あの川の向こう側に
川沿いに建ち並ぶ裕福な人びとの屋敷は、まだ橋の反対側に住んでいた当時の僕にとって、「豊かさ」という不鮮明でとらえどころのない概念を象徴するものであった。もし彼と出会わなければ、今でもこの町は単なる憧憬の地でしかなかったはずだ。
ただ、毎晩のように考える。本当に彼と出会うべきだったのか。憧れは夢のままに終わっていた方がよかったのではないか。答はつねに不安定に揺れうごいている。それは今だ僕につきまとう、過去の面影のせいなのだ。
『この世の中は他の誰かになりきらないと生きていけないんだ。理想の自分なんてものはいくら払ったって手に入らないのさ。そんならぼくは君になりたいよ。君の名前がほしいよ。交換しよう。いいだろう』
目をすっと細めて浮かべる、柔らかな微笑。心が遠くにさ迷いでてしまって、それがすっぽり入っていたはずの、何もなくなった空間を、優しく隠しているような。あの表情をまた見ることが叶うなら、今もっている財産を全て投げだそう。
彼は豊かな暮らしを僕に譲って、代わりに自分を縛りつけるものから解放された。橋を渡った彼はどうしているだろう。「自由」は彼を幸福にしただろうか。僕はときどき、昔の名前が恋しくなる。
交換しようと、そう言ったね。とんでもない。君は自分の名前を無理やり押しつけたんだ。声や癖を真似たって、君にはなりきれなかったよ。自分がいかに中途半端な存在であるか、周りに気づかれていなくとも僕はちゃんとわかってる。
訳もなくベッドの中で目が覚め、冷たい汗が首を伝う時、昔の記憶が投げ槍のように飛んできて脳に突き刺さる。それはまず耳を乗っとり、目の奥にじわじわと染みこんでくる。星の瞬く音さえ聞こえてきそうなほど静かな夜、幼い彼の幻影を見ながら、彼の名前を──かつては僕のものだった名前を──ぽつりと呟いてみるのだ。川の向こう側へは決して届かないと知っているのに。
ねえ、会いたいよ。もう一度。
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