「うん。改めて気をつけようと思って」


 守ってもらわなくてもいい。

 でも、私を守りたいと言ってくれた殿下の心だけは、失いたくない。そう強く願う自分がいた。


 * * *


 私は劉徳妃の風光殿を訪ねて山を登った。昨日の茶会を欠席した徳妃に、用意してあった甜味おかしを届けに行くためだ。

 風光殿は後宮の最奥にひっそりと存在する、森の中の隠れ家のようなやしきだった。


「桃英様、いいのですか? 徳妃の御了承をいただかずにお訪ねして」

「お怒りになるかもしれないわね。でもこの国の人々って突然訪ねてくることが多いし、私もそれにならおうと思って。そうでもしないと徳妃とは絶対に仲良くなれそうにないもの」


 接点を作らねば友情は育めない。どうせ嫌われているのだし、今より状況が悪化することはないだろう、と楽観的に考えてみた。


 門前に詰めている者はいなかった。奥まった邸だからと油断して警護をおろそかにしているのだろうか。門の中をのぞきこんでも人の気配を感じない。

 それをいいことに、私は風光殿の中庭に足を踏み入れた。


 夏泉のほかに二名の侍女を伴ってきたので、彼女たちに取り次ぎを任せ、ここで待つことにした。さすがに殿舎の中までは許しもなく立ち入るわけにはいかない。


 中庭では、冬枯れの木々の合間に真っ赤な椿がいくつも花をつけていた。冬の庭は寂しくなりがちなものだが、よく手入れがされてあちこちに見所がある。


「あのあたりは蝋梅ろうばいが咲いているわね」


 蝋梅は、黄色い花弁が透き通って美しい、冬の冷たい大地に光を投げかけるような花だ。その光に誘われて、私は庭の奥へと進んだ。

 そこで、思わぬ声を聞き取った。


「んっ……」


 びくっと肩が跳ねた。私の体はそのままの状態で硬直する。

 つやっぽい声だ――しかもそんな声が二つ絡み合っている。男女の間柄あいだがらで、夜に、主にとばりの中で発せられるような……。


 二つの声のどちらも私の耳になじんだ声ではない。つまり星狼殿下ではなかった。

 百歩譲って星狼殿下ならば昼間から妃や女官と睦み合っていても許されるだろう。でも、後宮で彼以外の男が妃をたぶらかしているのだとしたら、極刑に値するほどの罪だ。


 蝋梅の花に隠された先に、小さな池があった。そのほとりで、恍惚こうこつと見つめ合い接吻せっぷんをする男女――。


 いや、男女ではない。


 それは女官と――男装の劉徳妃だった。 

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