第32話 母親の偉大さ
玄関で一人、沈黙を体で痛いくらいに感じる。
頭の中は色んなことがぐちゃぐちゃに交ざり合っていて、混沌としていた。
今俺がどうしたいのか、どうすればいいのかさえも考えることはできず、俺はただ黙って座り込む。
俺はきっと、間違えたのだろう。
いや、最初から間違っていたのだ。ずっと、雪音との向き合い方を間違えていた。
人の気持ちに半端な気持ちで触れちゃいけない。そんなの分かっていたはずなのに、分かっていなかった。だから俺は、こんな間違いを犯した。
「……何してんだ俺は」
呟くと、肩をぽんと叩かれる。
振り返るとそこには、穏やかな表情を浮かべた冬子さんが立っていた。
「コーヒー淹れたんだけど、飲む?」
「あ……」
完全に忘れていたが、冬子さんは今日家にいたんだった。
ということは、さっきの雪音との会話を冬子さんは聞いていたってことか。
俺が黙っていると、冬子さんが、
「温かいうちに飲んだ方がいいわよ? 温かい飲み物は、リラックス効果もあるし」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
リビングに戻る冬子さんの後に続く。
ソファーの近くのテーブルに湯気だったマグカップが二つ用意されていて、冬子さんは端っこに座り、ポンポンと隣を叩いた。
隣に座れ、ってことなんだろう。
冬子さんに促されるがまま座り、コーヒーを一口飲む。
じんわりと喉に温かいコーヒーが広がって、モヤモヤしていた心が少しだけ晴れるのを感じる。
冬子さんは俺を見てふふっと笑った。
「ごめんなさいね、康太くんには迷惑ばっかりかけて」
「いやいや、そんなことないです。むしろ俺が、兄として何もできてないから……」
「そんなことないわ。康太くんは雪音のお兄ちゃんとしてよくしてくれてる。ただちょっと、雪音が過剰に懐きすぎちゃったのがあれだったわね」
「あはは……」
「雪音はね、昔から男の子によく好かれる子だったんだけど……ほら、お父さんを小さい頃に亡くしてるから、男の人に全然耐性がなくて。何なら苦手なまであって、よく嫌だって言ってたわ」
冬子さんが懐かしむように言う。
「康太くんも知ってると思うけど、雪音が不登校になった原因も男の子が関係してるし、普通の子よりも色恋を嫌悪してるのよ、雪音は。その分、何も知らない」
何も知らない。
いや、雪音は何も知らないどころか嫌悪している分、恋愛の嫌な部分だけを知っていると言える。
「だからその反動で、理想的な男の子に出会って、重い愛を持っちゃったのよね」
「理想的な男の子……」
「そうよ? だって、雪音にとっては康太くんは、ヒーローみたいなものだもの」
小さく笑う冬子さん。
俺は雪音の言う通りヒーローなのだろうか。こんなにも悩むヒーローが、果たしているのだろうか。
「雪音の母親としては、何康太くんを困らせてるんだ! って怒ってやりたいんだけど、それは康太くんの望まないことでしょう?」
「それはそうです! 別に雪音は、悪いことしてるわけじゃないですから」
そうだ、雪音は別に悪いことをしているわけじゃない。
たとえ俺が雪音の義理の兄でも、好きになってしまうことは悪いことじゃないんだ。
「それに、私も一人の元女の子として、雪音の気持ちはわかっちゃうから」
「冬子さん……」
「あっ、ごめんなさい。この年で元女の子とか言っちゃうの、痛かったわよね? 私おばさんなのに……恥ずかしいわ」
「あははは……」
大丈夫ですよ、冬子さん。
冬子さんは正直二十五歳って言われても信じる見た目年齢なので。
「とにかく、私が言いたかったことはね、二人の母親として、どうなろうとも二人が幸せになってくれればそれでいいってこと」
こほんと咳ばらいをし、冬子さんが続ける。
「もし康太くんが雪音のお兄ちゃんでちゃんといたいなら、はっきり言って傷つけていい。むしろそうした方が二人のためだわ。だって恋ってそういうものだし、そこに兄弟とかは関係ない。もちろんその後は私に任せなさい? 絶対に二人は兄弟として幸せにする」
冬子さんの力強い言葉が胸にずしりと響く。
「でも、もし康太くんが雪音を一人の女の子として幸せにしたいなら――つまり、雪音の愛を受け入れるなら、迷わないこと」
「え? でも、俺たちは兄弟で……」
「そんなの関係ないわ。だって義理だし」
意外にも冬子さんはさっぱりとした性格なのか。初めて知った。
「私たちは気にしないで、二人で幸せになることは悪いことじゃないわ。絶対にね。だから、雪音の好きって気持ちに、同じ気持ちで向かって考えて欲しいわ。はい、これが私の言いたかったことでした」
ほのかに温もりを感じる太陽の光のように、冬子さんが穏やかな笑みを浮かべる。
そしていつの間にか、俺は冬子さんに抱きしめられていた。
「冬子、さん……?」
「いいでしょ? これくらい。私たち、親子になったんだから。私なりのお母さん、させてもらうわね」
その後、冬子さんは長い間ずっとそうしてくれた。
俺は考えるのをやめて、ただひたすらに、甘える子供のように、冬子さんに体を委ねた。
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