いまは遠く聴こえる歌

阿下潮

A-side

「私たち、もう別れた方がいいね」


 自分の口からこぼれたはずの言葉は、誰かが窓の向こうで喋ったみたいに、どこか遠くの方から聴こえた。


——

 あなたの弾くベースが好きだ。

 あなたと会うまでは、ギターとベースの区別もついていなかったのに、生まれて初めてライブハウスに足を踏み入れ、音の大洪水にもみくちゃにされた瞬間、私の世界は一変した。それまでもお気に入りの歌手のCDを買って聴くことはあったけど、音が視えたと思ったのは初めてだった。私には、あなたの刻んだ音が視えた。


「打ち上げ、来るでしよ?」


 ライブが終わると、歌う時と同じくらい強引な力強さで、ヴォーカルのあの子に連れていかれた居酒屋。偶然あなたの隣になって、ひそかに緊張した。

 乾杯もそこそこに、飲み会の場はすぐに乱れた。台風みたいな騒ぎの中で、あなただけがゆっくりビールを飲みながら手羽先をむしっていたのが面白かった。


「どうだった? 俺たちの曲」


 こちらも見ずに聞かれたから、それが私に向けて発せられた言葉とは、しばらく気がつけなかった。


「……あ、え? あの……、すごく、よかったです」

「どのへんが?」

「なんて言ったらいいか分からないんですけど……、全部?」

「そっか。ありがとう」


 今ならあなたの音楽のどこがいいのか、言葉を尽くして伝えることができるのに。

 一音一音はとても無骨で荒々しいのに、飴細工みたいにどこか繊細で儚い。流麗で艶めいた滑らかさがあるかと思えば、小悪魔じみたあどけなさで遊んでいるようにはじける。完全な矛盾をはらんだまま、聴く者全員に時間と空間を強制的に忘れさせるような音。

 ……でもごめん、どれだけ言葉を並べてみても、やっぱり全部嘘みたいに聞こえる。ただ、好き。それだけ。

 今はもう、私には聴くことができない。あなたの音楽は、私の前から消えてしまった。私が消した。


 打ち上げのあと、帰る方向が一緒だからと送ってくれた道を、これからは一人で歩く。あの時、少しでもあなたと一緒にいたいとゆっくり歩いた道は、今はたくさんの人が行き交っていて歩きづらい。

 ライブの打ち上げが終わるのはたいてい深夜だったから、人通りの途絶えた道は歩きやすくて、いつもふたりではしゃぎながら帰った。歩道橋の上と下でロミオとジュリエットごっこをしたり、道路を挟んだバス停の看板を入れ替えようとしたり。あなたのいなくなったこの街に、あなたとの想い出があふれている。私はそれを一つ一つ拾い上げながら、今日も一人で歩く。


「またソールドアウトになったよ」

「当たり前でしょ? あなたの音楽は最高の最高だっていつも言ってるじゃん」


 バンドが有名になることで、あなたの音楽がたくさんの人に届くようになることが嬉しかった。演奏するライブハウスのキャパシティは倍々に大きくなっていった。

 バンドの人気に比例するようにチケットが入手困難になっても、私はいつも最前列でライブに参加できた。


「だって、その方がベースがいい音を出すんだから、仕方なくない? 必要経費みたいなもんだよ」


 そういって、あの子はチケットを送り続けてくれた。そのおかげで私はいつだって、自分の背丈くらいありそうなスピーカーのすぐそばで、体が浮かび上がるような圧力を感じながら、あなたたちの音に浸ることができた。

 ライブが終わると、ふわふわする体を繋ぎ止めるみたいに、あなたと手をつないで帰る。火照った右ほほをあなたの左腕にくっつけると、あなたの規則正しいリズムが聞こえるような気がして、幸せだった。ポケットの中で私の右掌を包んでいたのは、何にも代えがたいあなたの左掌だった。


 ステージのすぐ近くで演奏を見続けていると、あなたたちが目に見えない何かで繋がっているように感じることが増えた。もちろんそれはリズムを感じ取るためだったり、演者同士にしか分からないタイミングを計るためだったりするのだろうけど、あなたとあの子のそれは、他のメンバーと交わす目配せとは別のもののように見えた。


「ごめん、このあと打ち合わせだから、今日は一緒に帰れない」


 その頃から、あなたはあの子とふたりで残り、私はひとりで帰ることが多くなった。電車でひとり、右耳のイヤフォンから聴こえてくるのは、あなたが作った曲で。左耳用のイヤフォンはあなたのためにとってあるのに、あなたがいない右隣は、髪を切りすぎた時のうなじのように心もとなく、肌寒かった。


 あなたとあの子だけが、世界デビューのオーディションに受かったと聞いた時、ああ、これか、と思った。私みたいな人間が、あなたと繋がっているなんてことがあるはずなかったのだ。あの子だったらあなたの左側にふさわしい。


「年が明けたらロンドンに拠点を移して、あっちでレコーディングとかすることになるんだ。だから、君も」

「私は日本に残ってこれまでどおり応援する。あなたはあの子と二人で、これまで以上にいい曲を作れるよ」


 私の言葉を受け止めたあなたの表情は、笑っているようにも泣いているようにも見えた。


「俺たち、これで終わりなのか」

「終わりじゃなくて、始まりでしょ? あなたの音楽が世界中に届くなんて、ファン冥利に尽きるよ」

「君は⋯⋯、大丈夫なのか?」

「心配してくれてありがとう。でも、私が愛したのはあなたの音楽だから」目をそらしたらだめだ。「あなたがいなくなっても音楽は残るから」


 しばらくして、あなたが渡英したと、解散したバンドのドラムだった人がメールで教えてくれた。なんとなく灰色の空を見上げたけど、そこには何もなかった。何もないから空なのだろう。

 喪ってから気がつくなんて、当たり前すぎて笑っちゃうけど、あなたは私にとって、音そのものだった。あなたにもたれて眠った日曜日は、あなたがいなくなったら、こんなにも静かなのだと思い知った。朝、起きたはずなのに、いつの間にか窓からは夕陽が射し込んでいる。静寂で耳が痛くなって、逃げるように部屋を出た。

 外は天気雨だったけど、気にせず歩く。どこへ行きたいわけでもないのに、駅前の噴水広場まで来た。幾何学模様のタイルが透けて見える水面に夕陽が反射している。辺り一帯が黄金色に包まれる。

 その時、頭上の大型ビジョンから降ってきた旋律が、あなたの作った曲で。私の前からあなたがいなくなっても、あなたの音楽は私の中に響き続けていて。私が覚えている限り、思い続けている限り、それはきっと壊せないラブソング。

 黄金色の光の中を、鳥が飛び立つ。

 あなたは今、何をしていますか。あなたも今、光に包まれていてほしいと思うのはわがままですか。

 あなたの歌が、聴きたい。

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