2-3
私と賢妃が向き合っているのは、
その部屋がいくつもの大きな
私は本の塔の間にできた隙間から、賢妃と顔を合わせていた。
「この大量の書物はいったい?」
「こ、これは……」
言い
「ほらお嬢様、いつでも部屋を整えておかねばならぬと申し上げましたよね」
深い
「も、申し訳ございません公主様! 私、本が好きで、好きで……! 入宮の際に殿下が大量の本を贈ってくださり、しまい込む前に全部読んでしまおうと思っていたらこんなことに!」
卓上には『
歴史書、旅行記、思想書と
「ええと、
目の見えない彼女がどうやって本を読むのだろう。率直な疑問を口にすると、彼女は「不躾ではございません」と
「他人の事情なんて、もちろん分からないことだらけでございましょう。私は聞いていただいた方が嬉しいのです」
書は侍女たちが読み聞かせてくれるらしい。老齢の侍女が誇らしげに賢妃の特技を教えてくれた。
「お嬢様は一度聞いた書の内容は全て暗記されているのです」
「す、全てですか?」
温賢妃はうなずいた。
「えぇ。私、記憶力だけが取り
延々と話し続ける賢妃を前に、私は唖然とした。本当に何もかも記憶している。
「お嬢様はあたくしの誇りでございます」
「もう、ばあやはいつも大げさね」
「度が過ぎて奇人の域に達しておられますが。片付かない櫃の角によく足をぶつけていらっしゃいますし」
「うふふ」
賢妃がごまかすように笑うのを本の合間から眺めた。
確かに変わった方だけど、始終頬を緩めて幸せそうにされているので、こちらまで温かな気持ちになる。
私はいっぺんに賢妃のことを大好きになってしまった。
*
鸞鳥殿からの道のりを、温かな気持ちで帰った。
山肌に建物が点在し、それぞれが長い回廊で結ばれるこの翠天宮は高低差も多く、盲目の彼女には歩きづらいだろう。
今度彼女をお招きするときはなるべく歩きやすい道をご案内しよう。できたら花の香りが楽しめる道がいい。
「桃英様、うきうきしてらっしゃいますね」
「え、そう?」
夏泉の指摘に頬をおさえる。
「当初の目的である『我こそ未来の王后である宣言』はできませんでしたけど、それはよかったのですか?」
「あ!」
そうだった、私の優位性を主張するために賢妃と会うことにしたのだった。会話が弾んだせいで完全に失念していた。
「うーん……でもいいわ。この後宮に楽しくお話できる方がいると知って嬉しいから。皆さんが劉徳妃のように私を嫌っているのではないと分かっただけで、今日は満足よ」
「それならばよろしゅうございました。ん? 誰かいますね」
一歩前を歩いていた夏泉が目を
夏泉より私の方が断然視力がいい。だから、
*
「不在の折に、しかも突然お伺いして申し訳ございません。淑妃の位を賜りました、史家の
史淑妃の拱手は、この上なく優雅だった。
白磁の
衣にも隙がない。
完璧な美少女だ。絵師にその姿を書き留めさせて、後世にまで伝え継ぎたいほどの。
「大黄帝国から参りました、范桃英と申します。お会いできて光栄ですわ」
礼を返す私の背を、冷や汗が伝っていく。
劉徳妃も美しかった。けれど彼女は男装の麗人で、所作も武人のごとく雄々しかった。
温賢妃も上品な方だけれど、
史淑妃は、妃の
*
正房に招きお茶や
指先の上げ下げの奥ゆかしさ、目線のさりげない動き、引きずる裾の
帝国公主でありながら後宮を追われて
淑妃の品格は、一朝一夕に身につけたものではない。物心ついた頃から妃となるべく育てられ、血と涙がにじむ努力を重ね、完全に己のものとして習得した『本物』のそれだった。
「公主様、ご挨拶に伺うのが遅くなりまして申し訳ございません。遠方よりお越しゆえお疲れではないかと心配で……思い悩むうちに時期を逃しておりましたの」
声も鈴の音のようで
「過分なご配慮ありがとう存じます。淑妃、お気になさらずいつでも気軽にお越しくださって良いのですよ」
美少女の
口調にあえて親しさをにじませた真意は「馴れ馴れしく話しかけることができるほど、私の方が位が上なのですよ」。「いつでも気軽に来てね」は、「未来の王后たる私にこれからはちゃんと挨拶に来なさい」の意だ。
ところが、淑妃は屈託なく笑った。
「公主様はお優しくていらっしゃいますのね。わたくし安心いたしました」
小さな花が
彼女は私に対抗してこなかった。そんなことをせずとも己が後宮で確たる位置を占めることができると疑いもしていないのだ。
翠山の気候や帝国宮廷の
門前まで彼女を送る。またお招きくださいませ、と手を述べられて、私は可憐な手のひらを握った。
その時、ふわりと風が渡った。
史淑妃の衣に
甘さと爽やかさが結ばれた独特な調合の香りが鼻をくすぐった。どこかで嗅いだような気がする――いったい何の香りだったろう。
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