第6話 人面魚
プールの授業が好きだった。
夏。
灼熱の教室に、流れる汗に、湯だった脳みそでは悲鳴も上げられない。
そこに来ての、プール。
暑苦しい制服を脱ぎ捨て、冷たい水へ。
一気に視界が開ける。
そして、その開けた視界に飛び込んでくるのは――肌、肌、肌!
惜しげもなく晒された、同年代の女子の生肌である。
この世の至福を見つけたり。
しかし、この学校にはプールの授業がなかった。
プールはあるのに、だ。
校庭に併設されているプールは水泳部員専用――という事でもなく、水泳部は近くの市民プールで練習している。
ガッテム!
いったい何のためのプールなのか!
そこでプールを覗いて見る。
三階建ての部室棟の屋上――普段はマネージャーが洗濯物を干したりしている――からは、プールがよく見える。
プールには常に水がはってあった。
しかし、使用されていないため当然たいした管理はされていない。
その証拠に、プール一杯にはられた水は深い緑色をしていた。
何故、そんな状態で放置されているのかと言えば、そこで泳ぐモノがいるからだ。
黒や赤、白に紅白の斑点、中には金色まで――緑の陰から見え隠れするその姿――魚影の正体は、鯉。
誰が、いつ、何故、などの疑問はあるが、いつの間にか学校のプールは鯉に占領されたいた。
人間を差し置いて魚風情が悠々とプールを泳ぐその姿はまさに怒髪天を突く光景であった。
「お前何言っての? 暑さで頭湯だったの?」
一緒にプールを見下ろしていたイケメンが興味なさげにスマホを操作している。
見ているのは幼女向けのアニメ。
二次元にしか興味がないらしい。
「あ? 当たり前だろ! この暑さで中女子の裸も見れないなら、正気なんて捨てて湯だった方がマシ!」
「……俺、時々お前の事スゲェと思うわ」
「はんッ」
この気持ちはサッカー部のイケメン男子高生には分からないだろう。
そこに居るだけで女子が群がってくるヤツには。
まるで、公園の池で鯉に餌を上げる人の如く女子を惹きつける。
それに嫌気がさして、時々この特等席に現れるのだ。
この世の中は資源は有り余っているのに、求めるところにモノは集まらず、必要としていないモノのところに集まっていく。何という資源の無駄遣い。まったくいい迷惑だ。
来るなら水着姿の女子も連れて来い。
「相変わらず発言が無茶苦茶だな」
「正気で欲望が満たされるか‼」
「分かった分かった。存分に発狂してくれ」
「応ともよッ」
そんなある日。
「俺、大変な事に気が付いてしまったのかもしれない」
「どうした? 今日は口調までおかしいぞ」
今日も今日とてピーチクパーチク
そんな暇があったら、囀っている口に突っ込むモノがあるだろうに。
青春の
「はいはい。で、大変な事って?」
「ああ、忘れるところだった。――あの鯉どもは何で鳥に食べられないと思う?」
「ん? デカいからじゃね?」
「いや、近所の川でサギが鯉丸のみにしているところを見た事がある」
「凄い場面見てるなぁ」
プールには特にネットなどの鳥獣対策などはされていない。
生い茂っている藻で姿を隠しているというものあるだろうが、あの鮮やかな色はそれだけだはそうそう外敵から隠れ切る事は出来ないだろう。
「アイツ等の中に主がいるみたいなんだ」
「は?」
「だから主だよ、主! そいつが群れを率いてるから外敵から身を守れてるみたい何だよ」
「正気か? あ、正気ではなかったか……。てか、そもそも鯉って群れるのか?」
「バカやろう! 普通起こらない事が起きてるから大変なんじゃねぇか」
「あぁ……なるほど?」
ようやく理解が追い付いたようだ。
「で、その主がいたら何なんだよ?」
コイツ正気か?
「お前にその顔で見られるのは凄いイラっとするな」
バカにバカにされるのは何とも不快だ。
「主がいるって事は、そいつと交渉できるってことじゃねぇか」
「は?」
「知らねぇのかよ。何のためにアニメばっか見てんだよ。いいか? 主ってのは他の個体より強くて大きくて、何より賢いんだ。分かるか? 賢いんだ」
「ああ。だから何だよ?」
「何で分かんねぇんだよ。天は二物を与えずってのは本当だな。いいか? 賢いって事は会話ができるって事だろうが!」
「……俺、今度女子連れて来るわ」
何故か哀れまれた。
「おう、ようやくその気になったか。だが、それとこれとは別問題だ。俺はプールの解放に向けて動き出す!」
「……ああ、ほどほどにな? 今度女子連れて遊びに行こうな」
「応ともさ!」
数日後。
「なあ、お前大丈夫か?」
いつもの屋上で、プールを見つめていると背後からイケメンの声がした。
「あ? 大丈夫に決まっているだろ! 絶好調も絶叫調! 交渉も大詰めだぜ」
「そうか。……最近変な噂聞くんだけど。――夜中にプールで誰かがしゃべっている声がするって」
「高校生になって怪談か? 俺あんまりそう言う話詳しくねぇぞ」
「いや。……知らないなら良いんだ。それより少し寝たらどうだ? 凄い隈だぞ」
「あ? ああ。そう言えば最近寝ても疲れが取れない感じなんだよな」
「何ならここで少し寝て言ったらどうだ? 下校時間が来る前には起こしてやるからさ」
「何だ? 今日はやけに優しいな」
「まぁたまにはな」
「じゃあ、お言葉に甘えるわ」
※
スースース―
規則的な息遣いが聞こえる。
「良かった。ちゃんと寝たか」
イケメンが安堵したように呟いた。
最近のコイツはオカシイ。
いや、前からおかしなヤツではあったが、今のコイツのおかしさは何かヤバい。
目が血走り、プールを見ながら何かつぶやいている。
前の様に女子、女子とも言わなくなった。
おかしくなったのは、『主』がどうこうと言い出してからだ。そこへきて、プールの怪談の噂。関連付けない方が無理というものだ。
「でも、あの様子だと怪談の事も知らないみたいだしなぁ。本当にただの寝不足ならコレで解決だな」
安堵すると、急に睡魔が襲ってきた。
少しだけ、と瞼を閉じる。
「はッ⁉」
飛び起きると辺りは真っ暗だった。
「やべぇ。やっちまった」
少しのつもりが見事に寝過ごしてしまった。
「すまん――ってあれ?」
慌ててアイツを起こそうとしたが、その姿はすでになかった。
おいて帰られてしまったのか?
「何だよ。帰るんなら起こしてくれてもいいだろうに……まぁ、でもコレで前の調子に戻ってくれるんなら良しとするか」
特別仲が良い訳では無い。その証拠にこの場所以外で会話をしたことなどない。
だけど、何となく気安い関係。
互いに干渉しすぎないから一緒にいて苦にならない。
そんなヤツが日に日にオカシクなっていくのは流石に見ていられなかった。
「明日は誰か女子連れてこようかな」
帰り支度をしながら、ふとプールの方を見る。宵の帳は既に降り辺りは闇に包まれていた。ライトアップされている無人の校庭。サッカー部や野球部の声が下の方から微かに聞こえる。彼らももう帰るのだろう。
暗いプールというのは何とも不気味だった。
「サッサと帰るか――え?」
視線を逸らす一瞬前に何かが視界を過った。
「あれ、気のせいか?」
しかし、校庭の照明によって微かに浮かび上がるプールは先程までと同様に無人だった。
「やっぱり誰もいないか……」
気になってプールに忍び込んでしまった。
使われていないせいもあるのだろうが、施錠された入り口は簡単に超えることが出来た。
校庭の照明は既に消され、光源は手の中のスマホだけ。
プールの枠に沿って灯を動かすが、何も、誰もいない。
プールを満たすのは明りまで吸い込んでしまいそうな黒い水。
濁ったどぶ川の様な匂いと、生魚の匂いが合わさった様な不快な匂いが鼻につく。
アイツの様子が気になって、さらに変な噂も聞こえてきて、こんな時間にこんなところまで来てしまった。
どうやら俺にとってアイツは思いの外友達だったようだ。
苦笑いを浮かべる。
何も見つからなかったが、気付いたこの気持ちだけでも来た甲斐があったとしよう。
ちゃぷん
帰ろうとプールに背を向けると、背後で何かが跳ねる音がした。
そう言えば、アイツが『主』がどうこう言っていた。
興味が湧き、再びプールに近づき水面を照らす。
生い茂った藻で水中の様子は殆ど分からなかった。
「ま、そうだよな」
自分の行動に呆れてしまう。
今度こそ帰ろう――そう思った時だった。
キラッ
水面が光った。
目を凝らす。
揺れる水面と藻。
さらにジッと見つめていると、それは現れた。
金色の体表に、通常の個体の倍はあろうかという魚影。
金色の鯉がゆっくりとこちらに向かって泳いで来た。
鯉は口をパクパクとさせ、餌を要求するように泳いでくるいイメージがあったが、この鯉は違った。
只、こちらに向かってゆっくりと――顔は見えない。
そして、手を伸ばせば届きそうなほど近くまで来た。
顔が上がる。
『――別モノか』
「――――!」
聞こえてはイケないところから聞き慣れたモノが聞こえた。
顔を上げた金色の鯉は口を動かした――まるで喋っているように。
その動きに合わせて、脳髄に直接響くような声が聞こえた。
訳も分からず駆け出していた。
プールの柵を飛び越え、着地に失敗しながらも這うようにして逃げた。この場所、この敷地、この空間から少しでも遠くへ。
翌日。
眠たい眼を擦るながらも登校した。
本当は休みたかった。身体が重い。頭が痛い。気が滅入る。
だけど、それ以上に確かめなければならない事があった。
気怠い体と脳に焦燥感をミックスさせながら、放課後までの時間を過ごした。
ダッ ダッ ダッ
「はっ はっ はっ!――はぁーーーー」
放課後、足音と呼吸も荒く、部室棟の屋上へと駆け上がった。
そこに見慣れた背中を見つけて、安堵の溜息が出た。
「おい、昨日何で先に帰ったんだよ? 起こしてくれても良かっただろ」
安堵と共に憎まれ口が零れた。
「……」
返事はない。
「おい何だよ、無視すんなよ」
「……」
「ああ、確かに昨日は起こすって言って寝ちまった俺も悪かったよ。置いて帰った事はもういいからさ、お前も機嫌直せよ」
「……」
流石におかしい。
「おいっ」
肩に手を置き乱暴に振り向かせる。
するとその顔は半分隠れていた――マスクによって。
「何だよ。風邪でもひいたのか」
俺の問いに、喉に手を当てることで答えた。
どうやら昨日こんなところで寝てし待ったため風邪を引き声が出ないようだ。
「マジかよ。ホント悪かった。今日はもう帰れよ。で、風邪が治ったら女子連れてどっか遊びに行こうぜ」
「……」
無言のまま一瞬プールを振り返り、頷くとゆっくり階段を降りて行った。
「ふぅ~」
大きなため息が出た。
昨日の夜から胸につっかえていた重しが取れた気分だ。
まったくどうかしていた。
それまでのアイツの雰囲気や噂、
金鯉がアイツの口で、アイツの声でしゃべるなんて。
翌日。
今日も部室棟の屋上にはアイツの背中があった。
「風邪良くなったのか?」
「……」
返事はない。
どうやらまだ喉の調子は悪い様だ。
「おい。プール眺めるのは風邪が治ってからにしろって」
呆れて肩に手をやり振り向かせると――顔のほぼ全てが隠れていた。
昨日のマスクに加え、今日は大きなサングラスとゴーグルの間の様なものを掛けていた。
「……どうしたんだよ、それ?」
あまりの怪しさに若干引く。
「……」
やはり無言のまま目を擦る動作。
「ああ、花粉症か? にしても完全装備だな。でもそうか、花粉症なら中々良くならないかもなぁ」
俺自身は花粉症じゃないので分からないが、急になって、症状も重く、一年中眼の痒みや鼻水に悩まされる人もいるとニュースで見た事がある。
「悪い事言わねぇから病院行って暫く家で大人しくしとけって」
「……」
無言で頷き、帰る準備を始めた。
その時、急に強い風が吹いた。
一瞬だった――風に煽られ、マスクが少しズレたように見えた。
そして、その下に見えたモノは――――――
「お前! ソレッ――」
すぐに元に戻されたマスクの下を確認しようと詰め寄ったが、逃げるように走り去っていた。
「……」
茫然とその後姿を見つめるしかなかった。
夜。
俺はプールの建物の陰に隠れていた。
暗闇の中ただその時を待っていた。
昼間吹いていた風も止み、虫の声もしない無音の闇。
静かすぎて、キー―ンという耳鳴りがし始めた。
その時、
ザッ ザッ
足音がした。
足音の主は俺に気付かないまま、プールに忍び込んで行った。
俺も音を立てない様に後に続く。
灯も付けづにプール脇に座り込む。
そして、闇の中水面が光を帯びて揺れ出した。――いや、水中にいる何かが光っているのだ。それがゆっくりと近づいて来る。
『来たか』
「パクパクパク」
『今宵で最後』
「パクパクパク」
『さあ飛び込め』
アイツの声が、アイツじゃない口調でしゃべっている。その間で間抜けな効果音が小さく聞こえた。
「待てよ」
俺はスマホのライトをつけ、姿を現した。
ライトは水面とアイツを照らす。
マスクとゴーグルが取り外された素顔――鯉のような丸い口と丸い眼玉がヒトのあ顔の上に在った。
鯉の顔の上にヒトの口と目が合った。
「―――――ッ‼」
言いようのない恐怖と、憎悪、寒気が足元から背筋を一気に這い上がっていった。
「どうい事だよ、その顔は?」
恐怖に震える口をどうにか動かし、疑問を声にする。
『お前はこの前のヒトの子か』
それに答えたのは
『どうもこうもない。儂はソイツと取って代わるのだ』
「は?」
『まずは口を、そして目を、鼻を。そして最後に身体をいただく』
「ふざけんじゃねぇよ!」
怒りが恐怖を凌駕した。
友達の声で友達を奪うと高圧的に喋る何もかもが許せなかった。
水面目掛けてスマホを投げつけた。
バシャ―――ン!
凄まじい水飛沫が上がった。
「ほら、帰るぞ!」
強引にアイツの手を取り立ち上がらせた。
今後の事をどうするとか、そんなことまでは考えが回らなかった。
ただこの場から、逃げることだけを。
依然の自分の様に。
手を引き走る。
僅かな距離が凄く遠く感じる。
一歩一歩が重い。
喉が怒りや焦燥で干上がる。
出口までもう少し――その時、急に身体が軽くなった。
「――え?」
間抜けな声が漏れた。
振り返ると俺の手を振りほどいたアイツがプールに飛び込むところがスローで見えた。
まるで映画のワンシーンをスロー再生しているように。
ゆっくりと。
現実味がなく。
たが、その作り物の映像のような景色の中で確かに見えたのは、水面にある人面がニヤッと笑ったところだった。
スマホより遥かに大きいヒトが飛び込んだのに、プールの水面はそれほど揺れなかった。
ただ、ポチャンと小さな音が一つ。
波紋が水面に広がり消えていった。
※
気が付くとベッドの上だった。
久しぶりにぐっすり眠れたのか身体が軽い。
今日は久しぶりに放課後みんなで遊びに行こうか、などと考えながら登校した。
「〇〇おはよー。ねぇたまには遊びに行こうよ」
「あ、あたしも行きたい」
「え、今日〇〇遊べるの? じゃあ私も部活休むぅ」
教室に入ると数人の女子が集まってきた。
「そうだね。カラオケでも行こうか」
「マジ? やったー」
「噓じゃないよね? 〇〇最近付き合い悪かったけど」
「ああ、確かにそうだったかも。ゴメンね」
「いや、別にいいんだけどさ」
上目遣いに謝ると、顔を赤くしてそっぽを向かれてしまった。
確かに最近女子と遊べていなかった。
何か用事があった気がするが、思い出せない。
少しモヤモヤするが、大切な事ならその内思い出すだろう。
今日は久しぶりにパッと遊ぶ事にしよう。
「だけど一対三かぁ。もう一人くらい男子が欲しいなぁ」
そう呟いて教室を見わたす。
少し控えめな女子たちからの羨望の視線と、男子生徒からの呪詛の眼差し。
んん~。困った。誘える人がいない。
「おはよー」
その時教室の扉が開き、一人の男子生徒が入ってきた。
「あ、●●君今日放課後一緒に遊びに行かない?」
その顔を見た途端、言葉が口から零れ出していた。
自分で自分の言葉に首を傾げる。
しかし、相手はそうでもないようで、
「もちろん! 約束だったからね」
満面の笑みでそう答えた。
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