3-3


 とばりをかき分けて寝台に上がると、星狼殿下が先に身を横たえていた。


「お……お待たせいたしました」


 いえ、と彼が苦笑する気配がする。


「さぁ桃英様、どうぞこちらへ」


 大らかな声で彼が私を招く。

 乏しい灯りの中では彼の表情はうかがい知れないが、声の調子から普段通り余裕たっぷりの星狼殿下の顔が目に浮かんだ。


 対する私は緊張で体がガチガチに固まっている。


 ――私、これから本当にこの方と一晩を共にするの……?


 帝国から降嫁した身だ。帝国朝廷は私が王太子である星狼殿下と子をなすことを期待している。

 兄の熹李だって、そのつもりで私を送り出してくれたのだ。


 ――しっかりしなきゃ、ちゃんとお役目を果たさねば。


 固まった体に鞭を打って、なんとか彼のそばまで膝行しっこうする。すると、彼の手がぐいと私の体を引き寄せた。


「捕まえましたよ、桃英様」


 彼の腕の中にすっかりおさまった私の耳もとで、彼がそう囁いた。

 甘い声だった。私の腰に回る彼の腕の力も決して強引ではなく、慈しむように優しい。


 自分でも意外なことに、彼に触れられるのは嫌ではなかった。ほんの少し前まで軽蔑すらしていた相手なのに。


 出会った時とは彼に抱く思いが変わっていたのだと、今さらながら気づいてしまった。

 

 それでも、どういうわけか体の硬直は解けなかった。


 ――こんなことではいけないわ。ちゃんとお役目を……。


 果たさなければ、ともう一度自分に言い聞かせる。


 ――彼は嫌な方ではない。そもそも私たちは夫婦なのだから。これは政略結婚なのだから。


「桃英様」


 不意に星狼殿下が私を腕の中から解放した。そして私から少しだけ距離をとって苦笑する。


「ご無理なさっていますね」

「べ、別にそんなことは……!」


 咄嗟とっさに否定してしまったが、星狼殿下の言う通りだ。結局また彼に何もかも見透かされている。


「大丈夫ですよ、ご許可をいただかない限りはこれ以上あなたには触れません。お預けをくらうのは残念ですけどね」


 からかうようにそう言われて、顔が赤面するのが分かった。残念って……ど、どういうこと?

 

「あの、申し訳ございません……わたくし、後宮の妃なのに……」

「そんなことお気になさらず」

「でも……本当はこんなことじゃいけないのに」


 殿下は苦笑した。


「では、よろしければ今宵は桃英様のお話をお聞かせくださいませんか?」

「わたくしの話、ですか?」


 思わぬ提案に、私は目を丸くした。


「はい、あなた自身の言葉で語っていただきたいのです。あなたは俺が想像していた帝国の公主様とはどうも違った方のようなので」

「え、えぇ」


 それはそうだろう。私のような『普通』ではない公主、他にはいないのだから。


「まずは桃英様の幼い頃の話を聞かせてください。なぜ自ら厨房にお立ちになるのか、とか」

「でも、私の話などお耳汚しになるだけではないかと……」


 ここでは化け物とののしられたくない。話すといっても私の力については伏せることになるし、正直楽しい過去でもないので、話すことに躊躇ちゅうちょした。


「そんなことありません。俺はあなたのことならなんでも知りたいのです」 

「!?」


 なんて殺し文句だ。先ほどから彼が甘い言葉ばかり口にするせいで、どうにも調子が乱される。


 でも改めて考えてみれば、彼は妃として不十分な私のために、この長い夜の過ごし方を提案してくれたのだ。応じないわけにはいかなかった。


 分かりましたと頷いて、私は昔語りを始めた。


「では、まずは母様が毒殺された話を」


 一瞬、殿下が息を呑んだような気がしたけれど、私はそのまま話を進めた。


 *


 母様が何者かに毒殺されたのは、私たちが十三歳になった冬のことだった。

 その頃、毒見役が買収されていることは明らかで、私たち母子おやこは己の身は己で守るしかなかった。食事はなるべく自分たちで作るようにしていた。私が初めて厨房に立ったのはこの時だ。


 差し入れや宴の料理などをどうしても口にしなければならない時は、なるべく私が最初に食べるようにしていた。頑丈な私なら、そう簡単には死なないから。


 私が毒見役を買って出たことを母様は不憫ふびんに思ってくれた。あなたばかり苦しむのはおかしいわ、と自ら最初の一口に手をつけることもあった。


 それで亡くなってしまったのだ。


 私があのスープを先に飲んでいればよかった。そうしたら母様は死ななくて済んだのに……。


 だが、悲嘆と後悔にひたる暇はなかった。

 今度は熹李が殺される、と私は震えた。皇帝には男児が五人いて、それぞれの母妃とその実家同士が熾烈しれつな皇位継承争いを繰り広げていたからだ。

 母が亡くなった後、皇子おうじの一人が不審死を遂げ、私の恐怖は現実味を帯びた。


 私たち双子は命からがら後宮を逃げ出し、母様の実家に身を寄せた。しかしそこも焼かれ、身一つで市井しせいに潜むことになった。


 熹李を支持する少数の官吏かんりの助けを得て荒屋あばらやだけは手にすることができた。風雨をしのげる場所があったのは本当に幸運だったけれど、それ以外には何もなかった。


 飢えと凍えと、熹李暗殺を画策する後宮からの追っ手。そういったものと戦いながら、私は三年の時を熹李と、逃亡後に合流した夏泉とともに民に紛れて過ごしたのだった。

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