第8話 septem
斎は、手の中にある本を見つめる。この本は、祖父から贈られたと言っていた。話を聞いている分には、今の天弥はこの本が何であるか知らないと思われるし、興味も無さげだ。何も知らないのなら、色々と尋ねても無駄だろうと、先程とは違う天弥を見つめ、考える。
言葉無くお互いに見詰め合っていると、予鈴が響いた。
「あ……僕、戻らないと」
そう言い、天弥は斎に背を向けて歩き出す。そしてドアの前で立ち止まると、振り返った。
「あの、放課後は?」
少し不安そうな表情を浮かべ、尋ねる。
「ああ……」
天弥の言葉に斎は少し考え込む。
「待っている」
返事を聞くと、天弥は嬉しそうな表情で軽く頭を下げ、教室から出て行った。
すぐに斎は椅子に座り込み、手にした本を机の上に置いた。そのまま、傍にある煙草の箱を手にし、取り出した煙草を咥え火を点ける。吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出すと、この後の授業がないことに安堵する。一気に、気力を削られた。あの時、完全に理性は無く、美しい存在に囚われていた。
まるで別人のようなあの天弥はなんだったのかと、自分の心を捉えた存在を思い返す。現実との認識に違和感を覚えるようなその存在に興味を惹かれ、用が済んだにも係わらず、放課後に待っていると返事をしてしまった。だが、あの天弥に興味を持つのは、ラテン語を理解し、この本についても何か知っていそうだからと、何度も自分自身の感情を否定するかのように言い聞かせた。
それでも、放課後はどちらの天弥が来るのかと考えながら、パソコンのモニターに向かい、メールを書き始める。それには、今、手元にある本の詳細と、近いうちに会いたい旨が記された。
放課後、開け放した窓から生徒達の声が聞こえてくる。それは、部活動に励む生徒達や、帰宅の途につく生徒達など、様々なものだった。斎は椅子の背もたれに身体を預け、煙草を手にぼんやりとそれらを耳にする。
斎以外、誰もいない室内に丁子の爆ぜる音と香りが広がっていた。職員室は禁煙の為、重度の喫煙者には肩身の狭い場所である。その為、ここを喫煙室代わりに使わせてもらっているのだ。幸いな事に他の数学教師に喫煙をする者はなく、一人気ままに過ごすことが出来る状況を、とても気に入っていた。
煙草の先から揺らめく紫煙を、取り留めも無く見つめていると、小さくドアをノックする音が室内に響いた。鼓動が早まり緊張が走る。ゆっくりとドアが開く音が聞こえ、手にした煙草を灰皿へと押し付けた。
「失礼します」
室内に響く声を聞いたとたん、緊張感が一気に消え、鼓動が落ち着きを取り戻す。落胆しながら振り向いた視界に、花乃の姿が入る。
「どうした?」
斎の声に、花乃は室内へと足を踏み入れた。
「ごめんなさい……」
花乃は謝罪を口にしたとたん、斎に向かって頭を下げた。
「昨日の本、返してください」
その言葉に、斎は机の上の本を手に取る。頭を上げた花乃は、掲げられた本へと視線を移した。
「すみません、それ、兄に無断で持ち出したんです」
微かに、花乃の身体が震えているのが分かる。その様子に、この本のことで何かあったのだろうかと考えた。
「この本なら、昼休みに本人から承諾を貰った」
思いがけない言葉に花乃は驚き、身体の震えが大きくなり、不安を浮かべた表情を斎へ向けた。
「あの……、兄の様子は……」
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