2-3


 私と賢妃が向き合っているのは、鸞鳥らんちょう殿の正房おもやの客間だ。


 その部屋がいくつもの大きなひつで埋め尽くされている。しかもことごとくふたが開いて、中から書物があふれ出ていた。ついでに私の目の前の卓上にまで本が山と積まれている。

 私は本の塔の間にできた隙間から、賢妃と顔を合わせていた。


「この大量の書物はいったい?」

「こ、これは……」


 言いよどむ賢妃に老齢の侍女が笑顔のままぼやく。


「ほらお嬢様、いつでも部屋を整えておかねばならぬと申し上げましたよね」


 深いしわが侍女の笑みにすごみをくわえていた。


「も、申し訳ございません公主様! 私、本が好きで、好きで……! 入宮の際に殿下が大量の本を贈ってくださり、しまい込む前に全部読んでしまおうと思っていたらこんなことに!」


 卓上には『黄書こうしょ―翠山伝』『大黄南海伝』『五行ごぎょう説』など、故郷ではよく知られている書物が見え隠れしている。


 歴史書、旅行記、思想書と多岐たきに渡るようだ。昔母様に読み聞かせていただいた説話集まである。


「ええと、不躾ぶしつけな質問で恐縮ですが……賢妃は書をお読みになられるのですか?」


 目の見えない彼女がどうやって本を読むのだろう。率直な疑問を口にすると、彼女は「不躾ではございません」と口許くちもとを緩めた。


「他人の事情なんて、もちろん分からないことだらけでございましょう。私は聞いていただいた方が嬉しいのです」


 書は侍女たちが読み聞かせてくれるらしい。老齢の侍女が誇らしげに賢妃の特技を教えてくれた。


「お嬢様は一度聞いた書の内容は全て暗記されているのです」

「す、全てですか?」


 温賢妃はうなずいた。


「えぇ。私、記憶力だけが取りですの。たとえば『黄書―翠山伝』には大昔の我が国の姿がこのように描かれていますわ――それ山中に翠人有り。歳時を以て来たり献見すとう――かなり古い時代にも我が国が大黄帝国と交流を持っていたことがうかがえますわね。それから『五行説』の中にも……」


 延々と話し続ける賢妃を前に、私は唖然とした。本当に何もかも記憶している。


「お嬢様はあたくしの誇りでございます」

「もう、ばあやはいつも大げさね」

「度が過ぎて奇人の域に達しておられますが。片付かない櫃の角によく足をぶつけていらっしゃいますし」

「うふふ」


 賢妃がごまかすように笑うのを本の合間から眺めた。


 確かに変わった方だけど、始終頬を緩めて幸せそうにされているので、こちらまで温かな気持ちになる。

 私はいっぺんに賢妃のことを大好きになってしまった。


 *


 鸞鳥殿からの道のりを、温かな気持ちで帰った。

 山肌に建物が点在し、それぞれが長い回廊で結ばれるこの翠天宮は高低差も多く、盲目の彼女には歩きづらいだろう。

 今度彼女をお招きするときはなるべく歩きやすい道をご案内しよう。できたら花の香りが楽しめる道がいい。


「桃英様、うきうきしてらっしゃいますね」

「え、そう?」


 夏泉の指摘に頬をおさえる。


「当初の目的である『我こそ未来の王后である宣言』はできませんでしたけど、それはよかったのですか?」

「あ!」


 そうだった、私の優位性を主張するために賢妃と会うことにしたのだった。会話が弾んだせいで完全に失念していた。


「うーん……でもいいわ。この後宮に楽しくお話できる方がいると知って嬉しいから。皆さんが劉徳妃のように私を嫌っているのではないと分かっただけで、今日は満足よ」

「それならばよろしゅうございました。ん? 誰かいますね」


 一歩前を歩いていた夏泉が目をらす。この湾曲した長い階段を下ればもうすぐ百花殿で、彼女の視線はその門前へと向かっている。


 夏泉より私の方が断然視力がいい。だから、木立こだちの合間から、百花殿の門前で大勢の女官にかしずかれた華奢きゃしゃな妃の姿がはっきりと目に入った。


 *


「不在の折に、しかも突然お伺いして申し訳ございません。淑妃の位を賜りました、史家の紫薇しびと申します」


 史淑妃の拱手は、この上なく優雅だった。

 白磁のかんばせに、雪のように儚げな指先。愛くるしい大きな瞳は長い睫毛に縁取られ、小ぶりな鼻も口も気品に満ちていた。


 衣にも隙がない。かんざし、首飾り、腕飾りはきらめく銀細工。広袖ひろそでに裾の長い薄紅の深衣しんいは彼女を優美に引き立てている。


 完璧な美少女だ。絵師にその姿を書き留めさせて、後世にまで伝え継ぎたいほどの。


「大黄帝国から参りました、范桃英と申します。お会いできて光栄ですわ」


 礼を返す私の背を、冷や汗が伝っていく。


 劉徳妃も美しかった。けれど彼女は男装の麗人で、所作も武人のごとく雄々しかった。

 温賢妃も上品な方だけれど、したわしい雰囲気をお持ちの方だった。


 史淑妃は、妃のかがみ――圧倒的に『本物』の風格を備えている。


 *

  

 正房に招きお茶や甜味おかしをお出しし、淑妃からも手土産をいただいて――その間も淑妃の所作の全てが芸術品のように美しい。


 指先の上げ下げの奥ゆかしさ、目線のさりげない動き、引きずる裾のさばき方。どれをとっても一級品で、しかもあくまで自然だった。

 帝国公主でありながら後宮を追われて市井しせいで暮らす時期が長かった私とはものが違う。


 淑妃の品格は、一朝一夕に身につけたものではない。物心ついた頃から妃となるべく育てられ、血と涙がにじむ努力を重ね、完全に己のものとして習得した『本物』のそれだった。


「公主様、ご挨拶に伺うのが遅くなりまして申し訳ございません。遠方よりお越しゆえお疲れではないかと心配で……思い悩むうちに時期を逃しておりましたの」


 声も鈴の音のようで可憐かれんだ。


「過分なご配慮ありがとう存じます。淑妃、お気になさらずいつでも気軽にお越しくださって良いのですよ」


 美少女の繊細せんさい可憐な迫力に負けてばかりもいられない。たとえ付け焼き刃の妃といえど、私は帝国公主。後宮政治で負けるわけにはいかない。


 口調にあえて親しさをにじませた真意は「馴れ馴れしく話しかけることができるほど、私の方が位が上なのですよ」。「いつでも気軽に来てね」は、「未来の王后たる私にこれからはちゃんと挨拶に来なさい」の意だ。


 ところが、淑妃は屈託なく笑った。


「公主様はお優しくていらっしゃいますのね。わたくし安心いたしました」


 小さな花がほころぶようなその微笑みは、どんな殿方でも一撃で魅了するに違いなく、私の矜持きょうじにも直撃した。


 彼女は私に対抗してこなかった。そんなことをせずとも己が後宮で確たる位置を占めることができると疑いもしていないのだ。


 翠山の気候や帝国宮廷の衣裳いしょうの流行など、当たり障りない話題でいくらか言葉を交わし、会話が途切れる前に淑妃がいとまを告げた。そのあたりの見極めもさすがだった。


 門前まで彼女を送る。またお招きくださいませ、と手を述べられて、私は可憐な手のひらを握った。


 その時、ふわりと風が渡った。

 史淑妃の衣にきしめられたこうが浮き立つ。

 甘さと爽やかさが結ばれた独特な調合の香りが鼻をくすぐった。どこかで嗅いだような気がする――いったい何の香りだったろう。

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