ねこのてリラクゼーション
浮和々 梵天
ベランダにねこ
ザリザリ、ザリザリ
気付けばそんな音が聞こえてくる。半分夢の中のまま、ベッドからがばりと起き上がる。
部屋を見回すが、特に変わったところはなく、自分一人。目の前のテーブルには昨日食べてそのままの弁当容器と酒の空き缶、テレビのリモコン。その横のゴミ箱の中には、スナック菓子の袋がクシャッと詰まっている。
何時だろうと枕の横のスマホを見れば5時12分。出勤時間までもうひと眠りしようかと思ったが今日は土曜日。休日にこんなに早く起きたのは久々だ。
うーん、と唸りながら腕を上げ伸びをする。無理に眠らなくてもいいじゃないか、散歩に行ったりこのままベッドでぼーっとしたり。休日というと、いつもは昼過ぎまで寝てしまい、そこから活動を始めるため夕方になると時間を無駄にしたような悲しい気分になる。しかし今はまだ5時。とりあえずこのままベッドでごろごろして、6時くらいになったら朝飯でも食べるか。いや、冷蔵庫の中に何も無いから散歩がてらコンビニに行くのもいいか。その後はゲームして。寝起きにも関わらず計画がすらすらと立っていく。
眠気はまだ頭の底にゆったりと溜まっているが不快ではない。早く起きただけなのに、そろそろ30代への階段を登ろうとしている彼女なし独り身男性の心はなぜか明るい。
とりあえず喉乾いたなと、ベッドから降りるとつま先に固いものが当たる。昨日途中で放り出したゲーム機だ。前はよく怒られてたな、と思い出し慌てて首を振る。もう美弥とは別れてかなり経った。いつまで引き摺るんだ。とりあえずテーブルの上に無造作に置く。すると、また音がザリザリ、ザリザリと聞こえてきた。今度は音の出処がすぐ分かった。カーテンの向こう側、窓からだ。
そういえば昨日は夕方から風が強く吹いており、それに加えて夜は雨がかなり降っていた。雷も落ちたような気がしたが、これは夢の記憶かもしれない。
何かが飛んできて引っかかっているのかもしれない。とりあえず水を飲んでから確かめて見るかと部屋を出ようとすると、またザリザリと音が聞こえてきた。まるで出ていくなと言っているかのように、今度は長く長く聞こえてくる。
まだ風が強いのか、物自体がでかいのか、それとも何か生き物か。ゆっくりと近づき、これまたゆっくりと慎重な手つきでカーテンをめくる。
いた。
白の中に所々茶色が混じった一匹の猫。小さな手足でガリガリと網戸を引っ掻いている。が、その動きも止まる。どうやら右の前足の爪が引っかかってしまったらしい。
「あーちょっと待ってろ」
急いで窓を開ける。むっと熱気が押し寄せる。暦の上ではまだ夏は先だが、ここ最近気温が高い日が続いている。ベランダには降った雨のせいで所々水が溜まっている。靴を持って来ようかと思ったが、にゃーとひと声鳴かれると部屋に戻りづらい。裸足のまま出る。
「あんまり暴れるなよ」
左前足の動きが止まった。一瞬言葉が分かるのかと感心したが、よく見ればこちらも爪が引っかかったようだ。
「どうやって取るか……」
とりあえずお腹の当たりに手を添え持ち上げると、爪は網戸から簡単に離れた。
その瞬間、猫が身動ぎをし手の中からするりと脱出する。着地したのは、部屋の中だ。
「あ、おいちょっと待て」
そんな声を無視し、猫は部屋の中を歩き回り始める。慌てて追いかけるが、猫は歩みを止めない。手を伸ばしてもさっと避けられてしまう。
バスタオルでもかけて捕まえるか。でもタオルは風呂場。悩んでいると猫の動きが止まり、すっと屈む。
「だめだ!」
テーブルに飛び上がろうとした猫は、その言葉に驚き、バランスを崩しゴミ箱の中に頭からすっぽりと入った。恐る恐る覗くと一生懸命に足を動かして出ようとしている。が、顔にスナック菓子の袋が当たり、思うように行かないようだ。あまりにも暴れるため、袋に残っていた細かいカスが頭についている。
「仕方ないな」
ゴミ箱ごと抱き抱えて、風呂場へと向かった。
「暴れすぎだろ」
ゴミ箱から出した時に右手を、頭についている菓子の残りカスを払った時に左手を、シャワーをかけた時に飛び上がり顎を引っかかれた。
しばらく暴れ回っていたが、タオルを持って来ようと浴室のドアを開けた瞬間に勢いよく出ていった。慌てて追いかけると寝室に入っていき、しばらく狭い空間を走り回った後ベッドへ上がった。
「おい、お前は外に帰ろよ」
そんな言葉を理解したのかしていないのか、猫はつーんとそっぽを向きながらちょこんと座り込んでしまった。しかし、よく見れば少し震えている。
「はあ、せっかくの休みだったのに」
したたる水をどんどん吸っていくベッドシーツを見ながら、持ってきたバスタオルを猫の横に広げる。こうなっては仕方がない。二度寝も出来なければこの後ベッドシーツの洗濯もしなければならない。
出勤用のカバンから財布を取りだし、スマホと一緒にスウェットのポケットに入れる。膝あたりが濡れているが、コンビニまで歩いているうちに乾くだろう。
窓は開けたまま、寝室を出て扉を閉める。サンダルを履いて部屋を出た。
首の汗を拭いながらコンビニに入ると、店員がいらっしゃいませと気の抜けた声を掛けてくる。おにぎりを2つとメロンパン、紙パックのコーヒー牛乳と水をカゴに入れる。レジに行く途中、ちらりとペットフードが目に入る。立ち止まったが考え直す。今後居座られたら大変だ。会計をして店を出る。暑い。買ったばかりの水を開け、1口飲んだ。
もう出ていったであろう猫を思い出す。シャワーで洗い流すと、耳だけは茶色のまま、身体は真っ白になった。子猫まではいかないが身体は小さめ。目は鋭く愛想はあまりない。オスかもしれない。
どうやってベランダに辿り着いたのか。あの部屋は3階で周りに樹木もない。風で飛んできたのか?しかし部屋の中を縦横無尽に駆け回っていたし、手にも顔にも引っかき傷をつけてくれた。猫自身に怪我は無いように思えた。
でも、もうそれも関係ない。部屋に戻ったら窓を閉め、朝飯を食べてベッドシーツを洗う。その後から二度寝なりゲームなりすればいい。
膝はまだ湿っていた。散歩は諦め、アパートに戻る。
「ただいま」
以前の名残で誰もいない空間に声を掛けてしまう。
恋人の美弥と別れて既に3ヶ月。2年付き合い半年同棲した。美弥はミニチュアダックスフンドを飼っており、ペット可能なアパートを探しここに決めた。2人と1匹、中々楽しい生活だったが、その内互いに仕事が忙しくなりすれ違いが多くなり、喧嘩が絶えない毎日に嫌気が差したのか、美弥は黙って荷物をまとめ出ていった。いきなり静かになった空間を前に、最初の1ヶ月はぽっかりと穴が空いたようになり、何も手につかないような生活を送ったが、仕事に専念するうちに気付けば3ヶ月経っていた。もう大丈夫だと思っていたが、なぜか最近になって寝起きに隣に美弥がいるのではと錯覚したり、アパートに帰ってきてただいまと言ってしまったりすることが増えた。疲れているのかもしれない。朝飯を食べたら洗濯する前に床で寝るか。ビニール袋をがさがささせ、寝室の扉を開けた。
「……美弥?」
ベッドの上で、人間がタオルにくるまっている。真っ黒な髪は肩ぐらいまであり、少し湿っているようだ。数歩近づいたが、すぐに後ずさる。女性だが、美弥では無い。そしてバスタオルの下は裸のようだ。
なんで人?しかも裸?ベランダから入ったのか?でもここ3階だぞ?空き巣か?でも裸だぞ?いや待て不法侵入にはなるか?警察か?
スマホを取りだし、110番を押そうとする。が、すんでのところで手を止め、頭を抱える。
裸の女性がベットで寝てますって言うのか?こっちは男だし最悪疑いの目が向かないか?
「あの〜」
お前が連れ込んだんだろと言われたら?否定できる証拠はあるか?
「おーい、聞いてます?」
こっちは猫のために窓を開けただけで……そうだ猫だ。あの猫がいれば説明がつくんじゃないか?手も顔も引っかかれているし、風呂場だってそのままだ。
「ちょっとくらい話を聞いてくれたっていいじゃないですか!!」
手首をがしっと掴まれ、女の顔がぐいっと近づく。真っ白な顔にやや切れ長だが大きい目と長い睫毛、形の良い両眉の間には皺が縦に2本。つんと上を向く小ぶりな鼻に、ぷくりと真っ赤な唇。間からちらりと八重歯が覗く。
少し下に視線を向ければ、久しく生で見ていなかった膨らみが……慌てて目を背ける。
「どこ行ってたんですか!全然帰ってこないじゃないですか!このままどこか行ってしまったらどうしようって、心配したんですよ!」
握られた手をぶんぶん振られる。すると、様々な所がぶんぶん揺れる訳で。
「分かった!分かったから!」
天井を見上げながら叫ぶ。
「頼むから服を着てくれ!!」
「……で、あんたは何者なんだ?」
声を掛けた先で、女がぶかぶかのTシャツとジャージを着て、メロンパンを頬張っている。
「えーっとですね……ごほっ……うっ」
急に苦しみ出した相手の背中を叩き、ストローを指したコーヒー牛乳を渡す。ジューっとひとしきり吸い込むと、このふかふかも美味ですが、これも最高ですね!と目を輝かせている。
「えっと、なんでしたっけ。どこまで話したかな」
「まだ何も始まってない」
「あぁ、そうそう……私はここの近くに住んでまして、毎日ふらふら気ままに生きてたんですよ。ほら、意外とここら辺のの人達って優しいところあるじゃないですか。たまにこれ食べてーなんて言って色々くれたり、可愛がってもらったりして」
「いや、知らないけど」
「えー、あんまりご近所付き合いが無いタイプなんですね。まあ、それは置いといて。んで、昨日の夕方。雨が降ってるから、止むまで家に居たらって声を掛けてくれた人がいたんですよ。それで朝方までお世話になりまして。雨も止んだし、そろそろ出ようかなって思っていたら、その人の部屋の窓が開いてまして。好奇心に勝てず、そこから出てふらふらとしてたらなんと落ちてしまって!でも、無事に着地したのがここのお部屋のベランダだったんですよね」
「……全く状況が分からないが、落ちた先のベランダの部屋の窓がたまたま開いてたから、入ってきたって訳か?」
「いえいえ、全然違いますよ!そもそも、窓を開けてくれたのはあなたじゃないですか!」
「……は?」
「とりあえず閉まってた窓を開けてもらおうと、ざらざらの窓をガリガリしたり鳴いてみたりしてたら、何故か身動きが取れなくなってしまって。そんな時にあなたが窓を開けてくれて、さらに抱き抱えてくれて解放してくれたんじゃないですか」
「いや、待て、そんなことは」
「まあ、良かったのはそこまでですけどね。喜んで走り回ってたのに大声を出したり、なんかよく分からない箱の中に閉じ込めたり、そのままどこかに連れて行って水責めしたり……挙句の果てには、水に濡れて震えてる私を置いてどこかに行って!本当に神様がいなかったらどうなっていたことか」
「いや、そんなことないだろ。だってそうしたらあんたはねこ……え、神様って言ったか?」
「はい。あなたが出て行って、しばらく経っても全然帰ってこなくて、どうしようと悩んでいたら、光に包まれた丸い何かが目の前に現れて……あ、そうだった!大事な事を伝え忘れてました!」
最後のひとくちにはやや大きすぎるメロンパンを口の中に押し込む。ごくん、と喉が鳴った後、パンかすが付いた手で腕を掴まれる。
「耳かきさせてください!」
返す言葉が見つからない。たっぷりと時間をかけて、声を振り絞る。
「……いやだけど?」
「なんでですか!」
「いや何もかも分からないままだし!しかも耳かきって!唐突すぎるだろ!」
「だって神様がくれた知識の中で、1番耳かきの情報量が多かったんですもん!」
「神様がくれた知識?」
「ここにいた人の記憶みたいで、髪が長めで、足の短いだっくす?ふとん?って犬を飼ってて、耳かきしてました!」
「……それはみや……元カノだよ」
「耳かきをすると、あなたが幸せな表情をして、そこで記憶が途切れるんです!その表情をさせたら、絶対戻れるはずです!」
「戻るはずですって、神様に戻る方法を説明してもらってないのか」
「全く!記憶だけどんどん流れ込んできて、気づいたら神様はいませんでした」
「大丈夫なのか、色々と」
「ま、とりあえずお腹も膨れたことだし、私も早く元の身体に戻りたいんで。させてくれますか、耳かき!」
「断る」
「えーなんでですか!人助け、いや猫助けだと思って」
「待て、一つづつ確認させてくれ」
深呼吸をして今までの話を整理する。
「あんたは猫で」
「はい」
「神様?の力で人間にしてもらい」
「はい」
「美弥の記憶をもらって」
「みやって人かは分からないですけど、記憶はもらいました、耳かきの」
「俺に耳かきをするのか」
「はい。あなたを癒したら恩返しになって、恩返しが完了したら元の姿に戻れるはずです!」
情報をまとめてみたものの、にわかには信じ難い。28年生きてきたが、幽霊すら見たことがないのに。ここに来て猫が人間になった?神様?意味が分からない。やっぱり警察に連絡するか?しかし……
「耳かきはした事あるのか?」
なぜか尋ねてしまっている。初対面の、素性の知れない相手に五感のひとつを担う大事な器官を委ねるのか。
「いえ!ないですが、記憶はあるので大丈夫かと」
「記憶って……」
「じゃあ、再現してみましょう。あ、その前に手を綺麗にしたいです。洗ってきますね」
「あぁ、どうぞ……って場所分かるのか?」
「はい。記憶もありますし。そういえばさっき連れていかれましたしね」
たたっと部屋から出て行ったため、慌てて追いかける。迷うことなく、洗面台に辿り着き手を洗っている。
「これで良し!それじゃあ早速しましょうか。耳かきどこにありますか?」
「……ない」
「えー絶対嘘じゃないですか。うーんと、耳かきは……あ、テレビの前のピンクの小物入れの中?」
ごくり、と喉が鳴る。なんで分かるんだ。
「ないって言ってるだろ」
「じゃあ、自分で取ってくるのでいいでーす」
するりと脇を抜け、ひとりでリビングに行ってしまう。しばらくするとあれぇ、と声が聞こえる。ゆっくり歩いてリビングに向かう。
「箱が無い」
「ほら、これだろ」
部屋の隅の本棚にあるペン立てから取った耳かきを差し出す。
「小物入れは捨てた。男部屋にピンクはおかしいだろうと思ってな」
「そうですかね。可愛いと思いますけど」
「本当に美弥の記憶があるのか」
「多分そうだと思いますけど。ね、やっぱり試してみましょうよ」
耳かきに頬擦りをしながら、にっこり笑った。
「で、なんて呼べばいいんだ?」
「意外と頭って重いんですね……え、何をですか?」
部屋に戻りベッドに上がり、膝の上に寝るように指示された。1度断ったが、膝以外だと記憶にあまりないから感覚が分からないと言われ、渋々応じた。ジャージ越しとはいえ、柔らかさが感じられ背中がむず痒い。
「あんたの名前だよ」
「うーんそうですね。前はニャンちゃんとかタマとか、あとエリザベスなんてのもありました」
「じゃあチャシロで」
「捻りがない。そもそも今黒髪なんですけど」
「どうせすぐ戻るんだろ」
「確かに、それもそうですね」
美弥がいたあの頃も、こうやって他愛ない会話を弾ませながら、膝枕で耳かきしてもらった。よく途中で寝落ちてしまい、肩を叩かれ起こされた。
「あなたのことは、なんて呼べば良いですか?記憶の中だと『ゆう』って」
「いきなり名前呼びはだめだ。苗字、瀬田なら許す」
「はいはーい。じゃあせた」
「なんで呼び捨てなんだ。瀬田さんだろ」
「細かいですねー。じゃあせたさん、始めますよ」
がさん、といきなり耳の穴に耳かきが入ってくる。思わず甲高い悲鳴をあげると、チャシロも驚いたようで耳かきはすぐに出ていった。
「記憶あるんじゃなかったのか!」
「いやー再現しようとしたんですけど、加減が全然分からなくて」
えへへと頭をかきながら笑うチャシロから耳かきをひったくる。
「こんなのやめだ、やめ」
「ごめんなさい!練習したら上手くなると思うんです」
「上手くなるまでに何枚の鼓膜を破るつもりなんだ!」
「えー、うーんと。あ、それじゃあ耳もみもみしますよ」
チャシロが両手の指をバラバラと動かす。
美弥はよく耳掃除の前に耳のマッサージをしてくれていたが、その事だろうか。
「その記憶があるのになんでいきなり耳かき突っ込んだんだよ」
「ついさっき急に思い出しました。まだまだふんわりとしか思い出せない記憶も多いようで」
勘弁してくれ。文句を言う前にガバッと頭を掴まれ強制的に寝かされた。
「まあまあ、とりあえず揉むだけなら怪我することも無いじゃないですか」
「信じられるか」
「騙されたと思って」
「こんな状況でよく使えるな、そんな台詞」
年甲斐もなくじたばたと暴れると、どこにそんな力があるのかチャシロが押さえ込んでくる。しかしこちらも大事な耳を、鼓膜を犠牲にするわけにはいかない。しばらく攻防が続いたが、次第に体力も減りついに動きを止めた。
チャシロは満足そうにこちらを見下ろした。
「はい、せたさん、始めますよ」
ふわり両耳が包まれる。ごー、っとやや高めの音が聞こえる。しばらく手で耳を全体を温められると、人差し指と親指とで耳たぶを摘まれる。細いけれど柔らかい指先で、ほとんど力が入らないまま、すりすりと擦られる。緊張していた分、その優しい触り方で少しほっとする。圧はあまり無いものの、温かい指先で触られれば気持ちが良い。
「力加減どうですか?」
美弥も、マッサージをする時は毎回力加減を聞いてきた。毎回の事だから、そっちの好きなようにやってくれと伝えた事があったが、その日によって違うでしょ、と笑いながら返された時もあった。
「……もう少し、強めで」
ここは止めろというタイミングだったはずなのに、気づけばお願いをしている。徐々に圧がかかり、耳たぶをくりくり捏ねられる。
「耳全体を揉んでいきますね」
耳たぶから段々と移動していき、全体を満遍なく揉まれる。血流の流れが良くなっているのか、耳全体が温かくなる。
「少し引っ張りますね」
最初は上に、次に下、横とくにくにと優しく引っ張られる。美弥と比べると少し力が優しすぎ気もするが、これはこれで心地いい。
「もう少し強めの方がいいですか?」
そう言いながら、また耳全体を手のひらが包む。ほんのり温かいせいか、それだけですでに気持ちがいい。体温を感じる事が、こんなに安心するなんて。久しぶりの感覚に、どんどん緊張がほぐれていく。
ほんの少し耳を手で温めた後、付け根からぐりぐりと大きめに回される。
「もう少し……いや、これで充分……」
瞼が段々と重くなっていく。指先がまた耳たぶを優しく摘む。しばらくくにくにと揉んだ後、人差し指がゆっくりと耳の穴の中に入る。くるりくるりと小さく円を描くように動かれると、ガサゴソとした音の間に、指先に血が流れる音が低く響く。美弥もよくやっていた。美弥は、もっとしっかり耳の中に指を入れ込むため、外の音が遮断され、指先の音以外聞こえなくなったのを思い出す。
「耳がぽかぽかして温かくなってきました。気持ちいいですか?」
チャシロの声が遠くから聞こえる。あぁ、と簡単な返事もままならず、ずるずると微睡みの中に沈んでいった。
ぱちっ、と目を開けると、天井が見える。頭の下は枕。寝てしまったのか?さっきのマッサージは夢だったのか?いや、さっきどころではなく、何もかもが。
「あれ、起きました?」
ぴょこんとチャシロが覗き込む。夢じゃなかったのか。
「途中まで膝の上で寝てたんですけど、自分で寝返りを打って膝から落ちてましたよ。その後また寝返りをして、ちゃんと頭を枕に収めてました。2回の寝返りで膝から枕へ移動するなんて、只者じゃないですね」
頭をガリガリと掻き回し、起き上がる。枕元には耳かきがころんと転がっている。
「それじゃ、続きをしましょうか!」
元気よく宣言し耳かきを握ろうとするチャシロの手を掴んで止め、耳かきを回収する。
「神様は、あんたが恩返しを完了したら元に戻してくれるはずだよな」
耳かきを奪おうとする手から逃れつつ、はるか前に感じられるチャシロの話をまた整理する。
「そうですよ!せたさんが気持ち良くなったら、恩返し完了のはずです!だから早く」
「変な言い方するな!……俺が癒されたら、恩返し完了ってことなんだよな」
「そうですってば。とりあえずもう1回寝転んでください」
「耳かきをしたら、とは言ってないんだよな」
「そうですね、そもそも神様は何も言ってませんから。耳かきの記憶が特段多いだけで」
それがどうしたんですか、とでも言うように睨みつけられる。
「あんたが俺に耳のマッサージをして、俺がその最中に寝落ちたんだぞ」
「そうですよ。グースカピーでした。いびきもちょっとかいてましたよ」
「表情はどうだった」
「それはもう、気持ち良さそうでした」
「それは癒された事にならないのか」
一瞬ハッとした表情をした後、チャシロのが腕を組んで考え込む。ぶつぶつと独り言も聞こえる。
寝る前のチャシロ記憶と比較してみたが、どこか変化しているようにも思えない。いや、そもそも神様がどうこうという話がまずおかしいので、考えるだけ無駄なのかもしれない。
とりあえず、今何時になったのかと確認するためスマホを探そうとした時、眩い閃光が目の前に現れる。あっ、と声を出す間もなく、その閃光がチャシロを包んだ。一瞬でさらに光は強くなり、思わず目を閉じた。
なんだ、本当だったのか。実際に目の前に現れた奇跡を前に、そんな簡単な感想しか思い浮かばなかった。平凡な人生を歩んできた人間にとって、目の前の光景はあまりにも衝撃的で、どうにも持ち合わせた語彙や感性で語れるものではなかった。
しんと静けさが部屋を満たす。何となく、終わったのが直感で分かる。それでも、何故か目を開けることが出来ない。
目の前には身体が白くて頭のてっぺんが白い小柄な猫が目の前にいるはず。にゃんと鳴くかもしれない。ここはペット可な物件だから、何かの縁だしこのまま飼ってもいいかもしれない。いや、飼おう。
「え、え、え……」
猫にしてはおかしい鳴き声だと思った。しかしそう鳴く猫だっているだろう。ゆっくりと目を開ける。
「え、なんで、これじゃ何も……」
目を開けた先には、猫はいなかった。
そう、猫はいなかったのだ。
「なんで元に戻れてないの!!」
涙目で叫ぶ人間のチャシロ。その頭にはぴょこんと猫耳が生えていた。
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