第9話 octo

 花乃の様子と言葉に、何に脅えているのか斎は理解する。昨日、兄は人が変わったようだと言っていた。あの別人のような天弥に脅えているのだ。

「特に変わりはなかったが」

 花乃の表情が落ち着き震えが少し治まりだす。

「何か気になることでもあるのか?」

 あの、別人のような天弥について何か聞ければと思い、質問を投げかける。その問いに少しの間を置き、口を開いた。

「あ、いえ……、昨日、兄が怒っていたので、先生に迷惑をかけるんじゃないかと思って……」

 俯きながらもっともらしい言葉を口にする。

「別に怒ってはいなかったし、特に何もなかったが」

 心配を否定する言葉を伝えられ、花乃の表情に安堵が浮かぶ。

「失礼します」

 開け放したドアからいきなり声が聞こえ、花乃が振り向く。すぐ傍にいる声の主を確認すると、表情が再び変わり後退りだした。

「花乃?」

 不思議そうな表情を浮かべる天弥が、花乃を見る。花乃は天弥の表情や雰囲気から、普段の天弥であることを知り、安堵のため息を吐いた。

「花乃も先生に呼ばれたの?」

 花乃は何とか首を動かし横に振る。

「あの、私……」

 突然、花乃が斎に向かって軽く頭を下げた。いつもの天弥である事は分かったが、いつ昨日のような状態に変わるのか知れず、一刻も早くここから逃げ出したい衝動に駆られたのだ。

「失礼します」

 そう言い、踵を返すと急ぎ教室から出ようとした。

「あ、花乃」

 天弥が呼び止める声も耳に入らないかのように、花乃は部屋から飛び出し、そのまま走り去っていった。少し悲しそうな表情で飛び出した先を見つめた後、天弥は斎へと視線を移した。

 自分へと向けられた視線を確認したとたん、斎は足を踏み出す。入り口で立ち尽くす天弥の前で足を止めると、手を伸ばし天弥の腕を掴む。そのまま身体を引き寄せると、空いている手でドアを閉め鍵をかけた。

 鍵が閉まる音で、斎は自分のした行動に気がつき、平常心を装いながら、何事もないかのように天弥の腕を掴む手をゆっくりと離す。お互いの身体が触れ合うほどの距離をどうしようかと考え、自分を見上げる天弥を見た。視線が合うと、天弥は嬉しそうな笑顔を浮かべる。その表情に斎の鼓動が早まり、それを悟られないように思わず視線を逸らした。そして、逸らした視線の先にインスタントコーヒーのビンを捉える。

「コーヒー、飲むか?」

 天弥の傍から離れる口実を見つけ、斎は視線を向け直しながら尋ねた。

「はい」

 嬉しそう表情と返事を確認すると、斎はソファーを指差す。

「そこに座ってろ」

 言われた通り、天弥はソファーへと向かい腰掛ける。そして、コーヒーを淹れに行く斎を目で追った。

 白衣姿の斎の後ろ姿を見ながら、天弥は昼休みの事を思い出していた。気がついた時、すぐ目の前に端整な顔があった。あの時は突然のことで、状況を理解できずにいたが、今にして思えばと、自分の唇にそっと触れる。ふと、ありえない事を考えてしまいそうになり、脳裏に浮かんだ考えを振り払うかのように、軽く頭を振る。

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