2-7
彼は背を伸ばして私を見つめた。
「普通の尊さ、とは?」
「『普通』の暮らし――安穏とした、不安のない暮らしを維持することがどれほど難しいことか、殿下こそご存知ないのでは。『普通』を守るためなら、わたくしはいくらでも汗を流します」
見つめ合ったまま、彼は黙りこんでしまった。しばらくして、彼は慎重に口を開く。
「桃英様は、願うものが誰かから与えられる、とは思っていないのですね」
「……? 当然です、だってそういうものでしょう? 美味しい
「大黄帝国の公主様ともなれば、幼い頃から欲しいものを飽きるほど与えられたのでは?」
「そういう時期も、あったようです」
まだ母様が皇帝の寵愛を得ていた頃は、美しい衣もめずらしい食べ物もいくらだって与えられていたらしい。
けれど、私の記憶にあるのはみすぼらしい暮らしだけだ。
後宮から逃れ街に逃げ込んだ後、運良く甜味のお店に拾われたことで、私は働いて対価を得るという喜びを知った。
自分で汗を流してこねた団子がどれほど美味しいか、自分で稼いだお金で買った
「与えられただけのものなど、まやかしにすぎません。自分の手でつかんだものこそ、本物だと思うのです」
「……」
朝日が
「でも、殿下からいただいた毛皮の
ふっと彼は力を抜いたように笑った。
「袍はまやかしではございませんでしたか?」
「はい、幸運にも」
彼は立ち上がり、斧の
「座ってただ眺めているのは性に合わない。俺も汗を流しましょう」
ぎこちない笑顔と言葉だった。見上げる彼の銀の瞳が、朝陽を受けてさざめくように輝いている。彼の名に冠された星のように。
その
「あの……いえ、もう薪割りは十分なので……!」
不意のことに驚いて、私は彼から離れた。どうにも顔が熱い。その態度が不自然にならないように、とっさに斧を壁に立てかける。
「それより星狼殿下、ほかにお手伝いいただきたいことがあるのです。ねぇ、夏泉ー!」
いまだに体の中を巡っている謎の音に戸惑って、私は必要以上に大きな声をあげて夏泉を呼んだ。
「殿下に昨日焼いた
承知しました、と夏泉がすぐに数枚の桃酥をお茶と共に準備してくれた。宮女たちが気を利かせて机と椅子を運んでくれる。
桃酥は小麦粉をこねて薄く伸ばして焼いた
「試食ですか?」
「はい。翠山の方のお口に合うか知りたくて」
彼は机に並んだ桃酥を見つめている。
「桃英様はそもそも何のために甜味を大量に作っていらっしゃるのですか? 『普通の暮らし』にどのような関係が?」
それは星狼殿下にも関係してくることだ。準備が整ってから説明しようと考えていたが、今話してしまえるなら都合がいい。
「笑わないで聞いていただけますか? わたくし、この後宮の妃の皆様と、ご友人になりたいのです」
「……友人?」
「わたくしの故郷の後宮は……はっきりと申し上げて恐ろしい場所でございました。皇帝陛下の寵愛を奪い合い、男児が生まれれば我が子のために王太子の位を奪い合い――それは文字通りの殺し合いでございます」
はい、と殿下はやけに折目正しい
「この国の後宮をそんな場所にしたくないのです。命の取り合いの場ではなく、『普通』の生活ができる場にしたい。そのために、わたくしは妃の皆様と真心からの親愛の情で結ばれたい」
「……なるほど」
「美味しい甜味には、凍りついた人の心をも溶かす力がございます。また人と人とを結ぶ力も。そう信じておりますので、妃の皆様と甜味を囲んで談笑する機会をもうけようと計画しているのです」
桃酥を一枚半分に割った。片方を自分の皿に、もう一方を殿下に差し出す。毒見がいないと不安だろうと思い、先に私がかじってみせた。すぐにさくりと
「というわけで、真に美味しい甜味を作る必要がございます。味見をして
生真面目な顔で聞いていた彼が、不意にうつむいた。
「で、殿下?」
気分を害したのかと慌てて顔をのぞきこんだら、彼はくっくっと笑いを
これは私が笑われている?
「ひどい、笑わないでくださいと申し上げたのに」
「申し訳ない……決して馬鹿にしているわけではないのです。いや、ダメだ、ははは」
堪えるのもやめて彼は天を
「桃英様は俺の予想の斜め上――しかも上の上の方をついてくるなぁ」
彼は指で涙を
何も涙が出るほど笑わなくてもいいじゃない。こっちは本気なのに。
でも。
――星狼殿下は、このようにお腹の底から笑うことができる方なんだ。
そのことに思い至ると、また胸がとくとくと奇妙な音を奏で始めた。
私や熹李を
星狼殿下は宝玉でも扱うような
「美味しい」
その率直な一言を挟んで、また一口。あっという間に全て食べ切った。
「甘い。しかも噛むほどにさらに甘くなるのですね」
「他もぜひ。こちらは
勧められるままに彼は全部口にしてくれた。
最後の一枚を手にする頃には、殿下の表情はすっかりくつろいでいた。
「美味しいものが人の心を溶かすというのは、真実かもしれませんね」
彼は手の中の最後の一枚をじっと見つめる。その眼差しに、思いも寄らぬ熱がこもっていて、しかもそれがどこか切なそうに見えて、私はぎゅっと胸をつかまれた。
彼はこぼすように呟いた。
「これほど美味しいものを、誰もが腹一杯食べられる国にしたいな」
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