3-2


 厨房でお皿を片付けながら、私は重たいため息をついた。


「私、何を間違えたのかしら」

「淑妃もあの時までは楽しそうにされていましたけどね」


 お皿を洗う夏泉の声も沈んでいる。

 淑妃の胃袋をつかむ作戦は、ほとんど成功していた。


 ところが最後の荷花酥フーホワスーを目にした途端、彼女は泣き出してしまった。声を殺し、目の前の蓮の花を見つめながら。

 侍女たちが抱きかかえるようにして淑妃を退出させ、なんとも気まずい空気のまま散会となったのである。


「私の作った甜味おかしで、悲しい思いをさせてしまうなんて……」


 荷花酥フーホワスーは私の一番の自信作だ。

 一目で誰をもうっとりさせる、茶会の最後を飾るのにふさわしい一品だったのに……それがなぜ淑妃を泣かせたのだろう。


 ――しかも、あんな悲痛な顔。


 これでは淑妃と仲良くなるどころではない。星狼殿下もやしきに下がる淑妃に付き添い、行ってしまった。


「涙の理由は分からないけれど……主催した茶会がこんなことになって、星狼殿下は私にお怒りかもしれないわね」

「なぜ俺が怒るのです?」


 ぼやいた言葉に返答があって、しかもそれが星狼殿下本人のものだったので、私は悲鳴とともに飛び退すさった。


「な、なぜ殿下がここに!? いえ、もうっ、とにかくいらっしゃる際には事前にご連絡をくださいませ!」

「不意打ちのおかげで前回は桃英様の素敵なお姿を拝見できたので、今回も同様にやって参りました」


 にこりと微笑む彼は、嫌味っぽいのに貴公子然として麗しい。対してこちらは素っぴんで襤褸ぼろ姿。寵愛を求めているわけではないとはいえ、さすがに気後れする。


「手伝いましょう。高いところの物は任せてください」


 彼は私から皿を取り上げた。私が踏み台に乗ってようやく届く一番上の棚に、難なく収めてくれる。


「王太子殿下にこのようなことさせられません」

「あなただって帝国の公主様でありながら働いている。人のことは言えないでしょう?」

「そうですけれど……でも私は体を動かしている方が気が楽なのです。それでわざわざ宮女たちから仕事を奪ったくらいで」

「奇遇ですね。俺も体を動かすのが好きなのです」


 実際、長身の彼が手伝ってくれたおかげで片付けは早く済んだ。


 *

 

「せっかく洗い終わった後に申し訳ない」


 ゆったりと長椅子に腰掛けながら、星狼殿下は茶を注ぐ夏泉に謝意を示した。私たち二人がゆっくりと向き合う頃には既に日が暮れ始めていた。

 彼は微笑んで話し出す。


「散会の際にご挨拶ができなかったので、桃英様に本日のお礼を申し上げに参りました。今日の茶会は本当に良い時間でした。妃たちと話も弾み、楽しかった」

「わざわざありがとうございます。以前お話しした通り、妃の皆様と仲良くなるためでしたから。けれど史淑妃は、その……」


 彼は首を振った。


「桃英様に責任はない。淑妃のことは気になさらない方が良い」

「ですが」


 言いつのる私を制して、彼はどこか切なげな眼差しを見せる。


紫薇しび――淑妃はああやって人前で泣いた方がいいのですよ。むしろもっと取り乱した方が良かったくらいだ」


 彼の瞳は私ではない誰かを、それも遠くにいる誰かを見つめているようだった。


「桃英様がおっしゃった通り、あの見事な蓮の花の菓子は、彼女の心をほどいて自由にしてくれたのでしょう……」


 言葉の真意がつかめず説明を待ったが、彼はこれ以上この話を続けるつもりはないようだ。


「俺はあの銀耳湯インアルタンというのが特に好きでしたね。とびきり甘いけれど、山楂さんざしの甘酸っぱさが癖になる感じで。ぜひまた作ってくださいませんか」

「まぁ、もちろんです!」


 自分の作ったものを「また食べたい」と言ってもらえる。作り手としてこれほど嬉しいことはない。淑妃のことで気落ちしていたけれど、その言葉で疲れが吹き飛んでいく心地がした。


 彼は丁寧に今日の感想を聞かせてくれた。作り方や材料を問われて答えると、またそこから話題が広がる。

 そうやって会話が続いて、気づけば侍女たちが房内のあかりをつけて回る刻限になっていた。意外にも星狼殿下は話上手なようだ。私もすっかり時間を忘れていた。


 そこで、はたと私は気づいた。


(妃として、ここで星狼殿下を引き留め、しとねに招くべきなのでは?)


 彼の寵愛は求めないにしても、この後宮で王后の位に上り詰めるためには閨事ねやごとは避けては通れない。これまで夜のお渡りはなかったけれど、今日こそ……。


 そう決意して、星狼殿下の顔を見る。


 でも、言葉が喉につかえて出てこなかった。

 今宵は我が邸でお休みになりませんか? と言えばいいだけなのに、声が出ない。


 どうしてだろう。形ばかりの夫婦だと割り切っているし、妃としての務めも理解しているのに。


 意図せず黙ったまま殿下を見つめることになってしまった。

 彼は、どこか意地悪な瞳で私を観察し、首を傾げた。


「随分長居してしまいましたね。桃英様は、俺に泊まっていけと言ってくださらないのですか? 寂しいなぁ」

「……っ!?」


 なんてことだろう。まるであたふたと考え込んでいたのを見透かされていたみたいだ。恥ずかしさで、顔が信じられないくらい熱い。

 一方、私が言い出せなかった言葉を簡単に口にした星狼殿下は、ゆったりと椅子に背を預けて、余裕の表情だ。


(これでは星狼殿下の手のひらで転がされてるみたいじゃない!)


 悔しさを紛らわそうと、私は勢いよく言い放った。


「あら、これは大変失礼いたしました! 急いで寝所をしつらえさせますわ」

「おや、よろしいのですか? 無理せずともいいのですよ」

「む、無理などしておりません! わたくしは後宮の妃でございますから」


 胸を張った私に、彼は片眉をあげた。

 

「では、わたくし、夜着に着替えて参りますので」


 忙しなく準備を始めた侍女たちを横目に、私は澄ました顔で退室した。

 でも本当は心臓がバクバクと音を立てている。


 ――ど、どうしよう! 本当に殿下と一晩を過ごすことになってしまったじゃない!


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