1-4


 樹上から下ろされた私は、王太子をやしきに招いた。

 ちょうど朝餉あさげの準備が済んだようで、卓上に蒸籠せいろが用意されている。


 給仕の侍女がふたを持ち上げると、あたたかな蒸気と一緒に麦の素朴な香りがふわりと広がった。蒸籠の中身は包子パオズ――肉まんだ。故郷で見慣れているものより小ぶりで可愛い。


 手を伸ばしたくてうずうずするけれど、まずは王太子に譲るべきだろう。そう思って向かい合った彼を見ると、なぜかじっと私を見つめていた――というか観察している。


「なにか……?」

「いえ別に。どうぞ遠慮せずお召し上がりください。俺はもう朝餉は済ませましたから」


 微笑みが嘘くさい。


「王太子殿下を差し置いてわたくしがいただくわけにはいきません」

「俺は茶で十分です。すぐに政務に戻らねばなりませんので」

「そういうわけには」


 せっかくの出来立ての包子パオズがもったいないけど、冷めてもきっと美味しいだろう。


「そのように固くならず、徐々に打ち解けていただけるといいのですが」


 彼は切なそうに眉の端を下げた。給仕で忙しくしていたはずの侍女たちが王太子のその仕草に頬を赤らめている。

 ちょっと眉を動かすだけで女性をとりこにしてしまうことに驚いたし、同時に浮いた台詞に呆れもした。


 打ち解けたい、だなんてよく言えたものだ。わざわざ後宮を作り、私をたくさんの妃の一人にしておいて。


「殿下、わたくし以外の妃嬪ひひんの皆様はどのような方なのですか?」


 嫌味のつもりで話題をうつした。もちろん宿敵・北玄国の娘が降嫁しているのか確かめたいという狙いもある。


「気になりますか? 多くの妃がいるわけではないのですよ。公主様の他に三人の夫人だけ。それぞれ我が国の三大貴族である史家、劉家、温家の娘たちでございます」

「そう……でございますか」


 拍子抜けしてしまった。

 北玄国の姫は入輿にゅうよしていないらしい。

 では、後宮が必要になった理由は何?


 ゆったりと茶碗を傾ける男の顔から思惑を読み取ろうとしても、微笑を浮かべているだけで何を考えているのか分からない。

 実はものすごい好色なのかしら? 女好きで、たくさんの女を侍らせたいとか?


「公主様、打ち解けていただくためにも、俺のことは名で呼んでくださいませんか? 王太子殿下、ではいつまでも他人行儀のままだ」

「そんな、おそれれ多いことです」


 昨日出会ったばかりの、しかも腹の内の読めない男の名を呼びたくはなかったが、彼は引き下がらなかった。


「王太子、と呼ばれるのに慣れていないのです。肩肘かたひじが張ってしまって。俺のためだと思って、ご厚情を賜れませんでしょうか」


 そこまで言われると断りづらい。


「では、星狼殿下、と」

「感謝いたします。無礼をお怒りにならないのであれば、俺も御名でお呼びしてもよろしいですか?」

「はい、まぁ……ご自由に」


 こちらが名で呼ぶことになった以上、これも断りづらい。


「桃英様、ありがとう存じます」


 王太子はあの作り物の笑顔を浮かべた。

 この男、やはり『やり手』だ。ぐいぐいと話を進められて、気づいたら『名前で呼び合う仲』ということになってしまった。


「星狼殿下はほかの妃の皆様とも親しく名を呼び合ったりなさるのかしら」


 主導権を握られたままではいられない。「しょせん妃の一人として私を遇しているだけですよね」と釘を刺しておかないと。


「ほかの妃のことなどお気になさらず。それより桃英様ご自身が、ここでどのようにお過ごしになりたいのか教えてくださいませんか」

「わたくし自身、ですか? それはもちろん星狼殿下をそばでお支えするため、いずれ王后に」

「俺のことや故郷の事情を抜きに、あなたのお気持ちをお聞かせください」

「わたしの、気持ち……」


 不意をつかれた。

 生きてきた中で誰かに自分の希望を問われたことなどなかった気がする。


 でも、希望ならある。もちろんある。

 故郷では決して手にできなかった、私の夢。そして、母様との大切な約束。


「――わたくし、『普通』の暮らしがしたいのです」


 真実の願いが口からこぼれていた。


「普通、ですか?」


 彼は目を見開いた。


「はい」


 机の下でぎゅっと拳を握る。

 夫にとっての唯一の妃でなくてもいい。でも『普通』の妃にはなりたい。母様が望んだように、化け物じみた力を隠して『普通』の女の子として扱われたい。

 私の、小さな小さな、けれど大事な夢だ。


「はっ、そうですか」


 侮蔑ぶべつまじりの相槌あいづちに、ハッと王太子の顔を見た。彼はすぐに笑顔を貼り付けたけれど、その直前に一瞬浮かべた嫌悪の表情を私は見逃さなかった。


「普通、ですか。大国の公主様の普通を我々が差し出すことができるか……精一杯努力させていただきます」


 笑顔の裏に、こちらに対するあなどりがにじんでいる。


「差し出すだなんて」


 言葉を続けようと思ったけれど、怒りがのどを詰まらせた。

 どうしてこの男は私の、そして母様の願いを馬鹿にするのだろう。


 そもそも、あんたに差し出してほしいだなんて思ってないわ――!


「あっ」


 突然、給仕をしていた夏泉が声を上げた。次の瞬間、彼女は捧げ持っていた盆をぶちまけた。

 王太子の肩にぴしゃりと水がかかる。


「申し訳ございません!」


 夏泉はすぐに平伏した。


不調法ぶちょうほうでつまずき、大変な不敬を働きました。ご処分はいかようにも」


 おもてを伏せているから表情は分からないけれど、夏泉の言葉はほとんど棒読みだった。


 胸が熱くなる。

 夏泉は、私の想いを踏みにじった王太子に、怒りをぶつけてくれたのだ。

 私はなんて良い侍女を持ったのだろう。


 でも。

 さすがに。

 これは、やりすぎよー!


「星狼殿下、申し訳ございません! この侍女は少々粗忽そこつなところがありまして」


 私は慌てて頭を下げた。王太子の御身に侍女が水をぶちまけるなんて、帝国だったら首をねられても文句は言えない。


「長旅の疲れもまだえておらず、とんでもない粗相を……今回ばかりはわたくしに免じてお許しいただけませんでしょうか」


 大丈夫ですよ、と彼は眉一つ動かさなかった。


「この程度で侍女を罰するような器の小さな男ではございません、ご安心くださいませ」


 王太子は、にこやかにのたまった。

 本当に侍女の無礼に頓着していないのか、はたまた怒りを押し殺しているのか判然としない。


 全く真意がつかめず、冷や汗が流れた。


 * * *


「夏泉、さっきのはやりすぎよ」

「申し訳ございません、私もそう思います」


 王太子を政務に送り出し、二人きりになってから夏泉と反省会を開いた。


「ですがあの『顔だけ王太子』にあまりにも腹が立ちましたので、冷や水を浴びせてやろうと思いまして」

「文字通り物理的に水をかけなくてもいいのよ」

「おっしゃる通りです」

「そうね、でも」


 私は夏泉を抱きしめた。


「あなたのおかげで気持ちが晴れたわ、ありがとう」


 言葉に詰まり体が固まってしまうほど、あの時の私は怒りに呑まれていた。

 もし夏泉が先に動いていなかったら、私が実力行使にいたっていたかもしれない。そうなれば王太子の骨の二・三本は粉砕ふんさいしていただろう。


 夏泉の肩に顔をうずめた。


「ねぇ夏泉、あの男は『普通』がどれほど尊いことか分かってないからあんなことが言えるのよね……」


 はなをすすると、彼女は私の背をポンポンと叩いてくれた。

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