揺り戻し

波と海を見たな

揺り戻し

「訪問行ってきます!」

「気をつけてね~」

 私、洞家日和どうかひよりが事務所を出ようとした時、保護課4係の主査である藤堂玄弥にいきなり呼び止められた。

「ねえ、足泊あしとま地区に行くなら俺も一緒に乗せてくれない?」

 藤堂主査に声をかけられたのはその日が初めてだった。

「あ、え、はい」

 私は北海道にある雨納芦うなあし市役所にこの春から採用されたケースワーカーだ。関東の四年生大学を卒業後、人口八万程で都会過ぎず田舎すぎないこの土地に憧れてこの春に移住してきたばかり。

「ありがと!荷物取って来るから先に車行ってて、洞家さん」

 藤堂主査が走り去った後には、コーヒー牛乳のようにほんのり甘い香りが漂っていた。

「了解です!」

 雨納芦市の保護受給率は人口の0.8%ほど。これは全国的にかなり少ない方らしい。係には三人のケースワーカーがいて、それぞれ四十世帯程を抱えていた。

 ようやく半年の仮採用期間が終わり、私が公用車を運転してケース生活保護受給者の家まで行けるようになったのはつい最近のことだ。それまでは自転車で汗だくになりながら担当地区まで外勤していたから、一度車の楽さを知ったらもう戻れなかった。

 とはいえ、公用車を使える台数には限りがあるから、近場の地区同士で乗り合わせて外勤に行くことが多かった。

「…洞家。浮かれるなよ」

「は…はい!」

 後ろから同じ保護第一係の主査、無貌依子むぼうよりこが私を静かに一喝した。確かに、優しいと評判の先輩に声をかけられて少し浮き足立っていたかもしれない。

 厳しいことで有名な無貌主査の前で迂闊だった。

そのあまりの圧に私は振り返ることができずにいる。

「無貌、あまり新人を怖がらせるなよ」

「うわっ」

 いつの間にか後ろに藤堂主査が立っていて、私は素っ頓狂な声を出してしまった。

「さて、準備も出来たし早速行こうか」

「あ、はい」

 私はチャンスとみてそのまま藤堂主査の後に着いていく。

「…気をつけろよ」

 無貌主査の低く重い声が私の背中に突き刺さった。


 *


「今日の外勤はどんなとこなの?」

 片手ハンドルで軽快に車を走らせながら藤堂主査が私に聞く。なんかいちいち絵になるんだよな、この人。横顔なんてもう整いすぎて絵画みたいだし、左手に光る高級感溢れる腕時計とシックな灰色のシャツがまた似合う。

「えーと、今日は足泊通にある有料老人ホームと、近場の世帯を数件回る予定です」

 ケースワーカーは市役所職員でありながら私服で勤務できる特殊な部署だ。スーツ姿だと役所の人間であることが一目瞭然なので、ケースのプライバシーに配慮してそうしている。この車も市役所の名前が入っていない覆面公用車だ。

「そっか、有老なら空振りもなくて安心だ。しかしもう半年かぁ。早いね。訪問にはもう慣れた?」

「いやぁ、それが中々慣れなくて。全然予定通りにいかないんです」

 ケースワーカーの主な業務の一つが訪問調査だ。

 日本国憲法第二十五条で定められた理念に基づき、ケースは生活保護法で健康で文化的な最低限度の生活を保障されているのだが、当然守って貰うこともある。

 働ける者は働いて、資産を処分し生活費にかえつつ、公的年金といった他の制度をできる限り活用しなければならない。

 だから訪問して生活状況や課題を聞き取るのだが、雑談やらお茶菓子やらで中々帰れなかったり、逆に上手く会話が続かなかったりと、これまで予定通りにいった試しがない。

 それに、知らない人の家ってどこか居心地が悪いんだよなぁ。

「はは、わかるよその気持ち。俺も最初は断りきれずに長居して、次の予定飛ばしたこともあったっけ」

「ええ」

 笑った口の端から覗く白い歯を太陽光が淡いオレンジ色に染め上げていく。藤堂主査にもそんな時があったなんて、とてもじゃないけど想像できなかった。

「そういえば藤堂主査は隣の幕湊まくみな地区担当でしたよね?今日は何でこっちの方に?」

「ああ、探してるのさ」

「ケースの引越しとかですか?」

「ん?まあね」

 生活保護法の基準内の家賃で物件を自分で探すのは中々大変だ。

 −深入りするなよ。戻って来れなくなる。

 無貌主査には常々そう言われてるけど、ケースのために親身になるのはいいことだよね。

「あ、この辺りだ。俺はここで降りるよ」

 何かを見つけたのか、藤堂主査は突然車を路肩に停めて降りてしまった。

「あ、わかりました。ええと…帰りはどうしますか?」

「ありがとう。終わりの時間が違うから、帰りはゆっくり歩いて帰るよ」

 私は颯爽と去っていく藤堂主査の背中を黙って見送るのだった。



 順調に老人ホームと近隣のケースへのアポ無し訪問を終えた私は、とあるアパートの階段をため息を吐きながら登っていた。

 階下に無造作に不動産会社のチラシが貼られ、伸び放題の雑草が放置されたそのアパートには棚橋洋子という六十七歳のケースが一人で住んでいた。

 音符のマークが描かれた古い玄関チャイムには何重にもガムテープが貼られていて、いくら押しても音は出なかった。セールス、勧誘お断りと書かれたステッカーがすりガラスの上で鈍色に光っている。

「こんにちは、棚橋さん。洞家ですが」

「誰だい?」

「ひっ」

ドアをノックすると、郵便受けの隙間から即座に声がした。まさか四六時中ドアに張り付いているのだろうか。

「その、訪問調査に来たんですけど、家、上がってもいいですか?」

「ああ。ここでやってよ」

 少し間があって、次々と鍵を開けるガチャついた音が聞こえてくる。

 ようやく出てきたと思ったら、棚橋さんは玄関の前にどっかりと立ち塞がってしまい、仕方なく秋風が身に染みる中で立ち話をすることになった。

 棚橋さんは三和土に置かれた欠けて色褪せたバケツを引き摺って、跳ね返ってくるドアのストッパーにした。中には緑色のなんだかわからないものが大量に漬けてあって、足元からすえたカブトムシの臭いが漂ってくる。

 ちらりと見えた薄暗い部屋の中は、床一面に新聞紙が引かれていて、ゴミが散乱し足の踏み場もないほどだった。

「老齢年金の件ですけど…」

 数日前、保護費が足りないと本人から電話があって、急遽訪問する運びになったのだ。本人曰く、「年金を盗られた」とのこと。

 棚橋さんは偶数月に老齢年金を受給中だが、収入がある世帯はその分だけ保護費を差し引いて支給していた。

「あんた、前の、いん…ええ…何だったか。あいつから聞かんかったの?」

 棚橋さんは似顔絵の紙をくしゃくしゃにしたような顔で言った。

 メモを見ながら効率よく聞いていこうという私の目論見が早くも崩れ去る。

「え、何をですか」

 前担当の印念さんは、私が配属される直前に体調を崩したとかで既に退職していた。

「手先だよ、橋本の。目がぱっちりして、明るい髪で。…ああ思い出すだけで気持ち悪い。若い女が好きでなぁ」

 棚橋さんは顔をぐいと私に近づけると、値踏みするようにじろじろと睨め回す。燻んだエプロンが風で棚びき、雑巾の汁を煮詰めたような臭いが私の鼻を突き刺した。

「橋本さんって、前に言ってた…」

 前回の訪問でもちらりと出てきた謎の人物で、棚橋さんに色々と悪さをする男…らしい。

「ほんっと忌々しい」

「つまり、橋本さんからの嫌がらせは続いてる…と」

 私は忘れないように聞き取ったことを手元の紙に書き殴る。

「いい事教えてやる。地下だよ」

「え?」

「街灯の下。あそこに階段があるのさ。こっちをずうっと見張ってる。あんたにも見えるだろ?ほれ」

 棚橋さんの指の先にある歩道周辺は、確かに銀色の鉄板で覆われていた。

「あいつがあたしの年金をぜーんぶ持ってった。盗人だよ。通帳から何から名義を勝手に変えて。あたしを貶めようとして。あいつは…」

 〈あれ?〉

 街路灯の少し先をうろつく影が見えて目を凝らすと、そこに居たのは藤堂主査だった。もうとっくに帰庁したとばかり思っていたが、まだ引っ越し先の物件を探しているのだろうか。藤堂主査は何故か顔を地面にくっつきそうなほど近づけた不自然な姿勢で歩き回っている。

「ちょっとあんた、聞いてるのかい?」

「あ、すみません。本当だとしたら立派な犯罪ですから、きちんと警察に相談した方がいいと思います。でも、年金事務所には本人以外が勝手に口座変更の手続きはできないことを確認済みです。なので、口座の変更はご自身でされたんだと…」

「あたしはそんなことしないよっ!!」

 突然棚橋さんが顔を真っ赤にして怒鳴り出したので、私は危うく階段から落ちそうになった。

「す、すみません」

「振り込まれてないの!ほれ、通帳。ここ。見てみろ、ないだろ?橋本があたしの印鑑を偽造して自分の口座にいれたのさ。警察にだって調べて貰ってる!ほんっとヤクザよりタチ悪い。あたしゃ中央署の副所長さんと知り合いなんだからね!」

 棚橋さんは懐からくしゃくしゃの紙を取り出して、私に強く押し付けた。広げてみると、呪いの手紙のような不穏な文字で「うなあしちゅうおう 灰」と書き殴られていた。灰という文字が何を意味するのかはよくわからなかった。

「ですから、例え橋本さんでも、棚橋さんの同意なしに振込口座は変えられないんですよ」

 その後何度も噛み砕いて説明して、説明して、説明して、ようやく最後には理解してくれたようだった。棚橋さんとはどうも会話が微妙に噛み合っていない気がする。

「ああそうかい。でもあんた、橋本の手先じゃないだろうね?」

 そこから先は通院状況や部屋の掃除といった当たり障りのないことを聞いた気がするが、正直内容は頭にあまり入ってこなかった。


「きっと軽度の認知症か無自覚の統合失調症だね。だから洞家さんも必要以上に間に受けちゃいけないよ。彼らを本気で理解しようと思ったら、それこそ自分が同じステージに立つしかないんだから。まずは包括に連絡したらどう?」

 帰庁後、藤堂主査に挨拶がてら棚橋さんの様子を話すと、落ち込んでいる私を見兼ねてかアドバイスだけでなく励ましの言葉まで貰ってしまった。イケメンで優しくて仕事もできるとは、尊敬どころかもはや崇めてしまいそうだ。

 自分でも軽く調べてみたけど、どちらの病気も誰かに見張られたり物を取られたりする妄想や、部屋を片付けられなくなることがあるらしい。今思い返せば棚橋さんの言動とも当てはまるところがある。

 何か起きてからでは遅いと足泊地域包括支援センターに早速連絡を取って状況確認に行って貰ったが、「体は何ともないよ。ちゃんと通院してるから。血圧とかで。介護なんていらん」と申し出はあっけなく断られてしまったらしい。本人が望まない以上、余程のことがない限り包括もそれ以上は踏み込めないようだ。

 ちなみに、あの時見た藤堂主査らしき人については、「俺かい?あれから少し見回ってすぐに帰ったよ。たまには歩くのもいいものだね」と本人が言っていたので、きっと私の見間違いなのだろう。



「…ていう人がいて中々大変だったよ」

 私は中心街にある居酒屋「振り子」のカウンターで、同期である木月胎衣きづきはらいとまったりお酒を酌み交わしていた。三十三人の同期のうち、変わらず付き合いがあるのは彼女を含めもう数人だけになっていた。

「保護課って結構キツい仕事なのね」

 そう話す彼女の表情はどこか強張っている。

 彼女は人事課に配属され、職員の福利厚生を担当している。

「どうしたの、どこか調子悪いの?」

「…いや、大丈夫。そんなことより…あなたこそ平気なの?」

 彼女は言葉を選びながらゆっくりと私にそう言った。まるで自殺しようとしている人を諌めるように優しく、慎重に。

「え、別にいつも通りだけど…」

「うそ。まさか気づいてないの?」

 彼女は大きな目を更に見開いて大袈裟に驚いて見せた。彼女の目の中で輝く青い水晶玉に、いつもの眠そうな顔をした私が映っている。

「気づくって何が?」

「この街は危険なの。あちこちで良くないものが渦巻いている。あなたも少なからず感じているでしょう?その証拠に、今も昔もいなくなった職員が多すぎる」

 彼女は由緒正しき巫女の血を引いているとかで、いつも仰々しいことばかり言っていた。確かに前任の印念さんも辞めちゃってるし、同期の中には早くも休職したり退職した人がいて、社会の厳しさを痛感している。

 でも。

「私は住みやすいと思うけどなぁ」

 ここには都会のゴミゴミした感じがないし、山に囲まれ自然豊かな大地は水も空気もとにかく美味しい。大昔には大雪山付近で大規模な火山活動もあったみたいだけど、それ以降は災害が少ないのも魅力だった。

「ある意味それも才能…か」

 彼女は意味ありげに呟くと、グラスの中の真紅の液体を一気に飲み干した。店内の明かりに照らされて琥珀色だった頬が、ほんのり赤く染まっていく。

「…ねぇ、板垣さんって知ってる?」

「板垣さん?うーん…知らない。誰、その人」

 初めて耳にする名字だ。親戚や友達にもそんな人はいない。他の部署にいる先輩だろうか。

「さっき言ってた橋本さん、昔は板垣さんって呼ばれてたらしいわ」

「えっ」

 橋本さんが板垣さんだった?ええと、つまり、婿養子になったとか、親が離婚したとか?そもそも昔の橋本さんをなんで彼女が知ってるんだろう。

 …ダメだ、アルコールのせいで頭がうまく働かない。それ以上聞こうとしても、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべてはぐらかすだけだった。

「ふふっ。あなたはいつまでもそのままで居てね。私は引き続き人事課でこの町の歪みを調べるから」

 彼女は別れ際、私に小さな女のマネキン人形をくれた。何でも、とある御神木から作られたとかで御守り代わりに持ち歩くといいそうだ。

「はぁ。ありがとう」

 彼女の言ってることは時々よくわからない。でも、私のことを心配してくれるのは嬉しいな。



 次の日、出勤してすぐに棚橋さんから電話があった。

「あんた、昨日の話どうなったの。早くお金返してよ」

 どうやら私と話したことをもう忘れてしまったらしい。何度同じ説明をしても、最後には「そうかい。それで、あたしのお金は?」と結論が戻ってしまい、一時間以上も同じやり取りを繰り返した。

 同じ係の井道佐和李いみちさわりさんならそういう時、「あのね、もう堂々巡りだから切るからね。これ以上はもう話すことないから」とか言ってスパッと電話を切るんだろうけど、そんな勇気を私は持ち合わせていなかった。できることなら分かってもらいたいし、むしろ棚橋さんをもっと怒られて拗らせてしまう未来しか見えてこない。

「あのですね、先ほども言いましたが、他人が勝手に受給口座を変えることはできないんです。だから」

「あたしをバカにするんか!」

 電話口からでも周囲に漏れ聞こえるほどの音量で棚橋さんが怒鳴り散らし、周囲の視線が一斉に私に突き刺さった。

「あんたみたいなのはさっさと橋本にふられてしまえ!」

「洞家さん、ちょっと」

 隣にいた鳥狛礼司SVとりこまれいじスーパーバイザーが自然に対応を代わってくれる。

「どうも、洞家の上司の鳥狛です。ああ、はいはい。聞いてますよ、お噂はかねがね。あの橋本さんですよねぇ」

 保護課にいると毎日のように理不尽なクレームを目にするけど、いざ自分が当事者になると、まるで宇宙人のように理屈が通じない怖さがあった。見た目は同じ人間だし言葉も話せるのに、会話の意味を理解していないというか。棚橋さんと話をしていると、正しいはずのこっちの足元がふわふわしてくる。

「あはは。まあそうですよね、橋本さんにも困ったもんだ。今度しっかりウチから言っておきますよ」

 それなのに鳥狛SVは棚橋さんとすぐに打ち解けていて、その話術を私も見習わなければと強く思ったのだった。



「あんたと話しても無駄だわ。市長さんに手紙持ってくからね!」

 その日も朝から議論が堂々巡りをした後、そう捨て台詞を吐かれて電話を切られてしまった。

 鳥狛S Vが対応してくれてからも棚橋さんの電話は収まるどころかむしろ頻回になっていて、毎日電話に出るのも気が重かった。

 今日の対応が終わって安堵したのも束の間、棚橋さんが本当に来庁してしまったと聞いて驚きを通り越してその行動力に敬意を表したいくらいだ。

 市民課の窓口に茶封筒を押し付けてすぐに帰ったらしい。私に引き継がれた手紙は燻んで所々黄色い染みがついていて、橋本さんへの恨み辛みをみっちりと綴りつつ、最終的に私への怒りで締められていた。

「かねかえさんとふられるぞ」


「外勤行ってきます…」

「事故らないでね~」

 市長へ手紙を出されたからには、少なくともこちらも回答文章を作成する必要がある。そこまでいく前に理解を得られなかった自分が情けない。

 私は気落ちしつつも、足泊地区へと定例の訪問調査に向かった。担当ケースは他にもいるし、棚橋さんだけに時間を割く訳にはいかないのだ。

「お、もしかしてこれから外勤?良ければ乗せてくれると助かるなぁ」

 公用車に乗り込む直前、手に大きな紙袋を握りしめた藤堂主査に偶然声をかけられた。

「ぜひお願いします!」

 ほんと、登場のタイミングまで神だなこの人は。


「ははは。行動力あるね、そのケース。そのエネルギーを他に活かせば凄いことができそうだ」

 運転席で少年のように無邪気に笑う藤堂主査を横から眺めているだけで、不思議と気持ちが軽くなる。私も藤堂主査のように常に余裕を持って仕事に臨みたいものだ。

「結局、何が正解だったのかわからなくて…」

「難しいよね。特に精神疾患はさ、関わり過ぎるのも良くないんだ。依存されちゃうからね」

「じゃあ、井道さんみたいに早めに切り上げるのが正解ですか?」

「いや、放っておくと自傷や他害の危険性もある。かと言って相手の思いを傾聴するのにも限度があるよね。だから、上手く聴いて、適切な関係機関に速やかに繋ぐ。ケースワーカーにできることは多くないよ。その辺のバランスが大事なんだ」

「はぁー、ためになります。親身になるのが必ずしもいい訳じゃないんですね」

 私はその言葉ですっと胸のつかえが下りた気がした。いきなり実践して上手くいくわけじゃないけど、少なくとも目指すべきところは分かった訳で。

「おっと」

 ごとっ。

 悪路で車が大きく振られ、車内にくぐもった音が響く。振り向くと、後部座席に置かれた赤い紙袋がドアにべったりともたれかかっていた。

「あの紙袋って何ですか?」

「ああ、手土産だよ」

「手土産」

 紙袋の下のシートはぐっしょりと濡れ、どす黒い染みを作っている。そういえばさっきから車内が生臭いから、中身は生ものなのかもしれない。でも、公務員が手土産っていいんだっけ?

「あれ、そういえばここって」

 話に夢中で気が付かなかったけど、いつの間にか棚橋さんの家の近くを走っていた。少し先で例の地下室の入り口が鈍い輝きを放っている。もしかして私を先に降ろしてくれるんだろうか。

「あの」

「関わり過ぎるとさ」

 藤堂主査は唇の前で人差し指を立て、私の話を遮った。いつもの優しい表情なのに、今は随分と影が濃く見える。

「どうなると思う?」

「え」

 その瞬間、銀色の鉄板が私の目を眩ませて、私は思わず顔を背けた。

 次に気づいた時にはもう、目の前に電柱が迫っていて、それなのに藤堂主査はアクセルを勢いよく踏み込んだ。視界の端で棚橋さんが満面の笑みで首を左右に振っている。

「魅せられちゃうから」

 どんっと激しい衝撃があって、私はフロントガラスに頭から突っ込んでそのまま意識を失った。



 かちっ。

「ん…」

 磁石が吸い付くような音がして、私は薄暗い部屋で目を覚ました。コンクリートのひんやりとした感触が気持ちいい。壁にかけられた蝋燭の柔らかな灯りが、天井付近の闇を朧げに照らしていた。

 壁際には女性のマネキンがずらりと並べられ、その首がゆらゆらと左右に揺れていた。並んだ間隔が狭いからか、傾いた拍子に隣の頭どうしがかち合って乾いた音を立てる。

 かちっ。

 家にも昔、そんなおもちゃがあった気がする。

太陽電池でずっと動いてる花のやつ。あれ、単純なのに何故か目が離せないんだよなぁ。

 かちかち。

「…ようやく。ようやくだ!」

 奥の方から藤堂主査の興奮した声が聞こえてくる。私は半身を起こすが、どうにも足に力が入らない。諦めてそのままの体勢で声の方に目を凝らすが、目がまだ慣れないせいか部屋の奥ではどっぷりとした闇が蠢いていた。

 蝋燭の灯りでてらてらと妖しく輝くマネキン達が、私に優しく微笑みかけている。あそこに並びたいと思ってしまう程に彼女たちは魅力的だった。

「これで俺を…さんにしてくれ」

 かちかちかち。

 時計の秒針と同じように、一度気にしてしまうとやけに音が大きく聞こえ、いつまでも耳にこびりつく。

 ここはケースの家か何かだろうか。窓も電気もない天井の低いワンルーム。あ、地下室か。

 いつの間にか目の前の暗がりに男の生首が浮いていた。

 藤堂主査は手に持った赤い紙袋を生首の前に乱暴に置いた。中に入った茶色の何かがばさりと揺れる。

「さあ。はやくっ!」

 藤堂主査が床を叩いた拍子に紙袋が倒れて中身が勢いよく飛び出して、私はごろごろと転がってきた彼女と目があった。大きな目はまるで木月さんみたいで、濁った瞳は生前さぞ綺麗だったことだろう。彼女は首だけだった。だからすぐに明るい茶髪をばさばさと揺らしながら暗がりに溶けていった。

 生首は藤堂主査には目もくれず、頭を左右に大きく振りながらゆっくりと私の元へ浮遊してくる。胸ポケットに入れていた私の御守りが緩やかに首を振り始め、次第に狂ったように暴れ出した。

 かちかち。

 目の前に来て初めて、男に首から下が生えていることに気づく。体に対して頭が異様に大きく、黒い上下のスウェット姿も相まって首だけに見えたのだ。

 かっちかっち。

 生臭い息が顔にかかっているのに、一向に私と視線が交わらない。男の目は左右それぞれ明後日の方向を向いていて、目も振れている。

 ばぎっ。

 ポケットのマネキン人形の首が突然折れ、からんと乾いた音を立てて足元に転がった。

「ぐむう」

 男が何かを呟いたが、不明瞭でよく聞き取れない。そのまま私を素通りすると、暗がりから彼女の首を抱えて戻ってきた。もう一方の手には釘を打ちこむドリルのような機械が握られている。

 私はいまだ起き上がることが出来ず、その様子をただ黙って見つめていた。

 男は端に一体だけ置かれた首のないマネキンの上に、手に持った彼女を無造作に嵌め込んだ。ぐりぐりと押し込む度に、彼女は発泡スチロールが擦れ合うような嫌な声で鳴いた。

 男は今度は藤堂主査の元に歩み寄ると、こめかみに無言で機械の刃を宛てがった。

「くふふっ。やあっと都市伝説の一部にぃ」

 藤堂主査はきっと恍惚とした表情で今か今かとその瞬間が来るのを待っている。そんな粘ついた声をしていた。

 機械が低く唸りを上げ、ゆっくりと刃先が回転し始めると、すぐに部屋中が生臭い匂いに包まれた。

「んんんん」

 ドリルが骨を削る甲高い音が部屋の中に反響し、私は反射的に顔を顰めた。

「おっ。おっおっ。これこれこれかっ!これがみみみ見る景色いっ。俺のっがぎっぎぎががが!」

 麻酔も抑えつける器具もないのに、男は片手だけでゆっくりと確実に頭蓋に刃をめり込ませていく。

 白目を剥いて痙攣している藤堂主査の口から、反射的に言葉が吐き出され続けている。

 生臭さはもうツンとしたアンモニア臭に置き換わっていて、私の鼻腔を絶えずくすぐった。

 かちかちかちかち。

 いつの間にか私の頭もマネキンと一緒に動いている。藤堂主査のだらしなく緩んだ口元と肛門括約筋は、私に幸せとは何かを思い起こさせる。

 かちかちぎぎがが。かちかちぐぐぐうっ。

 繰り返される言葉の断片と打ち鳴らされるマネキンの首を子守唄に、私の意識も揺り戻されて彼方へ飛んでいく。



 気づいたら私はアパートの前に立っていて、傍で電柱に突っ込んだ公用車がボンネットを歪めて笑っていた。空は少し赤らんでいて、電線に止まったカラスが私を見て高い声で鳴いた。

 慌てて係に電話すると、鳥狛S Vが開口一番、「男で良かったね~」と気の抜けた声をだして、私はなんだか可笑しくなって吹き出してしまった。

 すぐに管財課が車両を回収に来てくれて、私も念のため病院を受診してレントゲンやCTを撮ったけど幸い何ともなかった。病院で見せられた脳の断面画像も私に微笑みかけていて、私はこそばゆくてついつい首を左右に振った。

 帰庁すると、後ろから無貌主査に「だから言ったろ」と声をかけられたけど、私にはなんのことだかさっぱりわからなかった。

 カウンターはこんな時間なのにクレームを言う受給者で溢れていて、平常運転だなぁとしみじみと思う。

「俺が車に乗ってる証拠あんのかよ」

「そんなのしょうがないじゃん。私に死ねって言うの?」

「俺が藤堂さんだ!」

「腰が痛くて働けないんです…」

 記憶の網に一瞬何かが引っかかり、けれどもすぐに掬った手の隙間からさらさらと砂がこぼれ落ちるように消えていった。

 私は身に覚えのない事故の報告書を見つめて途方に暮れる。

 棚橋さんの市長への手紙と合わせて、しばらくは忙しい日々が続きそうだった。

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