御手洗君のマッサージ

京野 薫

私の優雅なる週末

 6時間目の終わりを告げるチャイムが鳴り、目の前の6年1組のガキど……いや、可愛い生徒達を見回して、終わりの挨拶をすると私は心の中で深々とため息をついた。


 やっと……終わった。

 この長い一週間が。


 思えば散々な週だった。

 日曜の夜に大学在学中から8年付き合っていた彼氏に呼び出されて、いよいよか……と某結婚情報誌のウエディング特集を予習して会ってみれば、別れを切り出され。

 傷心も癒えぬ間に、月曜と火曜には我がクラスで1,2を争うほどのモテる男子を巡る女子二人の痴話げんかで、双方の父親からそれぞれ相談を受けて。


 いや、知らんがな。

 それは教師の領分じゃないし。

 何より失恋した翌日のアラサー女が何を返答するの?

「恋愛経験は沢山積んだ方がいいです。でないと私みたいになりますから!」と、でも言うの?

 ……小学生女子の恋愛に真剣に目くじら立ててる自分が泣ける。


 そこからも、書類仕事を急に教頭先生から振られるわ、運転中に追突されて新車が見るも無惨な姿になるわ、友人の惚気話に深夜2時まで付き合わされるわ、電車で痴漢に遭遇するわ。

 日曜に神社へお祓いしに行く予定だが、もう心が折れそうだ。


 そんなこんなを考えながら、生徒達が帰った後の教室で一人ぽつねんと窓の外を見ていると、突然両頬にヒンヤリとした手のひらの感触を感じ、思わず「ひゃっ!」と色気の欠片も無い声を上げてしまった。


「先生、色気無さすぎ」


 その声は……

 慌てて振り向くと、そこにはおかっぱ頭の男の子が立っていてクスクスと笑っていた。


「やっぱ御手洗みたらい君か」


「はい。御手洗瞬みたらいしゅんです。先生、大丈夫? 疲れてるね」


「ありがと。大丈夫だよ。ちょっと今週は色々あって疲れたな~って思っただけだから」


「だよね。月曜からずっと浮かない顔してたし。何かあったの?」


「大丈夫だよ。ちょっと大人の事情が色々とね……」


 そう言うと、御手洗君は口を少しへの字に曲げると唇を尖らせた。

 クラス……いや、学校でも1,2を争うくらいの可愛い顔立ちだと、怒った顔もここまで絵になるとは。

 私ももっと可愛かったら、彼氏に振られることも……いや、もうやめよう。


「子供扱いしないでよ。確かに大人の事はよく分かんないけど先生の事は……知ってるのに」


 う……

 御手洗君のその言葉に私は、顔がちょっと熱くなるのを感じた。

 まあ、そうなんだけどね……


「そろそろ帰ろうかな。御手洗君も帰りな」


 微妙な空気を振り払うように明るく言った私に、御手洗君は片手で口を隠して笑った。

いや、どこのお公家様?と言いたくなるくらい、いちいち上品だ。


「はあい、先生。じゃあ……また」


 ※


 疲れ切った帰り道の寒さは、まさに天が人類に与えたもうた試練。

 無心になって足を進める苦行を続けている内に悟りっぽい物を開いてしまいそうになる。

 車がダメになったお陰で、新車の納車まで電車と歩きで帰るはめに。とほ……


 でも、今夜はいい。

 何せ、明日からお休みだ。

 部屋でたっぷりだらけるんだ。

 そのためのウイスキーとおつまみも買い込んだ。

 それに今夜は……1週間楽しみにしていた「あれ」の日でもあるんだ。


 そんな冷え切った身体を浮き立つ心で暖めながら、何とか目指すアパートが見えた。

 ホッとしながら階段を上がって、部屋に入るとすぐにエアコンをつけて部屋を暖めながら、温かい紅茶をいれる。

 ああ……電気ケトルとエアコン発明した人はもっと歴史に名が残っててもいいよね。


 そんな事を考えながら座椅子に座り込んでいると、軽やかなチャイムの音が聞こえた。

 このタイミングは……


 軽くため息をつきながらドアに向かい、のぞき窓を見た私は若干の気恥ずかしさと共に心臓が心地よく高鳴るのを感じながら、ドアを開けた。


「相変わらず、私の帰って来るの把握してるんだね、御手洗君」


 ドアの前に立っていた御手洗君は、また唇を拗ねたように尖らせて言った。


「隣でガチャガチャ物音がして明かりが点けば誰だって分かるよ。人をストーカーみたいに言わないで」


「ごめん。からかっちゃった」


「あ、認めた。じゃあ……もういい。今日はしてあげない」


 え!? いや……それは……いやだ。

 だって、どれだけ楽しみにしてたか……


「ごめんなさい。もう言いません。なので、お願いします」


 早口でいいながら頭をぺこりと下げると、御手洗君は両手で口を押さえてクスクスと笑った。


「先生ってほんと嘘付けない人だよね。……じゃあ、特別に許してあげます」


 彼はそう言うと、カーペットの上に正座すると隣をポンポンと叩いて言った。


「はい。じゃあここにうつ伏せになって」


 彼に言われるままにうつ伏せになると、御手洗君は「ごめんね」と言って私に跨がる。

 そして、背中を両手で優しく、それでいて力強く揉み出した。


 ああ……いい。


 彼の手の動きに合わせて、身体のよどんだ血が元気に流れ出す。

 そして、首から頭にかけて心地よい痺れとでも言おうか……何とも言えない気持ちよさに、無になってしまう。


「先生、凄く背中凝ってるね。うわ……肩とか、石みたいだ」


 御手洗君の驚きに満ちた声も、耳にくすぐったく響く。


「ん~そうかな」


 あまりの気持ちよさに間延びした返事を返すので精一杯だ。


「これだけ凝ってたら疲れも溜まるよ。前教えたストレッチやってる? 絶対やってないでしょ」


「ん~やって……ない。あ、そこもっと触って」


「知ってる? 先生クラスの男子から結構モテてるんだよ。アイツらにこの姿見せてやりたいよ」


「ダメ~」


「僕だって頼まれてもヤダよ」


 そう。

 毎週末に自宅で彼、御手洗君からしてもらうマッサージ。

 これこそが、私の週末一番の楽しみ。

 なにせめっぽう上手なんだ。

 で、なんでそんな関係になったのか。


 元々、私が住んでいたアパートの隣に御手洗君一家が引っ越してきたのが切っ掛けだった。まさか、学校の生徒が。

 かなり驚いたし、引っ越しも考えたけど止めた。

 なぜなら、引っ越して以降御手洗君の両親の声はほとんど聞こえなかったから。


 両親が離婚してからは女手1つで育てているらしくて、お母さんはいつも帰りが夜中近くになっている。

 夕食も母が付かれているだろうから、と自分で作っていると聞き、それを話す彼の表情……それを見て引っ越しは頭から消え去り、代わりに夕食を作って持って行くようになった。


 そんなある日、夕食を届けに行って帰ろうとする私に御手洗君は言った。


「先生、身体凄く固そうだね。疲れてる?」


 頷いた私に、ニンマリと微笑んだ御手洗君はマッサージを申し出た。

 せっかくの好意だし、と期待せずに望んだ私は……彼の虜に……いや、彼のマッサージの虜になったのだ。


 ※


「先生、最近表情もキツいよね。多分頭皮も固くなってると思うから、揉んであげるね」


 彼は優しく微笑みながらそう言うと、私を座椅子に座らせて背中から頭に手を回して、頭を揉み始めた。

 おお……これは……

 何というか……脳みそを洗ってもらってるみたい。

 嘘……きもち……いい。


「あ、いい感じだね。柔らかくなってきた。じゃあ……ちょっと失礼」


 そう言うと、彼は前に回ると私の頭を抱きかかえるようにして、後頭部から頭頂部を揉んでくれた。

 幸せ。

 そんな心地よさに浸りながら、ボンヤリと目を開けると丁度御手洗君の胸が見えた。


 ボンヤリする頭でふと思った。

 これって……抱きしめられてる!?

 一度意識するとダメだ。

 何というか……小学生男子特有の、土っぽさと汗の混じったい匂いが鼻腔に飛び込んでくる。クラスの男子達の匂いは慣れてなにも感じなくなってたけど、御手洗君の中性的外見から感じるものは……ドキドキする。


 え?

 私って……え?

 心臓が酷く大きな音を立てて、顔が赤くなってくる。


「先生? 大丈夫? 何か……顔、赤いけど。それに熱くない?」


 御手洗君は慌てた様子でそう言うと、私のおでこと自分のおでこをくっつけた。

 あの……今はダメ……です。


「やっぱり熱い。ゴメンね……体調悪いのも知らなくて、無理矢理」


 御手洗君は泣きそうな顔で言うと、ぺこりと頭を下げた。


「今日は帰るね……あ、その前にキッチン借りるね」


 そう言うと、彼はいそいそとキッチンに向かって、何やら作り始めた。

 いい香りだな……とボンヤリ見ていると、彼はあっという間にお粥を作ってくれた。

 ご丁寧にタネを取った梅干しまで入っている。

 しかも、暖かいお茶まで入れてくれて。

 君、いい奥さんに……じゃない、いい旦那さんになるよ。


「……美味しい」


「良かった。今日明日はゆっくり休んでね。じゃあ僕も帰るよ」


「ごめんね。こんなにしてもらって」


 流石に「君に照れちゃって顔が赤くなっただけなの」なんて言えない。


「気にしないで」


 御手洗君はでそう言うと、立ち上がって玄関に向かった。

 そして、ぺこりと頭を下げてドアを開けた後で、私の方をチラッと振り向いて言った。


「明日、お見舞いに来るね。ご飯作るよ」


 どこか寂しそうに微笑みながら、彼は帰っていった。

 ごめんね、誤解させちゃった。


 あ……って言うか、明日あの子来るならお風呂入っとかないと。

 私、休みの前の日はお風呂入らない主義だけど、そうも言ってられない。

 せっかくだから、掃除もしておこう。

 休みはずっと下着姿でいたい人だけど、さすがにダメだ。


 そうして、翌日朝からシャワーを浴びた後、気合入れて掃除してたら、家に来た御手洗君に見られてこっぴどく怒られた。

「風邪、酷くなったらどうするの! 馬鹿」と。


 ああ……私、先生なのに…… この子は生徒で……小学生なのに。

 私なんで御手洗君に会えてこんなに喜んでるの?

 違う違う!

 彼のマッサージを楽しみにしてるだけ!

 本当に!


 そう思いながら顔を上げると、彼がまた口をへの字にして唇を尖らせている。

 ああ……可愛い。

 って……違う違う! 

 もっと毅然として! 先生らしく。彼と私は生徒と先生なんだから!

 さあ、言って!


「ねえ……マッサージしてくれたら……風邪治るかも?」

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