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「申し訳ございません」


 頭が真っ白になっている私の前に、侍女の夏泉かせんが進み出た。腕の中にたくさんの書物を抱えている。


「私が誤って本を落としてしまったのです。勢いよく落としたせいで、床に穴が」


 彼女は深々と腰を折った。私は慌てて説明を加える。


「そ、そうなの。でもこの侍女が粗忽そこつというわけではないのよ、わたくしの手が彼女にぶつかってしまって、その拍子に」


 翠山の女官たちは一応納得してくれたようだ。お怪我はありませんか、へやを交換しましょうか、といたわってくれる。

 だましてごめんなさい、と心の中で謝りつつ私は嘘を貫き通した。


「今日は疲れているし房の移動はけっこうよ。床を壊したのはわたくし……たちですし、修理の手配は明日にでも行うわ」


 そう言い切ると、心配そうにしながらも侍女たちは引き下がってくれた。

 耳を澄まして気配が去ったのを確認してから、私は半泣きで夏泉にすがりついた。


「夏泉、助けてくれてありがとう」


 彼女は素っ気なく肩をすくめる。


「気をつけてください『力を隠して普通の女の子になる』っておっしゃったのは桃英様ご自身なんですから」


「分かっているわ……でも、さっきの王太子の言い草を思い出したら、どうしても腹が立ってきちゃって」

「あぁ、あれはさすがにむかつきましたね。嘘に嘘を重ねて」

「でしょ!」


 共感を得て勢いづいた私を、夏泉がどうどうと落ち着かせようとする。私と同い年の十八歳のはずなのに、彼女は私より数段落ち着いている。


「桃英様、とりあえずお茶でも飲んで気持ちをしずめましょう」


 彼女は故郷から持参した茉莉花まつりか茶を準備してくれた。清涼な香りがささくれた心をほぐしてくれる。


「美味しい……ありがとう夏泉」

「よかった、翠山の水でもうまくれられていますか」

「うん、もちろん。でもそれだけじゃなくて……翠山まであなたが一緒に着いてきてくれたことが何より嬉しいの」


 さっきは私の失敗を誤魔化してくれて、今もこうして心のとげを抜いてくれる。

 大黄帝国の女官たちは辺境に来るのを嫌がり、何より私の力を恐れた。そのせいで公主でありながら私には夏泉以外に数名しか侍女がいないし、その数名も及び腰で、私のそばに寄ろうとしない。


「桃英様にお仕えするのは楽ですからね」


 はい、と麻袋を一つ渡される。中身は胡桃くるみだ。私は心得て、拳で握ってからを割っていく。中身まで粉砕ふんさいしないよう力加減に気をつけながら。


「ありがとうございます。こんな便利な主、桃英様の他にいらっしゃいません――落ち着いたら胡桃の菓子を作りましょう」

「まったく、主に向かって『便利』なんて言うの、あなただけよ」


 夏泉は表面的には素っ気ない。迷惑をかけてばかりの私に負い目を与えないようにしてくれている。

 彼女の優しさに甘えてばかりはいられない。私ももう十八歳。頼り甲斐がいのある主にならなくては。


 * * *


 翠山最初の朝は、風が強く空が澄んでいた。

 朝餉あさげの準備が整うまで、私は夏泉とともに百花殿の周囲を散策することにした。


 人や獣が潜めそうな場所を把握し、いざという時の退路を確認しておく。このくらい警戒しておかないと安心して暮らせない。

 怪しまれないようあえて着飾っているので、はたから見れば深窓のご令嬢が草木を愛でているように見えるはずだ。


「このけやきがここで一番高い木ね」


 中庭の隅で天に伸びる欅を見上げた。色づいた葉が風に散らされてはらはらと舞い落ちてくる。


「葉が茂ると樹上が死角になりますね」

「そうね。あっ……!」


 不意に吹いた強い風に煽られて、腕にかけていた被帛ひはくが飛ばされた。宙を泳ぐように高く上り、欅の枝に引っかかる。


「いやね、こんなものつけてこなきゃよかった」


 被帛は帝国の妃嬪ひひんが好んで腕にまとう飾り布だ。わずらわしいので普段はあまり身につけないのだけど、今日は着飾っていたので例外だった。


「人を呼んで取らせましょう」


 夏泉の言葉に私は首を振った。


「いいわよ。あのくらいなら私が取った方がはやいもの」


 あたりを見回しても人気ひとけはない。宮女たちの手をわずらわせる必要はなさそうだ。

 私は軽く助走をした。


「えいっ!」


 力だけでなく跳躍力も人並外れている私だ。屋根より高い枝の上にも軽々と飛び乗ってしまえる。そこから枝を伝って、無事に被帛にたどり着いた。

 すぐに降りようと思ったのだけど、眼下に広がる景色が私を引き留めた。


「まぁ、すごい……!」


 翠天宮は山肌に造営された宮城で、ここ百花殿も高所に位置する。樹上からは山のふもとの都が見渡せた。

 朝陽を受けていらかがきらきらと輝いて見える。庭の木々は紅や黄に色づいて美しく、家々の厨房から細く伸びる煮炊きの煙は人の温かみを感じさせた。


 かつて一時だけ暮らした街のこと思い出させてくれる、優しい景色だった。


 物思いにふけり、しばらく見惚れていたのがよくなかった。


「公主様、そこでいったい何をされているのですか?」

「え?」


 欅の根元に男がいた。怪訝けげんな顔で私を見上げている。


「お、王太子殿下!?」


 腕を組み、首を傾げる王太子の姿に、だらだらと冷や汗が落ちた。彼の背後で夏泉が頭を抱えている。


 私がいるのは欅の木の上。しかも屋根より高い枝に立っているのだ。これはどう考えても『普通』の公主の振る舞いではない。


「な、な、なぜ王太子殿下がこちらに……?」

「俺が俺の妃に会いに来て何がおかしいのです? 昨日、また改めて伺いますと申し上げましたし」


 その通りだけど、こんな早朝に一人でふらりと現れるとは考えもしなかった。


「で、公主様はそこで何を? というかどうやってそこに?」

「ええと、あの……ひ、被帛が風に飛ばされて木に引っかかってしまったものですから」

「だからといって公主様自ら木に登らなくても」


 ですよね。

 昨日は顔面に笑顔を貼り付けていた印象の王太子だけど、今はずっと怪訝な顔をしている。


「殿下、申し訳ございません。私が高いところが苦手なばかりに公主様のお手を煩わせてしまいまして」


 夏泉がまた助け舟を出してくれたけれど、王太子は納得しなかった。渋い顔で私に尋ねる。


「……帝国の公主様というのは木登りをたしなまれるものなのですか?」


 そんなわけないでしょ、と突っこみたい気持ちを飲みこんで、私はか弱い公主を演じてみせる。


「いえ、実は木登りなど初めてで……登ってみたはいいものの、降りられなくなってしまいましたの」


 そうでしたか、と彼は一応頷いてくれた。腰にいた剣を外して、腕をまくる。


「では助けに参りましょう」


 断る間もなく王太子がするすると木を登ってきた。細身の優男だと思っていたのに、あらわになった腕はよく鍛えられてたくましい。


「俺にしがみつけますか?」


 私がいるところより一段低い枝に立ち、両手を差し出してくる。

 そんなことせずとも一人で下りられます、なんて言えるはずもなく……。


「お、お願いいたします」


 思い切って王太子に抱きついた。彼は力強く私を抱え、器用に木を降りていく。

 彼の首に腕を巻き付けているから、迫力さえ感じる美貌がすぐ間近だ。「大丈夫ですよ」とささやく声が耳に溶けるように心地よい。


 この男の容姿は本当に厄介だ。別に彼をなんとも思っていない私の視線まで奪って、胸を騒がせる。


 それに、王太子からはごく微かに甘く爽やかな香りがした。伽羅きゃら柑橘かんきつを調合したのかしら――独特の良い香りだった。

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