1-5

 

 公主のもとを辞した後、俺は足早に内廷に向かった。

 後宮の門を塞ぐように、侍中のおん漣伊れんいが腕組みをして待ち構えている。


「おい星狼サマ、王太子殿下ともあろう者が一人でほっつき歩くなよ」

「王太子殿下に対してそのような口の聞き方もどうかと思うが」


 まぜっ返すと、漣伊はがしっと俺の首に腕を巻きつけた。


「敬ってほしいならそれらしい言動をしろ!」

「別に敬ってなどほしくないから言動は改めん」


 鬱陶うっとうしい腕を振り払おうと身をよじるが、軍で鍛え上げた腕力が俺を解放しなかった。


「殿下は屁理屈ばかりが巧みにおなりで。とにかく一人で出歩かないでくれよ。腕が立つのは分かるが、もっと護衛を――俺を頼ってくれてもいいだろう」

「宮城の中をうろつくだけだ。多忙な漣伊の手を借りるまでもない」


 漣伊は説教をあきらめたようで、呆れたような小さなため息を挟んで話題を変えた。


「今朝はご降嫁された公主様にご機嫌伺いか? どうだ、うまくやれそうか?」

「うまくやっていくしかないだろう、大黄帝国皇帝陛下から直々にたまわった公主様だぞ」


 吐き捨てる勢いのまま、今度こそ漣伊を振り解いた。


「おろそかにしたら最悪帝国軍が攻め込んでくる。だから丁重に扱いもする。そもそも我が国は日々の暮らしだけでかつかつだ、戦などできるか」


 公主降嫁に際し『化粧料』の名目で絹二万匹、銀一万両を得ている。これでも決して過大な額ではないというから、大黄帝国の国力は我が国とは桁が違いすぎる。その半分を米やら麦やらに変えて倉に詰めこんだおかげで、とりあえず翠山の民が数年飢える心配はなくなった。


「そんな公主様をよく妃に迎えたよなぁ。実は後宮があってほかにも妃がいます、なんて後付けまでして――婚約破棄されても文句は言えないぞ」


 よくも他人事のように言ってくれたものだ。にらみつけると漣伊はハッとして「本当にすまん」と謝罪してきた。大きな犬がしょげているようで気勢を削がれる。


「後宮のことだけは納得していただくしかない。その分、不自由はさせない」

「そうだな……でもよ、せっかくなら公主様と仲良くできるといいよな、夫婦なんだし」


 齢十九を迎えた漣伊だが、夫婦というものをやたらに美化するきらいがある。「どんな方なんだ? 可愛いかったか? ひととなりは?」と矢継ぎ早に聞いてきた。


「見た目の美醜びしゅうは会って自分で判断しろ。正直、俺にはよく分からない。為人ひととなり……こちらはもっと分からん」


 昨日の対面では衆目の前で俺に王后位を誓わせるという、大国の公主らしい駆け引きを仕掛けてきた。

 後宮があると知るも己の感情を殺し、国益を第一に振る舞うところはさすがと言ったところだろう。


 だが、今日はなぜか木登りをしていた。

 降りられなくなった、と公主は恥ずかしそうに頬を赤らめていたが、いかなる事情があろうと深窓のご令嬢が木登りなどするだろうか。しかもかなり高いところまで。どうやって登ったんだ? 意味が分からない。


「望むことは『普通に暮らしたい』だそうだ」


 舌打ち混じりのため息がもれた。漣伊も「げっ」と背をらせる。


 初めて対面した時の彼女の姿が俺を憂鬱ゆううつにさせた。高く結った髪をきらびやかにいろどる黄金と宝玉の冠、耳飾り。真紅に染め出した衣はなめらかな光沢を放つ絹衣で、たっぷりとした袖や裾が優雅に揺れていた。


 兄の皇帝にこの上なく大切にされ、ぎょくを飾られにしきに包まれて降嫁した公主様の望む『普通の暮らし』はいかばかりのものか。贅沢ぜいたくを贅沢とも思わぬ若い娘の傲慢ごうまんに、八つ当たりのような怒りを覚える。


 後宮の門を抜けて、山肌をうように下る回廊を進む。漣伊も黙ってついてきた。


 遥か昔に山を開いて造営した宮城・翠天宮からは、ふもとに広がる都が一望できる。雑然と並ぶいらかが朝日を浴びて美しい。あの灰茶けた甍の下で、民のそれぞれの一日が始まっているのだ、と思うと気が引き締まった。


 この国の『普通の暮らし』は貧しい。そのぎりぎりの暮らしですら、守っていくことはたやすくない。


「なぁ星狼サマ、開国交渉、うまく進めような」


 朝日を浴びる漣伊の顔も粛然としていた。


「あぁ、大黄帝国との安定した交易を実現する――いまだ障害は多いが、必ず成し遂げる」


 民の命も暮らしも、そして後宮も、何もかもこの手で守ってみせる。


「おう! そのためにも殿下は公主様と仲良くしておかないとな」

「その話に戻るのか……」


 彼女が求めるものが『王太子のちょうを受けたい』などであれば楽だった。俺の身一つで満足していただけるなら安いものだ。というか無料ただだ。いくらでも夫婦ごっこをしてやれる。


 好意を抱いていただこうと、女に好まれるこの顔面を最大限に活用して迫っているつもりだが、今のところあまりうまくいっていないようだ。さすがに一筋縄ひとすじなわではいかないか。


 それに。

 蒸籠せいろの中身をのぞきこんだ公主の、嬉しそうな笑み。故国の朝餉あさげはもっと豪勢だったろうに。あれが演技だとしたら大したものだ。


 考えれば考えるほど、桃英公主に関してはっきりとした人物像を結べなかった。


「まぁでも、会ってまだ二日だろ。これから互いに良く知っていけばいいじゃないか!」


 漣伊の爛漫らんまんとした笑みが憎たらしい。


 でも、こいつがいつも隣で豪快に笑っていてくれたからこそ、どんな絶望の中でも立ち上がることができたのは事実なのだった。

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