春流し
小川が澄んだ声でうたい、木々がこくりこくりとうたたねをはじめ、わたしのペンは忙しく紙の上に文字をはきだす。薄いガラスにふれるように、優しく、そっと、彼らが残していった春をつづっていく。
ひさしぶりに会った彼女は上品な美しさを身にまとい、生きいきと『今』を過ごしていた。「ときどき、昔のことを夢にみるの」彼女は懐かしそうに、真っすぐわたしを見ながらいった。
「あなたたちと三人で物語にひたっていた日々。紙に閉じこめてしまいたいと思っていた大切な時間。だけどそれを手放したことを惜しいとは思わない。私は今も十分に幸せだもの」
「できるならずっとあの頃にとどまっていたかったけど」彼は寂しそうにほほえみ、足元に視線をおとす。
「彼女が前へ進むなら、ぼくも一緒にいこうって決めたんだ。いつまでも同じ場所にはいられないからね」
みんなでつくった物語はどうしたの? と彼らはきいた。くちびるが震え、喉がつまる。わたしはやっとのことで口をひらいた。
「川に流しちゃった」
──物語は水にのまれてどこかにいっちゃった。あなたたちが離れていったから、わたしもぜんぶ捨てちゃった。何をいったって遅いよ。後悔したって知らないからね。春はもう戻ってこないの。わかる? ぜったいに戻ってこないのよ。
彼らは一言、「そう」とだけ呟いた。それだけ。あとは何もなし。わたしは唖然として二人を見つめた。きっと彼らにとっては過去のことなのだろう。そう理解するのに、長い、長い時間がかかった。
愛した少女はもういない。好きだった男の子も大人になった。それなのに、わたしは成長しない。この身から溢れそうな物語を書きつらね、忘れるため川に流しても、後からあとから『あの頃』はわいてでる。
わたしだけがまだ、春に生きている。
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