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 長椅子にぐったりもたれた私の肩を、夏泉がもみほぐしてくれている。


「徳妃は何をあんなにお怒りだったのかしら」


 私は意気消沈していた。一方的に、また唐突に怒りをぶつけられ、「どうして」という気持ちが強かった。ついでに「どうして後宮の妃が男装を?」という疑問も相まって、胸のうちがモヤモヤした。


「実は徳妃がお帰りになってから聞いたのですが」


 夏泉がいつもの調子で淡々と打ち明けた。


「劉徳妃はかつて王太子殿下の婚約者だったそうです」

「まぁ、では私の入輿にゅうよでそれが反故ほごにされたということ?」


 頭を抱えた。そんな私が「私こそが未来の王后よ!」などと宣言したら、憎悪ぞうおを抱くなという方が無理だ。


 劉徳妃と星狼殿下は本来ならお似合いの夫婦だったろう。二人が見つめあう様は芸術品のように美しかったに違いない――ん? その見つめ合う二人はともに男性の格好で? それとも男女の組み合わせ?

 自分がした二つの妄想に戸惑っていると、夏泉が察して付け加えた。


「徳妃は入宮以前から男装だったそうですよ」

「そ、そうなの? ……というか夏泉、なんでそんなに詳しいのよ。劉徳妃のこと知っていたなら先に教えてくれてもいいじゃない」

「ですから、私も先ほど翠山の女官に教えていただいたのです」


 ただ王の継嗣けいしをもうけた妃を王后と呼ぶのではない。王后は後宮を管理・統括する、いわばすべての妃嬪ひひんの上官にあたる存在だ。王后を目指すからには、後宮の妃から(少なくとも建前上の)敬愛を勝ち得なければならない。

 なのに徳妃からは「もう個人的にはお会いしたくない」と斬り捨てられてしまった――前途多難だ。


 しかも。

 卓上に置かれた信書を見て、また大きなため息が出た。

 それはもう一人の妃である温賢妃から、つい先ほど届けられたものだった。

 冒頭に申し分のない挨拶を書き連ねたのち、このようにしたためられている。


 ――此度こたびは公主様を我が鸞鳥らんちょう殿にお招き申し上げとうございます。


 招いたのに、招き返されてしまった。

 本来、足を運ぶのは身分の低い妃の務め。その慣例からすれば賢妃のてがみは私への挑戦状とも受け取れる。

 

 * * *


 鸞鳥殿は桂花きんもくせいの盛りだった。金紅きんべに色の可憐な花が秋の澄んだ空気に甘い香りを含ませている。


 信書を受け取った翌日、私は夏泉と数名の女官を伴って温賢妃のもとを訪ねた。

 公主だからといって偉そうにしてもしようがない。徳妃の時も形にこだわらず自ら会いに行けばまだましな印象を与えられたかもしれない、と反省しながら。


 桂花のかぐわしい香りを吸い込むと、自分の足を動かしてここに来てよかった、と心から思えた。


 *


「公主様、ようこそお越しくださいました。この鸞鳥殿と賢妃の位を賜りました、おん小梟しょうきょうでございます」


 玲瓏れいろうな声で迎えてくれた温賢妃を前に、私は固まってしまった。

 なんということ、徳妃の時と同じような失敗だ。対面前にもっと賢妃のことを知っておけばよかった。そうしたらそもそも彼女を呼び立てるなんてことしなかったのに。


「大黄帝国から参りました范桃英です、お招きくださりありがとう。あの……握手をさせていただいてもよろしいかしら」

「まぁ……嬉しいです」


 彼女がやや心細そうに差し出した手を、私はしっかりと握りしめた。この手の持ち主が、范桃英ですよ、と示すために。


 温賢妃は両目を黒布でおおっている。

 鸞鳥殿のあるじは盲目の妃だったのだ。

 

 *


 挨拶を済ませ卓を挟んで向き合うと、まず賢妃は私に頭を下げた。


「せっかくお招きいただいたのに伺うことができず、本当に申し訳なく思っております」

「いいえ、謝らねばならないのはわたくしの方です。温賢妃の御事情を知らずに一方的に呼び立ててしまい……」


 賢妃は控えめに笑った。


「公主様が私の目のことをご存じないのは当然のこと。それにお招きいただくのはむしろ大歓迎なのです。私、散策が大好きなものですから」


 おそらく彼女は私より十近く年長だろう。穏やかな気品があると同時にどこか親し気な雰囲気をお持ちの方だった。


「公主様同様、私も最近入宮いたしまして。それゆえ私も、実家からともなったこの侍女も、後宮の様子がまだ頭に入っていないのです。それで公主様をこちらにお招きさせていただきました」

「そうだったのですね」


 先ほどから賢妃の身の回りの世話を一手に引き受けている侍女がゆっくりと揖礼ゆうれいをした。礼をする前から腰がやや曲がっている。かなり高齢のようだ。

 もっと若い女官も忙しそうに働いているが、彼女たちは賢妃の介添かいぞえに慣れていないようで、いちいち高齢の侍女に指示を求めていた。


 大黄帝国の後宮では、妃は宦官かんがんかつ輿こしで運ばれる。宦官とは去勢された男性官吏のことだが、ここに入宮してからは一度も見ていない。男子禁制の後宮において重要な男手だが、つい最近まで後宮のなかったこの国には宦官はいないのだろう。

 だから私も女官に案内されながら文字通り自分の足で鸞鳥殿までやってきた。


「ところで、あの、温賢妃」


 入室してからずっと気になっていたことをついに切り出した。


「いったいこのおへやの様子はどうされたのですか?」


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