第17話


 富士見坂ふじみざかの下、耕地こうちを隔てて向かふの方、西へ登る坂をいふ。と、道玄坂どうげんざかは、江戸名所図会えどめいしょずえに記されている。

 この坂が道玄坂と呼ばれるようになったのは、和田義盛わだよしもりの一族、和田氏道玄が、この坂を拠点として盗賊稼業とうぞくかぎょうをおこなっていたからだという。道玄は坂の上にある松の木に登り、往来おうらいの人を見下して金品を持っていそうな旅人を襲っていたらしい。

 坂の両側は一面の畑で、枯れ尾花おばなが風に吹かれて乾いた音を立てている。

 釼一郎は帰路を急いでいた。

 霜月しもつきの日暮れは早い。すっかり日は傾いて、西の空を赤く染め始めている。

 この日は、平河町の山田家まで戻るつもりであったが、加藤仁斎との話が弾み、つい長居をしてしまった。駕籠かごかきに酒手さかて奮発ふんぱつしても、日没までにはとても間に合いそうになかった。

 薬草を栽培をするために、釼一郎は渋谷村にある金王こんのう神社の裏手に家を借りている。近くに住む年寄りに畑の世話と留守を任せており、いつ行っても寝泊りはできるようにしていた。

 今晩は渋谷に泊まり、明日の早朝に山田家へ戻ろうと心づもりした時だった。

 道の真ん中に立つ浪人の姿が見える。  

 釼一郎は編笠あみがさを深く被り、足早に脇を通り過ぎようとする。

「お主、小谷釼一郎こたにけんいちろうだな?」

 浪人が釼一郎に声をかけた。釼一郎は脇目もふらず駆け出した。

「おい! 待て!」

「待てと言われて待っちゃいられませんよ!」

 釼一郎は叫んで、さらに足を速めた。すると、釼一郎の前をさえぎるように、一人の浪人が脇から出て来て叫んだ。

「小谷釼一郎! 妻のかたきだ!」

 その声を聞いて、釼一郎は前につんのめりながら立ち止まった。腰の刀に右手をかけ、左手で編笠を上げて男に向かって問うた。

「仇? ……あなたの妻はもしや咎人とがにんでしたか?」

 釼一郎も首斬り役人という仕事柄、罪人の女を斬ったこともある。思い当たる節がないわけではない。

「なにを言う。拙者の妻は罪を犯すような女ではない」

 格之進は声を荒らげた。釼一郎も自然に声が大きくなる。 

「では、あなたは一体誰です? この小谷釼一郎、罪のない女に手をかけたことなど、生まれてこのかた一度もない」

「拙者は、御池格之進みいけかくのしん

 抜刀ばっとうしながら、格之進は釼一郎に答えた。釼一郎は首を傾げる。

「……御池? いや、儂に心当たりはありません。人違いではありませんか?」

 距離を取って青眼に構えた格之進と、追い付いて来た石堂、薬師寺がそれぞれ抜刀し、釼一郎を取り囲んだ。格之進は厳しい口調で釼一郎に言放った。 

「お主が知らぬのは無理はない。拙者の妻は労咳ろうがいで死んだ。お主ら山田家が人肝丸じんたんがんなどという効きもせぬ薬を高値で売りさばいたせいでな。お主らのような悪事を許すわけには参らん!」

 その言葉に反応して、釼一郎は刀の柄から右手を離す。

「労咳? ちょっと待ってください。あなたは心得こころえ違いをしている」

「なに?」

 格之進の右眉が釣り上がる。

「今の医術では労咳を治すことは難しい。いや、労咳に限らず、多くの病は神仏に頼るしかありません。それでも、医者はその時その時で一番良い手を選ぶんです。人肝丸は、その一つの手段でしかない」

 語りかける釼一郎の言葉は、熱を帯びて格之進をひるませた。

「し、しかし、医者は人肝丸で必ず治ると言っていたのだ」

 ゆっくりと釼一郎は頭を振った。

「心ある医者は、必ず治るとは言いません。日本より医術の進んでいる蘭学らんがくの医者でも治せぬのです。儂らは人肝丸より、まず滋養じようと申しております。滋養がなによりの薬なのです」

「そ、それでは……」

 格之進の構えが緩んだのを見て、薬師寺が叫んだ。

「御池殿! こやつの戯言ざれごとに惑わされてはならぬ! こやつらは、薬を高値で売り捌いておるのは間違いないのだ」

「格之進殿! 娘を助けたくはないのか?」

 石堂も声を張り上げた。格之進は思い直したように、再び気をみなぎらせた。

 優しい口調で、釼一郎は格之進に声をかけた。

「娘? 娘がどうかしましたか?」

 その声を振り払うように、格之進が返答をする。

「お主には関わりないことだ!」

 釼一郎は眉間に皺を寄せて言い返した。

「人を仇呼ばわりしておいて、関わりないで済ます、そいつは道理が通りませんね」

「うるさい!」

 薬師寺が怒鳴った。

「どうやら、話にならんようだ」

 釼一郎も腰の刀を抜いて、右手に下げたままだらりと立った。

 

 薬師寺は左に少しずつ位置をずらしながら、牽制けんせいを続けている。

 ——なんだ、隙だらけではないか。

 薬師寺は拍子ひょうし抜けした。この程度の相手に三人も使う、虎吉の慎重さに呆れていた。

 負け戦をなによりも嫌う虎吉は、手下を使った殺しでも万全を期す。それだけに、林左内はやしさないに放った刺客が返り討ちにあったのは、許せぬことであったのだろうと、薬師寺は思った。

 

 一方、石堂は緊張感を途切らせることもなく、構えを続けている。

 ——こやつ、油断できんぞ……。

 特に坂の下に位置した時、釼一郎がいつ飛び込んで来るかもわからず、自らの恐怖と戦っていた。

 右手に下げた刀は罠なのか、それともただのはったりなのか。釼一郎の意図を計りかねている。

 釼一郎の動きに注視しながら、薬師寺と格之進の位置を確かめる。三人は同等の距離を保ちながら、ゆっくりと立場を移動する。

 

 ——この者、ただの医者ではない。

 格之進の心中は穏やかではなかった。仇と思っていた男だが、とても悪人とは思えなかった。しかし、娘のきぬのことを思えば、ここで投げ出すわけにもいかない。一度仕事を受けてしまえば、虎吉を裏切ることは許されないのだ。

 そして、薬師寺の動きも気になっていた。釼一郎が狙って作り出しているであろう隙の罠に気付いていないのか、牽制の動きが稽古の時よりも大きい。

 三人で囲んではいるが、ひょっとすると蜘蛛くもの巣にかかったのは、こちらかもしれないと焦っていた。

 

 距離を詰めることはせず、三人はじりじりと位置を入れ替え続ける。

 薬師寺が坂の上に立ち、石堂が釼一郎から左横に立ち、格之進は坂の下に立つ形になった。釼一郎は右手に太刀を下げたまま、格之進と正対している。

 ——この男、格之進に気を取られているな。

 と、薬師寺は思った。事実、薬師寺の動きにはほとんど反応していない。構えを大きくして誘ってみたが、飛び込んで来る様子もない。

 たとえ罠だとしても、石堂、格之進が合わせて攻めれば、確実に勝てると思えた。一対一ならともかく、三対一で、あの格之進の鋭い突きをかわせる者はいない。薬師寺の中に、勝ちへの道筋が見えた。

 薬師寺が半歩ずれた時、無防備な釼一郎の背中がそこにあった。隙だらけのまたとない機会。

 勝手に薬師寺の身体が動き出していた。

「飛び込んではならん!」

 薬師寺の動きを見て、格之進は叫んだ。だが、坂の上から飛び込んだ勢いを止めることこそ格好かっこう餌食えじきになる。

 薬師寺は上段から振りかぶった太刀を、釼一郎の頭上目がけて浴びせた。薬師寺には釼一郎の動きは鈍く感じられた。強い確信を持って、そのまま剣を振り下ろした。

 石堂は薬師寺の動きに間髪かんぱつ入れず斬りかかった。斬り込むことで、釼一郎が薬師寺の剣を避けた時の隙をとらえられる。

 薬師寺の剣が釼一郎に一撃を食らわし、石堂も続く。石堂の脳裏のうりには、その光景がはっきりと見えた。

 次の瞬間、石堂の予想を上回る速さで釼一郎の身体が反転した。薬師寺の剣をよけながら、右手に持った太刀の柄で、薬師寺の背中を押した。坂の上から飛び込んだ薬師寺は勢いを増し、一歩半ほど前に出た。

 驚いたのは石堂である。釼一郎がいた場所に、薬師寺の姿が現れたのだ。しかし、時すでに遅く、力いっぱいに振り下ろした石堂の斬撃は、薬師寺の脳天を襲った。

 釼一郎は薬師寺の背中を打ったその反動を使い、右手の太刀を石堂へと走らせた。

 薬師寺と石堂の断末魔だんまつまが、重なって響き渡った。

 その光景を格之進は眺めながら、一歩も踏み出せずにいた。決して怖気おじけづいたわけではない。

 もし、不用意に突きに行けば、薬師寺を貫いていたのは、格之進の突きであったかも知れぬし、格之進が薬師寺の剣の犠牲者になっていたかもしれない。たとえ相討ちは避けられたとしても、釼一郎の剣は誰よりも先に格之進を狙っていただろう。

 それだけ釼一郎の動きは、三人が思いもしなかった紙一重かみひとえ体捌たいさばきであり、坂の下に位置する格之進の飛び込みが、一呼吸遅れるのを見込んでのことに違いなかった。

 ——この男、かなりの修羅場しゅらばを踏んでいる。

 格之進は恐ろしさと同時に、一種の喜びが身体を駆け巡り、血のたぎりを感じた。

 剣士として稽古を積んできたが、これほどに腕の立つ者と対峙たいじしたことはなかった。いや、剣の腕だけで言えば、天然理心流てんねんりしんりゅうの剣士達が上かもしれない。 

 しかし、これほどまでに緊張感のある命のやり取りは、味わったことがない。

 目の前に立つ強い男と剣を交える。これこそが武士に憧れた格之進の生き甲斐だったのではないか。

「ヤー!」

 格之進は、娘のきぬのことすら頭から消え失せ、思わず腹の底からかけ声を出していた。


 空気を震わすような気合の入った格之進のかけ声に、釼一郎は内心焦りを感じた。相討ちに誘い込む起死回生の策は見事に決まったが、一番仕留めたかった格之進が無傷である。薬師寺と石堂の動きを見守ったことで、格之進の力量が見て取れた。

「トー!」

 格之進の鋭い斬り込みに、釼一郎は大きく後ろへ下がった。うっかり受けてしまえば、弾き飛ばされるか、止め切れずに斬り殺されていただろう。

 ——逃げるが上策……。剣を交えるは下策。しかし……。

 釼一郎は思案していた。

 格之進の剣には、先ほどまでの迷いはない。確かに三人がかりの方が、負けない戦い方であり、勝利への常道であっただろう。釼一郎はそこに生じた三人の油断を利用したに過ぎない。

 だが、今の格之進が欲しているのは、勝ち負けではない。決死の戦いそのものなのだ。釼一郎が勝つにしても、無傷ではいられないだろう。

 いつもの釼一郎なら、尻に帆をかけて逃げ出すのだが、格之進という男から漂う悲壮ひそうな覚悟が釼一郎を踏みとどまらせている。

 この勝負を避けた己自身を、果たして許せるであろうか。

 釼一郎は腹をくくった。

 坂の上という地の利を失わないように、飛び込みを警戒しながら、格之進の行く手を阻もうとする。

 しかし、格之進の気組きぐみは凄まじく、じりじりと後退を続けていた。 

「ヤー!」

 格之進の鋭い袈裟けさ斬りが、釼一郎に襲いかかった。紙一重でさけられるような太刀筋ではない。再び距離を取る。

 格之進は右脇構えで、さらに前進してくる。格之進に気圧けおされ、釼一郎は不用意に、一歩後ろに下がりながら上段に振りかぶった。格之進はすかさず一歩踏み込み、みぞおちに突きを入れる。

 釼一郎は下がりつつも身体を曲げて、これをかわそうとするが、格之進の太刀の切先が着物を貫き肉まで届いた。

 胸元に激痛が走った。

 地の利が無ければ、決め手になるほどの鋭い突きである。釼一郎はさらに一歩下がろうとした。

 これこそが格之進の狙いだった。

 格之進は全身全霊ぜんしんぜんれいを込めて、釼一郎の喉元目がけて突きを入れた。

 慌てた釼一郎は石につまずき、右足を取られたように体勢たいせいを崩した。偶然にもこの動きが、すんでのところで格之進の突きから釼一郎を救った。

 だが、思いがけない転倒で、釼一郎は受け身を取れぬまま地面に叩きつけられた。太刀を持つ右肘みぎひじしびれる。

 ——しまった。

 見上げると格之進は上段に構え、今まさに釼一郎目がけて刀を振り下ろそうとしていた。

 釼一郎は死を覚悟した。

 その時、格之進は一瞬、躊躇ちゅうちょした。

 格之進の中に、消えていた迷いが蘇ってくる。

 妻が釼一郎に診てもらっていたら、格之進は今ほどの辛酸しんさんをなめなかったのではないか……。転倒し、反撃できない者の命を奪うことは、憧れていた武士の振舞いと言えるのか……。

 それでも、娘のきぬを救うには、釼一郎を見逃すわけにはいかなかった。

 格之進は迷いを断ち切るように、剣を振り下ろした。

 しかし、鈍った攻撃を釼一郎が見逃すはずはなかった。覆い被さる格之進の腹に蹴りを入れて、格之進の身体を浮かせつつ、右手の太刀を格之進へ突き刺した。

 格之進は釼一郎の左横に仰向けになり、苦痛に顔をゆがませながら言った。

冥土めいど土産みやげに良い勝負が出来た。……礼を言う」

 釼一郎は大きくため息を吐いた。

「……勝負は儂の負けです」

 ふっ、と格之進は笑った。

「運も実力のうちだ。……お主に一つ頼みがある」

「なんです? 儂ができることならなんでも」

 格之進は息も絶え絶えに言葉を続ける。

「……拙者の娘、……きぬが吉原にいる。助けられなくて済まぬ、とそう伝えてくれ……」

「きぬさん……。わかりました。必ず伝えましょう」 

「頼む……」

辞世じせいはありますか?」

 釼一郎は起き上がって、格之進の口元に耳を近づける。

「……辞世はないが、一つ詩を吟じよう」

 格之進は擦れる声で、

 千山鳥飛絶

 萬径人蹤滅

 と吟じて目を閉じた。

 


 

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