2-5


「あのぉ、公主様はいったい何をなさってらっしゃるのですか?」

「え?」


 袖をたくしあげ、大鍋の中身を木箆きべらでかき混ぜていた時、背後から呼びかけられた。

 それが知らない男の声だったので、私はギョッとした。かがんでかまどまきをくべていた夏泉も慌てて尻をつく。


 大きな体躯たいくの――長身の星狼殿下よりさらに上背うわぜいがあって、肩幅も広い――若い男だった。眉が濃く、頬に無駄な肉がない男らしい顔立ちで、帯刀しているところから武官であろうと推測された。


「豆を煮てます」

「豆を」


 後宮は男子禁制の場。国王や王太子以外の男が足を踏み入れるなど許されぬはず。だけどこの男がまるで気負わずふらりと現れたため、私の頭は混乱して、素直に問われたことに答えてしまった。なぜか男もそれを復唱した。

 立派な体躯に反し、どうも人懐こい印象を受ける人だ。


「貴殿は?」


 いつもの調子を取り戻し、夏泉が私の前に立ちはだかって男の身分をあらためた。


「あ、すいません、ご挨拶が遅れました。俺はおん漣伊れんい、星狼サマの侍中兼護衛をおおせつかっております」


 無骨な揖礼ゆうれいを見届けることなく、ずいと夏泉が男に詰め寄る。


「ここは後宮。王太子殿下以外の殿方が足を踏み入れてよい場所ではございません。早々にご退去くださいませ!」


 怒りをあらわにする夏泉に対し、温と名乗った男はのんびり頬をかいた。


「お許しなくお伺いして申し訳ない。でも、此度こたびご降嫁された公主様がどのような方か気になったもので、来ちゃいました」

「はぁ!?」


 夏泉は青筋を立てたが、茶目っ気たっぷりに言われたせいで、私はどうも怒る気が起きなかった。それに、なんとなく察しがついていたというのもある。


「夏泉、この後宮の規律は故郷とは異なるのではないかしら」

「そうなんです、特に男子禁制というわけではないんです。というか、そもそも規律みたいなものが定まってなくて。なんせ間に合わせで作った後宮なもので」


「ほら、私が入宮した時も衛士えじが付き添っていたし、荷運びも下男がやってくれたでしょう」

「たしかに……あ、鍋!」


 夏泉は慌てて竈に戻った。鍋の中身が焦げたら大変だ、そちらは彼女に任せておこう。


 この後宮には宦官かんがんがいない。男手が必要になったら殿方も後宮での役目を求められるのだろう。

 だけど、今はその時ではない。この男には厳重に抗議しておきたい。


「とはいえ、お約束のない方のご訪問は迷惑こうむります!」


 腕を組んでなけなしの威厳を示した。


 私の全身からは汗が噴き出している。秋といえど厨房は暑いのだ。どうせ全身汗びっしょりになるだろうからと、髪は適当にくくっただけで、化粧もしていない。そんな時にやってこないでほしい。


「いや、本当にすいません……まさか公主様自ら竈の前に立っているとは思わず……」


 へこへこと謝った後、彼は不意に爛漫らんまんな笑みを見せた。


「にしても、想像していた方とは違うなぁ。公主様がこんなに生き生きして可愛らしい方だとは思いませんでした。あっ、こんな言い方も不遜ふそんでしたかね、すいません」


 私は唖然とした。こうも無邪気に「可愛らしい」などと言い放ってみせるとは。


「あれ……温と言えば、もしやあなたは温賢妃の御親類でいらっしゃるの?」

「あ、もう小梟しょうきょう姉様にお会いになりましたか? 元気でやってますか? 抜群に賢いのに抜けたところがある方でしょう? 俺、心配で。姉様は目も見えませんし、実家でも色々あって――あ、俺は姉様の従弟いとこなんです。父同士が兄弟で」


 一気に話し終えてニコニコと笑っている。大らかで親しみやすいところが温賢妃とそっくりだ。


「賢妃は不足なく暮らしていらっしゃると思うわ。一度お会いしただけですけど、本にうずもれて楽しそうでしたから」

「そっか、よかったぁ」


 彼はくしゃりと笑う。心から彼女の幸福を願っているのが見てとれた。

 だけど、少しでもほだされてはいけない。形ばかりとはいえ私は王太子殿下の妃なのだから。


「あなたに危険を感じているわけではないけれど、殿方が我がやしきを自由に出入りするのは困ります。後宮の形が整い、宦官に仕えてもらえたら有り難いのですが……」

「うーん、でも星狼サマは後宮を持っても宦官を使いたくはない、とおっしゃっていましたよ――気の毒だから、って」


 不意をつかれて、私はゆっくり瞬いた。


「気の毒……」

「体の一部を切除される痛みや屈辱は、はかりかねるほどでしょう? その後の生活でも何かと苦しみが続くと聞いていますし……たとえ罪人にであってもわざわざそんな苦しみを味わわせたくはない、と星狼サマはお考えのようです」


 故郷では宦官たちはあまりにも当たり前に近くにいた。輿こしを担ぎ、警護を担当し、内廷との取り次ぎを行う。有力妃に侍って皇帝に近づき、高官をもしのぐ権勢を手にした者も多くいる。


 彼らの存在に疑問を抱いたことはなかった。けれど考えてみれば、彼らは己の体の一部と引き換えにして後宮に仕えていたのだ。


 そんな存在や制度を作らずに済むのならそれに越したことはないと、殿下は考えている。


 取りつくろった笑みを浮かべるばかりの彼が、そんな風に他者を慮っているなんて……正直、意外だった。


「星狼殿下は……私などが思い至らぬようなご深慮をされているのですね……」


 無礼な振る舞いが印象に残っているし、詐欺師さぎしで好色な男だと思っていたけれど、彼は私が知らない別の顔もお持ちなのかもしれない。


「星狼サマはお優しい方ですよ。それに有能だ。今は開国直前ということで、山積みの公務に追われてさすがにいっぱいいっぱいですけどね。一日中机に貼り付いていて気の毒になります。どちらかというと頭より体を動かして物事にぶつかっていく奴だったのになぁ」


「殿下と随分気安い仲でいらっしゃるのね」

「かつては軍の同じ部隊に所属していたので。じゃあ、俺はそろそろ失礼します。小梟姉様にお会いしたら、よろしく伝えてください」

「あら、出入りを禁止されていないのですから、ご本人にお会いして行けばいいのに」


 首を横に振って、彼はこの日一番の笑顔を見せた。


「姉様が不自由なく過ごしていらっしゃると分かれば、俺はそれで満足なんです」


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