2-6


 温賢妃はさじを握ったまま感嘆の声を上げた。


「お、美味しい……!」


 率直な一言の後、彼女はすぐに次の一匙へと進む。碗の中のものが減っていく速さに、私はほっと胸を撫で下ろした。


「公主様、とても美味しいですわ! 私、今までこんなに濃厚な甘いものを食べたことがございません」


 今日は初めて賢妃を百花殿にお招きしていた。お貸しする本をいくつか見繕みつくろい、少し疲れてきたところでお茶の時間にした。


 彼女にお出ししたのは『蓮子紅豆沙リェンズホンドゥシャー』――小豆と蓮の実を、溶けるほどじっくり煮込んだ甜味おかしだ。


 目の見えない賢妃に、味や食感だけでなく香りも楽しんでいただきたくて、陳皮チンピ――乾燥した蜜柑の皮も加えた。


「すごいわ、小豆とはこんなに甘くなるものなのですね」

「はい。白糖と一緒に長時間煮込んでおりますので」


 甘いものに目がない私は、一般的な紅豆沙ホンドゥシャーよりもたくさん白糖を入れて自分好みに仕上げている。賢妃にも喜んでもらえてよかった。


 今日こそは賢妃に『未来の王后』としての威厳を見せねば、と意気込んでいたけれど、彼女といるとそんなことくだらないと感じてしまう。甘いものを挟んで友として語り合う方が断然楽しい。


 ふと、先日突然後宮に現れた温家の殿方のことを思い出した。


「そういえば、先日賢妃の従弟にお会いしました。温漣伊殿とおっしゃる方です」

「まぁ、漣伊殿に……」


 賢妃はふっと頬を緩めた。


「彼はお元気にされていましたか?」

「はい。同じようにあちらの方も賢妃を気にかけていましたよ」

「そうですか……嬉しいわ」


 心から喜ぶ彼女を前にして、やはり彼女と王后の座をめぐって競いたくはないと再確認した。醜い政争はごめんだ。


 そうだ。

 ここは故郷の後宮とは違う。宦官はおらず、男子禁制でもない。


 王后となるべく嫁いできたけれど、星狼殿下は私を政略結婚の相手としか見ていない。そもそも私自身も殿下の寵を得たいとも思わない。


 ——だったら、ここをまるきり新しい後宮にしてしまうのはどうだろう?


「温賢妃、あの、お尋ねしたいのですけれど」

「なんでしょう? 答えられることならなんでもお答えしますわ」

「史淑妃と劉徳妃は甘い物がお好きでしょうか?」


 はた、と彼女は動きを止めてしまった。そして申し訳なさそうに頭を下げる。


「ごめんなさい、後宮の方々とはあまり親交がなくて……お二人のことはよく知らないのです。こうしてお茶を楽しむようなお相手は、公主様だけですの」


「そうですか……故郷では祭儀や祝い事の折に妃同士が集まって宴を楽しむ場が設けられるのですが、そういったこともないのでしょうか?」

「私の知る範囲ではそのような機会はございません。入宮したばかりなので、詳しくはわからないのですが」


 なるほど、やはり出来立ての後宮だから、諸々のことが整っていないのだ。


「では……賢妃、私を手伝ってくださいませんか?」


 * * *


 数日後の早朝、厨房の外でまき割りに精を出していたら、何やら中が騒がしい。何事かしらと振り返ると、そこに星狼殿下がいた。彼の背後で宮女が平伏している。


「おはようございます、桃英様」


 彼はなんとも複雑な表情で私を見ていた。ただ驚いているだけにも見えるし、引いているようにも見えるし、眩しいものを仰ぎ見るような表情にも思えた。


「……この国の方は、どうして予告なく会いにいらっしゃいますの?」


 下女のような襤褸ぼろをまとい汗だくで斧を握っている私の姿は、みっともないを通りこして哀れ、もしくは野蛮だろう。


 でもよかった、手を止めたところで現れてくれて。先ほどまで怪力を武器にすぱすぱ薪を割っていたのだ。危うく化け物認定されてしまうところだった。


「以前も申し上げましたが、俺が俺の妃に会いに来るのですから、許可は必要ないでしょう? それに、漣伊が『不意打ちした方が面白いぞ』と助言してくれましたので」


 言い終える頃には、殿下の顔にはいつもの笑顔が貼り付いていた。

 私はため息をついた。


「温侍中はひどい方ですね。女のはしたない姿を言いふらすなんて」


 私の小言には反応せず、殿下は近くの丸太に腰掛けた。

 ここは殿舎の壁以外の三方を森に囲まれた作業場だ。夏泉や他の宮女に厨房内の仕事を任せていたので、ここで作業しているのは私だけだった。


 宮女たちは「薪割りなんて、公主様にさせられませんっ!」と震えていたが、適材適所で分業した方が断然作業がはやい。「残念だわ、わたくしに好きにさせてくれたら、またできた甜味おかしを分けて上げるのに……」とため息をつくと、彼女たちは喜んで私に斧をたくしてくれた。


 『美味しい』は力なり。人を動かすには、地位を振りかざすよりも胃袋をつかんだ方がはやい時もある。


「それで、公主様は何をなさってらっしゃるのですか?」


 膝に両肘をのせ、殿下は頬杖をついている。かつてないほど気の抜けた姿だ。

 まぁ、相手が汗まみれの襤褸姿なのだから格好つける気も起きないのだろう――ただ、気が抜けた姿までも絵になってしまうほど見目麗しいのが憎らしい。


「甜味を作っております。やきがしを大量に準備しようと思いたちまして、薪がたくさん必要になったのです」

「甜味ですか」


 返した答えは望んだものではなかったらしく、彼は頬杖をついたままだ。


「桃英様、あなたはここで『普通に暮らす』のが望みだとおっしゃっていましたが……あなたは『普通』ではないことばかりしていらっしゃるようだ。あなた自身が汗水垂らして薪を割る必要などないでしょう? というか公主様の細腕で斧を振るえるのですか?」


 木登りした時にも殿下に似たようなことを訊ねられ、か弱いふりをして誤魔化した。


 でもあの時とは違って、もはやこの男の前で可憐な公主のふりをするつもりはない。

 私は斧を杖代わりについて、彼と向き合った。


「殿下は『普通』の尊さを分かっていらっしゃいません」

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