リスタート

@dt0128

リスタート

「……まあ、まだ負けと決まった訳じゃないさ。人生の先は長いんだから」

 思うに、僕が一歩を踏み出したのは、あの日の彼の一言がきっかけだったのかもしれない。名前も素性も知らぬ、ただ人生でほんの僅かだけすれ違った中年男。見るからにくたびれて無精髭にまみれ、よく日焼けした小さな身体、汗や体臭も少なくなく、どこにでもいるような、肉体労働を生業にする男。

「……」

 僕は何も言わなかった。言っても伝わらないと思ったし、何より意味がないと感じていたから。僕は咥えたままのタバコを吸い込んで、ただ窓から差し込む夕日を見ていた。遥か北の果てから東北道を浮き彫りにする、やけに鮮明なオレンジに輝く世界を眺めていた。


 2008年の夏の終わり。僕は10年住んだ東京を後にして、生まれ故郷に戻ろうとしていた。きっかけは祖父と従兄弟の死だった。無論、この2人は同じ原因で亡くなった訳ではない。片方は幸福な老衰、もう片方は悲劇的な事故死だった。その詳細は述べない。述べるべきではないが、結果として僕は、ほぼ同じ時期に起こった嵐のような結末に翻弄され、発作的に一つの結論を下した。

「これ以上ここにいても仕方がない。実家の両親のことも心配だし、地元に帰って就職する」

 友人たちには澄ました顔でそう言った。彼らは一瞬でもキョトンとした表情を浮かべつつも、残念だが仕方ないと言葉を残した。残すようにした。何かのせいにした。理不尽な嵐が奪い尽くしたということにしたかった。

「夢を追う時間は終わりだよ。30前なら幾らでもやり直せるからね」

 あるいは僕は、得意げにこんな風に伝えたかもしれない。それは決して嘘ではなかった。本心からそう思っていた。思わされていた。あまりに高い世界の壁に、自らの矮小から目を背けて、利発な小僧のように振る舞いたかったのだろう。負けて、叩き潰されて、無為のまま逃げることを認めたくなかったのだろう。最後に残った僅かなプライドを失うことに耐えられなかったのだろう。

「そうか、残念だな。まあお前なら、どこで何をやっても大丈夫だよ」

 無責任な言葉。かつて自分が何度も放ってきた偽善の柱。鼓膜から脳内に伝う響きに吐き気を伴う痛痒を覚えながら、僕はぎこちなく笑っていた。ぎこちなく見えないように必死に、口角が攣るほどに。


 そこからは早かった。即座に仕事(と呼べるほどのものではないが)を辞めると宣言し、特に引き留めも理由を聞かれることもなく、形だけの送別会で飲み放題のビールをあおった。

 身の回りのものを整理し、不必要なものは全て人にあげるか売り払った。アパートの大家には文句を言われたけれど、こちらにも事情があるから申し訳ないと不躾に言い放った。実家には祖父の部屋が空いており、受け入れも特に問題がなかった。母の話では、祖母は大喜びして毎日掃除を繰り返しているようだった。

 残る問題は、幾つかの家具家電をどう運ぶかだけだった。数こそ多くはないが、本棚や全身鏡といった、宅配便では対応出来ないサイズのものだ。引越しの業者に頼めば話は早いが、地元に帰るならば免許の取得は必須であったりと何かと入り用で、可能な限り金は残しておきたかった。

 よくよく調べてみると、軽トラでの引越し専門業者なる者がおり、容量が少ないぶん実に格安で、僕のような荷物の少ない単身者には打ってつけだった。コールセンターに電話するとすぐにアポイントは取れ、丁寧で美しい声でスムーズに受付は行われ、更に閑散期ということで料金の値引きまで行われた。

 何も問題ない。そう思った。全く問題なんてない。そうに決まっている。引越しの前日、整理されてすっかり小綺麗になったアパートで1人そう思った。呟いた。

「何も問題なんてない。これでよかったんだ」

 果たして……そうか? 本当に……そうだったのか?

 何にでもなれると思っていた。望めば、望むものが手に入ると、本気で思っていた。進めば、進んだだけ実りが訪れると信仰していた。

 だが結果は明確に残酷だ。何も持たぬ30手前の男がいるのみ。どこの世界にもありふれた、夢追いの蜜に鼻を浸しただけの、何の成長もしない男。酒とニコチンに蝕まれ、求めるものを何も手に入れられず、漆黒の感情に無理矢理蓋をし続ける、哀れで滑稽な男が居るだけだった。


 引越し当日。予定時刻の15分後にインターホンの甲高い音が鳴り、僕は寝不足の目を擦りながらガタついたドアを開けた。そこにいたのは、純朴そうな若い男だった。178cmの僕よりも頭ひとつ背が高く、80kgの僕より一回りぶん太っており、くりくりの丸坊主の真ん中に大きな笑みを浮かべた、汗びっしょりの男だった。何も言わず呆けたように立ち尽くす彼に、僕は一抹の不安を抱きながら、長い沈黙に耐えきれず口を開いた。

「引越し屋さんですか?」

「はい!」

 それだけ答えると、堰を切ったように彼はそそくさと靴を脱ぎ、部屋の中へ駆け込んだ。びっくりして止めようとする僕の背後から、野太い声が一つした。

「おいタケシ! お客さんに断らずに入るなっていつも言ってんだろ!」

「うん!」

 中年。背の小さな、腹の出た男。腕だけがやけに太い、いかにも肉体労働者という風体の男。そんな彼に親愛を示しながらも、まるで言うことを聞かずに勝手に作業をする若い男。不思議な状況に混乱して一瞬固まる僕に、中年の男ははにかみながらぺこぺこと頭を下げた。

「悪いねウチの息子が。いったん始まっちゃうと止まんねえんでね」

 息子さんか。確かに顔は似ているかもしれないが、あまりに背丈が違い過ぎる。何か口を挟もうかと思ったが、面倒になりそうなのでやめた。こんな時にどうでもいい話など御免だ。

「さ、じゃあ仕事しちゃいますんで、お客さんは休んでて下さい。この量ならすぐ終わりますんで」

 もちろん僕に異論はない。勝手にやって、勝手に運んで欲しい。ここにある荷物で全てです。それではよろしくお願いします。それだけ言い残し、僕は部屋の隅でぼんやりとタバコをふかしていた。その間、彼らは実によく働いた。真夏の日差しが彼らから大量の汗を引き出すも、そんな事は日常茶飯事であるらしく、窓の下に見える軽トラはすぐに埋まっていった。彼らは無駄口一つ叩かず、勤勉に仕事をこなし、宣言通りあっという間に部屋はがらんどうになった。何ひとつ、跡形もなく。

「……」

 僕は何も言わなかった。手続きは終わっている。鍵は昨日返してある(最後の嫌味を言われたが無視した)。このまま出て行けば、ここを立ち去れば、全ては終わるんだ。終わってしまうんだ。僕は泣きなかった。恐らくは泣くべきだったんだろう。気持ちの区切りを分かりやすく示すべきだったんだろう。でも僕には出来なかった。何もかもが失われ、この10年が何の意味もないと認めるのが、この後に及んでも怖かったのだ。

「……お客さん! 終わりましたよ!」

 はっと我に返った。汗だくの男が心配そうにこちらの様子を伺っていた。僕は少し頭を下げて、仕事に対する礼を言うと、小ぶりのクーラーボックスから凍ったスポーツドリンクを取り出し、タイミングを逃した気恥ずかしさを紛らわせるように手早く差し出した。

「お、こりゃすいませんね。ありがたくいただきます。おいタケシ! お礼!」

「ありがとうございます!」

 2人は全く同じタイミングで蓋を開け、同じ体勢で飲み始めた。僕は笑いを抑えながら、吸いかけのタバコを携帯灰皿に押し込んだ。

「じゃあよろしくお願いします。後は現地で」

「電車で行くの? 隣乗ってけば?」

 初耳だ。そんな概念は頭に過ぎりもしなかった。と言うかあの軽トラは二人乗りだろう。あの彼はどうするんだ?

「ああ、息子はここで終わり。あとは俺1人でやるんでね。どうせ一緒なんだからもったいないでしょ」

 悪くない。だが見ず知らずの男と2人きりとは……今はそんな気分には……。

「よし、じゃあ下で待ってますんで。おいタケシ! さっさと荷物まとめちまえ! フラフラしてんな!」

 どうやらいつの間にか物事は決定されているようだった。もう断るのも面倒だ。地元までたかが2時間半程度。寝ていればすぐに着くさ。あっという間に着いてしまうんだ。東京なんていつだって帰れる。そう、いつだって……。

 脳の奥に疼きと貫く感覚を覚えるも、僕は頭を抑えて部屋の外に出た。最後にもう一度だけ背中を振り返り、僕を看取ってくれたこの部屋に気持ちの中だけで頭を下げた。誰からも声はかけられなかった。もう終わったんだ。嫌が応にもそう思わされる沈黙。そして、錆びたドアの閉まる軋んだ音と共に、僕にとって露のように甘い時間は終わった。夢が終わるのはいつだって突然だ。倦怠感と喉の渇きに耐えきれず、僕はスポーツドリンクを一気に飲み干した。


 そして、車内。

 僕と男は不思議な沈黙を共有している。彼は言葉数の多い男ではなかった。ラジオを聴きながら機嫌よく鼻歌を口ずさみ、時折思い出したかのように僕に世間話を振った。僕は適当にそれに応えながら、微かな居心地の良さを感じていた。

「そういや、ウチの子がすいませんね。迷惑かけませんでしたか?」

 何もない。よく働いてくれて助かった。正直にそう言った。彼は照れくさそうな表情を浮かべ、ハンドルに心なしか力を込めた。

「ウチのはほれ……見ての通りでしょ? だからね、あいつのやれることを、やれることだけはちゃんとやらせないとって。男手ひとつで育ててきて、それだけは徹底させたんですよ」

 立派だ。言葉には出さなかったが、心からそう思った。彼にも、彼の息子にも。あの子は最後まで僕らに手を振っていた。そして付け加えるかのように、思い出したかのように、最後にぺこりと頭を下げた。汗だくで、必死に働いて。

 その時、心から思った。僕に足りなかったものについて。努力をした、計画を立てた、根回しをした、もちろんそれはそれ。けれどその上で、そんな当たり前すぎる前提の先で、もっと深い次元で、僕は必死になどなっていなかったんだ。いつだって逃げられるように、退路が絶たれるのが怖くて、世間からどう思われるのかに耐えられなくて、見下される視線に耐えられなくて、こうしてここまで来てしまったんだ。

「あれ、気分でも悪いの? パーキングでも寄るかい?」

 俯き目を伏せる僕に、彼は心配そうに言った。だが僕は何も言わずに首を横に振った。とにかくもう今は何も考えたくなかった。早く返って休みたかった。ここではない何処かへ行きたかった。そんな所があるかどうかも分からないのに。そして彼は言った。何本目かのポッカコーヒーを空にしながら、僕に視線を向けることなく、口癖のようにさらりと。

「……まあ、まだ負けと決まった訳じゃないさ。人生の先は長いんだから」


 その後、彼と彼の息子と出会う事はなかった。恐らくは一生ないだろう。それでも僕は彼らを忘れない。善良な働き者で、毎日を懸命に生きる姿を忘れない。ある意味では僕は、彼らのように生きようと、それなりに長い時間をかけた結果ではあるが、いつしかそう思うようになった。懸命に、誠実に生きる。その姿勢は僕にまあまあの職と、かけがえのない家族を導いた。

 そして、今。僕は再び立ちあがろうとしている。あの日捨てたものに、捨てたはずのものに、もう一度向き合おうとしている。

「……まだだ」

 誰ともなく言う。暗い部屋の中でスマホをいじりながら、高速でフリック入力を繰り返しながら、片手で缶コーヒーを流し込み、あの日の続きをリスタートする。

「まだ……負けちゃいねえさ」

 何処にも届かない言葉を放ちながら、クソの役にも立たない戯言を吐き出しながら、今日も僕は画面と向き合う。ニコチン不足だけが悩みの種だが、僕の給料で贅沢なんて言ってられない。あと一時間で子どもの習い事の迎えに行かなきゃ。帰りに灯油を買ってくるんだったな。あいつの車も洗う約束もしてたっけ。

「楽しいな、おい」

 心から言う。何も終わってなんかいねえ。ただ懸命にやるんだ。死ぬまでやり遂げるんだ。背中に広がる熱に耐えきれず、僕は思わず背に羽織った作業着を脱ぎ捨て、缶を口に咥えたまま呟いた。

「何も問題なんてない。これでよかったんだ」

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